『戯言遊び』
たとえば、彼は簡単に、好きだよ、とか、可愛いねとか。
望美にはよくわからない歌を引き合いに出して口説いたり、からかうようにその手に触れたりする。
そうして、ひどく簡単に、愛の言葉を冗談のように口にするのだ。
だから、望美は笑って取り合わない。
…うん、ちゃんと知ってるよ、ヒノエくん? 勿論、本気じゃあ、ないんでしょう、と、少しだけ苦笑して。
*****
――こんな静かな夜は、特に眠りが浅い。
ぞくり、と背筋を走る感覚と、ぶるりと震える身体。
何かあったのだろうかと反射的に刀の柄を握って起き上がるが、なんということはない。…自分の身体が、震えただけだ。
望美は自分で苦笑して、冴えてしまった瞼の上を押さえる。
「…ん…望美…? どうしたの…?」
「みこ…みこ……? ……もう、朝?」
彼女の動きと、物音で起きてしまったのだろうか。
もぞもぞと、間近で寝ていた朔と白龍が、それぞれ胡乱な声をあげて身じろぎする。
「…あ、ううん。なんでもないの。…ごめんね?」
二人に慌ててそう声をかけると、望美はそのままこっそり布団を抜け出して、部屋の隅、座り込んで、じわりと膝を抱える。
望美の返事に「そう…?」と、朔は相槌を打って、またすぐに眠りに落ちたようだった。
白龍は、もとより寝言に近い呟きだったのだろう。すうすう、と、気付けばまた寝息を立て始めている。
その平和な寝息に、くすり、と望美は笑みを漏らした。……けれど、まだ、胸の前、身構えるように、無意識のうちに握りこんだ手のひらは、じっとりと嫌な汗をかいて。
「……」
結局、望美はそのまま寝付くことが出来ず、こっそり部屋を抜け出した。
……まだ、朝も遠いのだろう。明かりもろくにない廊下は、ひどく暗く、床はひやりとしていた。
足裏に触れる、ひややかな感触。その感触に、ますます目が冴えるのを感じつつ、望美は真っ直ぐ家の戸口に向かう。
邸を出たいというわけでも、外に出たいというわけでもない。……ただ、「入り口」にいたいのだ。
(…ダメだなあ。いつまでも、こんなマイナスな部分ばっかり引きずってても、しょうがないのに)
――ぺたぺたと、静かな邸に、望美の足音だけが響く。
ぺたぺた、ぺたぺた。……ひた。
目的の場所までたどりついた望美は、そこで足を止め、迷った挙句に、ぺたりと座り込んだ。
そうして、先ほど部屋の片隅でそうしたように、膝を抱えてしゃがみこむ。
寝巻きとして、薄い単しか着ていないせいか。春とはいえ、いささか肌寒かった。
(…あの日は、いくら待っててもリズ先生は帰ってこなかった)
冷たい床にぺたり、座り込むようにして、望美はぼんやり考える。
(……鎌倉では、九郎さんがいくら声を上げても、いくら叫んでも、あの扉は開かなかった)
ぼんやり、ぼんやり。
……彼女しか知らない、彼女しか知ることのない、この先に待っているかもしれない未来のことを。
(京には、火が放たれていた。……弁慶さんと、景時さんは、戦から帰ってこなかった。……将臣くんとも、はぐれたっきりで)
冷たい床。
それをそっと掌で撫でながら、ここもとても熱かった、と望美は考える。
(……邸には火をつけられて、譲くんや、朔、敦盛さん、ヒノエくんとは離れ離れになってしまった)
壁の向こう、火の向こう。
ここから出ちゃいけない、と大きくなった白龍が、望美を止める。そして、とても優しく微笑みかける。
それを失っては存在していられない龍が、……逆鱗を、望美に手渡す。
(…そして、全ては炎のなかに)
――わたしだけが、時空をこえて。
ひやり。
……また、背筋がぞくりと震える。
(…………。……なんでだろう。すごく、寒い)
かたかたと、むき出しの足の先が震えている。
小さく苦笑しようとするけれど、それもうまくできなくて、望美は困惑する。
心よりも、身体が先に怯えているような。そんな感覚。
……だから、眠れなくて夜中に目を覚ましてしまう。
ただ一人、こんなところに来て、うずくまってしまう。だって、誰にもこんなこと、信じてもらえないから。
……未来を知っているのとか、時空を越えて戻ったのとか。
どう語っても、きっと戯言にしか聞こえやしない。
望美は、くすり笑って、震える指で、そっと足の指を押さえた。
「――こんな夜更けに、震えてるのかい? 姫君」
そのとき、不意にそんな声が。……背中から、唐突に聞こえて。
「ッ…! ひ、ヒノエくん!」
望美は驚いて、声をあげかける。…しかし、苦笑したヒノエに、唇を軽く手で押さえられて。
「しっ。…夜更けだって、言っただろ? まだ朝告げ鳥も鳴きやしない、真夜中だぜ。それとも、これはお前が見せてくれた、オレの夢の中なのかな? だったら、いくらでも愛の言葉を告げてくれてかまわないんだけれど」
「……〜〜ッ」
相も変わらず、立て板に水の如く。
口説き文句が呆れるほどすらすら出てくるヒノエに、望美は眉をきつく寄せる。
「……おや。可愛いらしい姫君の、ご機嫌を損ねちまったかな?」
「…知らないよ、もう…」
ぺたり、そのまま望美の肩に手を乗せて、ヒノエは隣に座ってしまった。
「……ヒノエくん、どうしたの?」
「…どうしたのって?」
「だから。……どうして、そこに座っちゃうの?」
望美の言葉に、ヒノエは「つれないね」と肩をすくめる。
「少しでも長く、恋しい姫君の傍にいたいに決まってるだろ? …ふふ、お前は駆け引きがうまいね。それとも、恋する男の心を残酷に玩ぶ、悪い女なのかな」
「……何それ」
どこかおどけたようにも聞こえるヒノエの言葉に、望美はつい笑ってしまった。
「経験、ありそうだね。…そうやって遊ばれたんだ?」
「おいおい、野暮なこと聞くなよ。…それとも嫉妬かな。可愛いね、望美は」
「…何でそうなっちゃうのかなあ」
「そうなるって、決まってるからさ」
肩に触れたままの、ヒノエの掌。
それが少し気になるな、離してくれないかなと最初は思っていた望美だったが、話しているうちに、だんだん気にならなくなってきた。
「……眠れないのかい?」
けれど、逆にヒノエの方が、さらりと肩から手を離してしまった。肩から離れたヒノエの熱を、望美はどこか物足りなく思いつつ、寝付けないの、と答える。
「ふうん。……お前の心を悩ませているのが、オレへの恋心だったらいいんだけどね…」
「……。なんで、それだといいの?」
ヒノエくんって、ホントにそんなことばっかりだね。
冗談ばかり、と笑う望美に、しかしヒノエは平気な様子で笑い返す。
「いいに決まってるだろう。…だったら、オレとお前は両想いだからね。悩みは、すぐに解決だろう?」
「…あ、なるほど…。……って、それって何か変じゃない…?」
「どこがだい、姫君? すこぶる単純だと思うけれどね」
もっとも、恋する男はことに単純だとはよく言うけれど。
ヒノエはそう付け加えながら、望美の掌をひょいと握った。
気ままな行動を、望美はけれど、二度目は咎めないまま、ちょっと笑って呟く。
「…ヒノエくん、掌あったかいね」
「お前の手は、雪みたいにひんやりしてるね」
……このまま、本物の雪みたいに溶けちまわないといいんだけど。
僅か、目を伏せて続けて囁かれた、その言葉。
そんなわけないじゃない、と笑おうとして、けれどその目がじっと、どこか真剣な色味を帯びて自分の手を見つめていることに、望美は僅か狼狽する。
ぱさり、と音がしそうなヒノエの睫。
こうして間近で見ると、この少年はまことに端正な顔立ちをしているのだと気付き、望美は鼓動が乱れはじめるのを感じた。
「…溶けたりなんか、しないよ?」
小さく、呟き返す。
「……そうだな」
すると、ヒノエもあっさりそう言って、望美の手を握ったまま、座りなおした。
「……」
そう。溶けたりしない。
望美はその言葉を、じっと胸のうちにとどめるように、かみしめた。
……今、確かに隣に座っているヒノエ。
手をつないでいる、その確かな体温。
(……大丈夫。ちゃんと、いてくれるね)
確かに、ここにいてくれる。
その事実が、胸にじわりと、満ちていくようで。
……ぐらり。
安心したら、眠くなってきたのだろうか。
望美は瞬きした拍子に、視界が揺らぎかけたことに気付いて、ぱちぱちと瞬きをした。
「…眠い?」
奇妙に優しい、ヒノエの声音。それがざわざわと胸をざわめかせることに、見ないフリをして、望美は、うん、と素直に頷く。
「肩にもたれていいぜ。……少し、そうして目を閉じているといい」
「…ほんとに、ねちゃう、よ…?」
「そのときは、部屋まで運んでやるさ」
「……ふふ、じゃあ、安心だね……」
つながれたままの暖かな掌。安心する、体温。
「…知ってる…? 手が冷たい人は、ね。心があったかいんだって…」
望美の掌は、子どものときから平均より体温が低いようで。
仲のいい友達にはよく、のぞみちゃんは心があったかいんだよ、と慰められたものだ。
…くすり、まるで遠くなってしまったようなそんな記憶に、望美は切なく笑う。
「……、じゃあ、オレの心はかなり熱いね?」
響くヒノエの声は、相変わらず優しい。
とろとろと、望美の心を優しく、やさしく、いくらでも甘やかすようにときほぐして。
ことん、ともたれた肩に頬を押し付けると、髪の毛をさらりと梳いてくれた。慣れた手つきに、ちょっと笑ってしまう。
「熱いね…。…ふふ。いいな。ヒノエくん、なんかすごく…やさしい」
「おいおい…。オレはいつだって、姫君たちには優しいつもりなんだけどね…?」
「…うん、そうだね」
望美はうんうんと頷いて、夢うつつに呟く。
……きっと、ヒノエくんのお嫁さんになるひとは、とても幸せにしてもらえるね、と。
ぼんやり、殆ど夢の中に片足を踏み込んだような状態で、小さく呟く。
「………」
その言葉に、ヒノエが僅かに息を呑んだようだが、望美には伝わらない。うとうとと、くっつきそうな瞼をこらえるだけで精一杯なのだ。
「――…だったら、いっそオレの奥さんになっちまいなよ、望美」
熊野においで。…誰より、幸せにしてやるから。
いとおしげに、頬を額にこすりつけるような感触。
けれど望美は眠くて、とても眠くてたまらなくて、それをよく聞くことができなかった。
ヒノエくんの奥さんか…それも楽しそうかなあ、と、落ちかけた眠りの世界で、そんなことをちらちらと考えるくらいで。
「………」
ふっ、と苦笑したのだろう。
僅か漏れた吐息が、額に触れ、それから暖かい何かがこめかみにあたった。
「おやすみ、望美。……安心しておいで。このオレがついてるんだ。怖い夢なんて、お前に近づけさせやしないよ」
……いつもの戯言の延長のような、それ。
けれど、それはとても暖かくて。
……あるいは、ひどく切ないなにかを秘めているかのようで。
望美は、こめかみに触れた暖かいものの正体を知りたくて目を開けようとしたが、そのときには、もうことり、眠りに落ちていた。
居心地のいい、ヒノエの隣。
――肩口に涎たらしたらどうしようなんて、そんな不安だけをこっそり胸に抱いて。
*****
「――言質をとって、連れ去ってしまうかと思いましたよ」
「……」
ぎし、と僅かに床の軋む音。
無邪気な様子で眠ってしまった望美に苦笑していたヒノエはしかし、唐突にかけられた声に驚いた様子もなく、嫌そうに顔をしかめた。
「……まさか。オレは絡め手上手のあんたとは違うからね」
いつから聞いてたんだか知らないが、随分と悪趣味なんじゃないのか?
冷たい目で、…背後に近づいてきた弁慶をねめつけ、低く囁くヒノエに、弁慶は「そう邪険にするものじゃありませんよ」と笑って、手にした掛け布を望美にかけてやった。
「…春とはいえ、ここは大分冷えますからね」
「……、」
ヒノエはその言葉に肩をすくめ、そうだな、と望美の額にかかった前髪を、そっと払ってやった。
――戯言だと。
そう思うのなら、まだそう思っていて構わない。
すう、とすっかり信頼しきった寝顔を晒す望美に笑って、ヒノエは彼女の身体を掛け布ごと抱き上げた。
「……ちゃんと、彼女の部屋にお連れしてくださいね」
優しい声で、弁慶が冷たい釘を刺す。
当たり前だろう、とヒノエがその言葉に笑った。
「…さっきも言っただろ? 絡め手はオレの性分じゃないんでね」
口説くなら、真正面からさ。
…まだ、望美には聞かせたこともないような、笑いを含んだ――けれど、真剣な声音。
「――手ェ、出すなよ」
そして続けられたひややかな恫喝に、弁慶はしれっと「確約はできませんね」と受け流す。
それをどう受け止めたのかは言わず、ヒノエはそのまま望美を起こすことのないよう、廊下の奥に消えていった。
「……やれやれ」
そんな甥の姿に苦笑して、弁慶は罪作りな彼らの神子を思い、ため息をついた。
(…物珍しさに惹かれただけかと思っていましたが……、なかなかどうして、今まで見たことがないくらい本気のようじゃありませんか?)
まるで戯言としか考えていない望美に、戯言のようでいて、どれも本気の言葉を捧げるヒノエ。
果たして、先ほどの最後の発言に、望美が冗談ででも「うんいいよ」などと答えていたら、一体どうなっていたことやら。
(絡め手は性分じゃないなんて、……全く、それこそとんだ戯言でしょうに?)
――苦笑交じりに呟かれた胸中の言葉を聞くものは、ただ、この夜の静寂ばかりだ。
どうでもいいことですが、言質ってまさしく「言葉の人質」と書くんですね。おお、なんかそのままだ。
これ以上ないくらい片思いのヒノエです。
なんていうか、報われないひと。(いやいや、勝負はこれから…ですよね!(何の勝負だよ))
私はヒノエを何だと思っているのでしょう……。
そして毎度毎度望美の悩むことが、ワンパターンで申し訳ありません……。なんか三回くらい逆鱗ネタだ。
ただ、まあちょっと今回のヒノ神子は毛色を変えてみました。ハイ。
本当はラブラブのが読んでて楽しいかもなんですが(私もラブいのが大好きなので)書いてるのは片恋が楽しいんです。
さりげなく弁慶さんも片恋の気配ですが……どうなんだろ。そんなに神子をモテモテにしたいのだろうか。