『現実逃亡劇』
がさ、と、青々とした草地を踏みしめて進む道。
はあはあと、息切れて吐く息が荒い。
「…神子、大丈夫?」
すぐ傍らを歩む白龍が心配そうに望美を見下ろし――ああ、まだこの逆転してしまった身長差には慣れない――息切れしている望美を気遣う。
「え? …うん、平気平気! まだまだ大丈夫だよー」
えへへと笑って、望美はいかにも平気そうに手を挙げた。
そうだろうかとまだ白龍は心配げだったが、しかしだからといって、疲れにいちいち足を止めていたらきりがないのだと望美は痛む足をごまかして歩き続ける。
――本宮へと進む熊野路が通行禁止となっていたことが、この強行軍の原因だ。
最短の道のりであった筈の熊野路が通行禁止では、遠回りながらも別の道から行くしかない。
白龍の神子を狙った怨霊が出ないわけでもなく、道が厳しくないわけでもない。疲労は募っていくばかりだ。
(だけど、早く――、少しでも早くこの戦を終わらせることが出来れば)
一歩一歩前に進むことが、これから先の悲劇を食い止める唯一の手立てなのだ。
焦っているのだ、と自分でも思う。
けれど、焦っていると自覚していても、こうして先に進むことで心は僅かなりとも落ち着いてくれる。
一歩、また一歩。
こうして進むことによって、自分は何かをしているという気になれるのだ。
(やだな。……弱いな、私は)
望美は、そっと。
…傍らの、白龍や朔に気付かれぬよう、そっとため息を落とした。
空気が僅か、揺れる。
――その音に気付いたのというわけでもないだろうが。
ふと、前方を歩いていた将臣が「おいでなすったぜ」という声が望美の元まで届いた。
確かに将臣らの前方、ぼうと、宙に浮かんだ鏡が、望美にも見えた。鏡の中には、長い髪の女が映りこんでいる。
…怨霊、古鏡だ。
「……これは…結構数がありますね」
「数がいようがいまいが関係ないだろう。――全て、打ち倒すのみだっ!」
ぼう、ぼう、と望美たちの行く手を阻むかの如く、次から次と姿を見せる古鏡に、弁慶と九郎がそれぞれの反応を返す。
そんな二人の間をすり抜けるようにして、行かなくちゃ、と刃を携えて望美はだっと前に出た。
何はともあれ、封印の出来る神子である彼女が先に出なければならない。
古鏡は金属性だ。――火は、金に克つ。覚えたばかりの五行関係が、望美の頭の中でくるっと回った。
「ほうら姫君。…オレに任しておきなよ?」
それを察したというのでもないだろうが。……身構える八葉たちの中から、真っ先に顔を出したのはヒノエだった。
彼は当然の如く望美の前に立つと、「金属性のくせにオレとやろうっての?」と含み笑って、手にした刃を怨霊へと向ける。
ぎらり、ヒノエの手元で光る刃に気おされたというわけでもないのだろうが、古鏡たちが僅か怯んだように、チリチリと鏡ごと、揺れた。
「数が多いと面倒だね。――まとめて片付けようか?」
「うん。……いけそう? ヒノエくん」
「それが姫君のご命令とあらば」
オレに命令できるのなんか、お前だけだぜ? と冗談めかして笑うと、ヒノエは古鏡をぎらり、物騒な笑みでもって睨めつけ、望美に手を伸ばした。
「おいで――望美」
呼ばれる声の、全くなんと甘いこと。
毎度のことながら、その響きに困惑しつつ、望美はその腕に腰を抱かれ――身のうちにめぐる五行の気のめぐりを確かめるように、じつと目を閉じた。
燃えるもの。
火を放つもの。
猛るもの。揺らぐもの。熱きもの。
――金を溶かし、形を変える強きものが、望美の身のうちで「炎」という形となり、駆け巡り、そして。
「…恋の炎が、翼となるぜ」
望美の肩に愛しげに肩を押し付けて、ヒノエが小さく呟く。その響きに、びくりと肩を震わせながらも、ヒノエの示した「かたち」に気の流れをあてがい、彼の放つ気と、己の気の流れを重ね合わせる。
――火翼焼尽。
その言葉が放たれると同時、羽に似た「かたち」を持った火の気が、ふわり宙を漂い――浮かび上がった古鏡らを、次々と焼き焦がしていく。
見た目の華やかさと相反し、その技の絶大なことといったらない。
見る見るうちに怨霊たちは倒れ伏してゆき、そんな彼らを解放すべく、望美は「めぐれ天の声」と封印の構えをとった。
*****
……潮岬に着く頃には、既に夕刻の頃合であった。
しかし、近くに宿場はない。これでは野宿しかないだろうかと思案しているところに、熊野水軍の一部が、一時の住まいとして利用しているという小屋をヒノエが提供してくれた。
「ヒュウ、こいつはラッキーだったな。小屋って言っても、結構しっかりしてるじゃねえか」
「…兄さん。あまりあちこち物色するなよな。みっともない。そんな暇があったら、今日の夕飯になりそうな魚でもとってきてくれよ」
相変わらず仲がよいのか悪いのか分からない会話を繰り広げる兄弟に苦笑しながら、望美は小屋の壁にもたれて、少し目を閉じた。
……昼間から、少し頭がふらつく気がする。
疲労が、身体にきているのだろう。太腿やふくらはぎも、ぱんぱんに張ってしまっているようだ。
(筋肉痛に効く薬草とかって、あるのかなあ…)
弁慶さんに頼んで、薬草持ってたらもらおうかなあとぼんやり考えながら、望美はこそこそと小屋の影に回り、むき出しの足をそっとさすった。……やはり、かなり筋肉が張り詰めているようだ。
ぺたり座って、揉み解すようにしていると、
「…なんだ。言ってくれれば、オレがやってやるのに」
などと笑って、ヒノエが顔を出した。
「ひゃっ! ひ、ヒノエくんっ!」
「何だ。…そんなに驚かせちまったかな? ふふ、罪な男だね。オレも」
相変わらず戯言じみたことを口にするヒノエに、しかし望美は身体を引きつらせて、「い、い、い…」と呻き始めた。
「…? 姫君?」
どうしたんだいと訝しげな顔のヒノエに、望美は掠れた声でようよう、呻いた。
「あ、足、つ、つっちゃっ…! イ、イタタタ…!」
「…げっ」
ふくらはぎを伸ばして揉み解そうとしていたところだったせいだろう。
すっかり引きつってしまった筋肉の激痛に、望美はいたいいたい、と呻いて、目じりに涙を滲ませた。
こりゃまずいとさすがのヒノエも眉を寄せ、ちょっとごめんよ…と望美のふくらはぎの何箇所かを、とん、とんと軽く押さえ、揉み解す。
「……う、うー……うう〜…」
「…どうだい? 痛みは引いたかい?」
「……うー…、う…、あ、うん…!」
恐る恐る、といった具合のヒノエの声に、望美はやっと頷いた。
一体どんなコツを心得ているのか知らないが、いつもなら暫く痛みに呻くしかないはずの足の攣りが、あっという間におさまってしまった。
「す、すごいね、ヒノエくん! 今のって、ツボ押しマッサージ?」
「…? まっさーじ? ま、とにかくお前の痛みがとれてよかったよ。……悪かったな、ホント」
「ううん。こっちこそありがとう」
痛みが引いたとはいえ、また攣るのが怖いのだろう。
望美は恐る恐る足を伸ばすようにして、隣に座ったヒノエに向けて笑いかけた。
「どういたしまして。…このくらいなら、安いもんだよ」
ついでに、他のところも揉み解してやろうか?
ふふ、と笑って、またいつものように冗談交じりの言葉を向けてくるヒノエに、望美は「それってセクハラだよヒノエくん」と笑って取り合わず、足を伸ばしたまま――ふと気付いたように、
「ここからは、海がすごくよく見えるね」
と呟いた。
「ああ。そりゃあ、ここらは漁師にとって、絶好の場所だからね。景色もサイコーだろう?」
隣に可愛い子がいれば、なおサイコーってね。
どこかで聞いたようなことを言うヒノエに、望美はくすくす笑った。確か、以前は違う場所でこんな台詞を聞いたような気がする。
…そう、時空を越える前、まだヒノエと出会ったばかりだった頃に。
「ああ。そう。…そうやって笑ってる顔が、やっぱり一番いいね。……憂いを含んだ横顔も綺麗だけど、さ」
くすくす笑う望美に、ヒノエはちょっと笑って、ひどく優しい目をしてみせた。
その眼差しの優しさに、望美の心がどきり、震える。
「勿論、さっきの戦闘のときみたいに――戦女神の如く、真っ先に戦場へ飛び出していく勇気も悪くないね。……賢い、オレの神子姫は、全く幾つの顔を持っているんだか」
どの顔も魅力的だから、また困るんだよな。
海から吹く潮風が、ざあっと望美とヒノエの髪をなぶり、頬を愛撫する。
その音に紛れるようにして、ホント参っちまうよ、とヒノエが僅か苦笑して呟いた。……その響きにこめられた、本音の響きに、望美の心がまた震える。
(こっちこそ。……参っちゃうよ。ヒノエくん)
ざわざわ、潮風に揺れるこころ。
どこまで本気で言っているのかも、どこまで冗談で言っているのかも判別がつかない、ヒノエの優しい言葉。
その中から本音と冗談をより分けて、教えてくれればいいのに。
……そうじゃないと、全て本音なのではないかしらと誤解してしまいそうになってしまうのに。
じわり赤くなった頬をごまかすように、望美は夕陽に顔を向けた。
小屋の表では、皆が今夜の準備をしているのだろう。……手伝わなくてはいけない。そう思うのに、身体は動かない。
まだここで、ヒノエと冗談のような会話をしていたい。
…冗談だと知っていても、優しい言葉にだまされていたい。
――なんて脆弱な、少女の心。
勇ましい戦女神と望美を称えるヒノエがこんな望美の弱さを知ったら、離れていってしまうのじゃないだろうか。
そんな望美の心中を知ってか知らずか、不意にヒノエが、すっと夕陽に染まる海を示した。
「――知ってるかい、姫君。海の向こうには、浄土があるそうだぜ」
「…浄土?」
楽園さ。
ヒノエは望美の言葉に短く答え、捕陀落渡海ってやつだよと笑った。
「海の向こうには浄土がある。…幸せがあると言うのさ。そいつを信じて、海に身を投げるヤツもいる」
「…ヒノエくんは、見たことがあるの?」
海に身を投げる人を、とも、楽園を、とも言わず、主語を曖昧にして、望美が問いかけた。
さあね。
ヒノエは笑って、あの辺りまで鯨をとりにいったときには、見なかったけどね? と答えた。彼は、主語を浄土ととらえたのだろう。
彼が「あの辺り」と真っ直ぐ示したのは、今まさに夕陽が沈まんとしている海と空の境目だ。
「…じゃあ、結構遠いのかもね」
その答えに、望美は両膝を抱えて呟いた。
人々が目指す楽園。……海の彼方にあるという、楽園。
そこに行き着くために、人々はどれだけの手段を模索するのだろう。
しあわせを探すため、彼らはどれだけの道のりを歩いていこうとするのだろう。
「そうかもな」
ざざざ、と揺れて騒ぐ潮騒の音。
また吹いてきた潮風に、望美の前髪がなぶられ、乱れる。
ヒノエの指先が、それを撫で付けるように優しく乱れを正した。
華奢に見えて、存外しっかりしているヒノエの指先。それが、額に触れていることに僅か狼狽し、望美は慌てて瞬きを繰り返すことで動揺をごまかした。
そうでもないと、……迂闊にも縋ってしまいそうになるのだ。
(…ヒノエくんは、優しすぎるから)
強いくせに、色々なことを、望美の行動に要求しているくせに、けれど彼は、ひどく優しいから。
……逃げ出して、しまいそうになる。
焦る自分からも、弱い自分からも、強くあろうとする自分からも。……全てから逃げて、この腕に縋りたくなる。
「…楽園って、ほんとにあるのかな……」
あ、ごめん、浄土だっけ、と訂正しながら、望美は小さく呟いた。
行きたいわけではない。ありもしない場所に縋るほど、弱いわけではないと思いたい。
……けれど、本当にそんなところがあるとしたなら。……どうなのだろう?
「…行きたいのかい?」
その言葉を聞きとがめたのか。ヒノエが、探るように望美の顔を覗き込む。
「――…」
どうなんだろう?
望美は自問するように呟いてから。
……困ったように、そっと首を振った。
「……ううん。…行かなくて、いい」
「…ふうん」
そうして、眸を瞬かせるヒノエに笑って、……夕陽を見る。
眩しく目を細め、赤い夕陽を見つめる。
――浄土があるといわれる、夕陽の彼方。
それを探すように――、あるいは、そんなものないと確認するように、目を凝らす。
そして、ヒノエはそんな望美を眩しく見つめ……そっと、苦笑した。
「まあ、いいや。……行きたくなったら、いつでもオレに言いなよ」
浄土だろうが、楽園だろうが――、海の向こうだろうが。
「…お前の行きたいところなら、どこへでもつれていってやるぜ?」
いつものように、冗談めかしたその言葉。
けれど、本気か、冗談か。そう言ってより分けたら、もしかしたら本気の欄に入ってしまうかもしれない。
そんな僅かな本音の響きを滲ませて、ヒノエが笑う。
「……ふふ、浄土は少し困るなあ」
「そうかな? オレは、お前と一緒ならどこへでも行ってかまわないんだけど」
……どこまででも、いっていいんだけれど、ね?
囁かれた言葉も、もしかしたら本気の欄に入れていいかもしれない。
――だから、望美もちょっと笑って、いいね、と呟いた。
呟いて、風に揺れるヒノエの小さな三つ編みに、そっと触れた。
「私も――、ヒノエくんとなら、どこに行ってもいいよ?」
冗談ごとのように。
……けれど、僅か、本気の色を滲ませて。
走らなければならない。
…片時も休まず走らなければならない現実から、そっと道を外れるようにして。
現実逃亡の気配を、冗談のように、本気のように滲ませて。
「…ああ、そういうのも悪くないかもね」
ヒノエは望美の肩をそっと引き寄せ、小さく、笑った。
超、ぎりぎり、です…!
しかもまとまって、ない…!
ヒノエ弱い!
神子も弱い……!!
色々とダメダメ揃い踏みですみません……。来週は…もっと精進します……!