『相思相愛の悲劇』






 ――比翼連理という言葉がある。

 それは、二人でないと、飛べない鳥。
 それは、絡み合って伸びた、二本の木。
 
 その二つの言葉は、ふたりであることの重要性を語り、ふたりでいることの必要性を歌う。

 そして、かつて、一度聞いたか聞かないかくらいの認識しかなかったその言葉は、近頃強い現実味を伴って望美の傍らにあり。
 ことに、オレの姫君、と彼女を呼ぶその声が響くたび、ひどい強さを持って、望美に突きつけられるのだ。

(……まるで、恋に胸を食い荒らされるようだね)

 ぼんやりと、望美はそう考えて、苦笑する。
 呟く彼女の脳裏に浮かぶ、罪深い、いとしいひと。
 それを綺麗に取り払ってしまえればいいのにと考えて、望美はぎゅうと目を閉じる。
 ぎゅうと、きつく。……きつく、目を閉じて。
 
 比翼の鳥になんて、なりたいわけではないのにと。

 囁くように、小さく独りごちるのだ。



*****



 ――近頃、彼女に避けられているような気がする。

 ヒノエは、気付くとまた、視界の外に行ってしまった少女のことを思い、軽く眉を寄せた。
 気付かれずにこっそり見つめ続けることには、実際自信がある。
 ことに、あれほど目を引く娘ならば尚更だろう。
 自分の運命に一歩も引かず、向かい合う強さを持った娘。
 …彼女は、常に凛と咲く花のように。
 ヒノエの目を惹き付けて、離そうとしない。
 これは、本気の恋だと。…そう、改めて自覚する必要もなかった。
 出会った瞬間、落ちていたのだから。
 初めて言葉を交わしたあの瞬間から。
 ……あの眼差しの強さでこちらを見つめられた瞬間から、射抜かれていたのだ。
「悪いな。ちょっと抜けるぜ」
「…? まだ軍議の途中だぞ、ヒノエ」
「野暮なこと言うなよ。……あとは、オレがいなくても話が進むだろう?」
 真っ直ぐに射抜かれた心には、ただひとつだけの深い傷と、甘い痛みだけが残った。
 その痛みが、狂おしい声で、今もヒノエの耳元で囁いているかのようだ。
 ――曰く、今すぐ彼女をさらってしまえばいいと。
 この戦が終わるまでなどという、生ぬるい期限など必要ない。
 じくじくと胸を灼く痛みを与え続ける、罪深い少女。
 彼女を抱きしめ、己がものとすることに躊躇う必要などないのではないかと。
「仕方ありませんね。……また、後ほど意見を聞くかもしれませんが」
「…好きにしなよ。もっとも、そんないちいちオレの意見を窺わなきゃ勝てない戦じゃなさそうだけど?」
 ヒノエと、九郎と、それから弁慶と、景時。
 天幕の中、次の戦の事案を練っていた彼らは、ヒノエの言葉にそれぞれの反応を見せる。
 真っ先に苦笑したのは弁慶で、…次にウワーと苦笑いしたのは景時だろう。
 九郎は憮然としたように黙り込み、(彼はまだ、ヒノエが自分の正体を黙っていたことを、少しだけ根に持っている)「好きにしろ」と吐き捨てた。
 その言葉に、ヒノエは「有難きお言葉、どーも」といいかげんに肩をすくめ、ひょいひょいと……決して急いでいるわけではないというような足取りで、迷いなくただ一つの方向へと向かう。
「……まあ、仕様がないよねー」
 そんな彼の背中を見送りながら、景時がぽつんと呟いた。
「…ほら。……オレも、まだ馬に蹴られたくないしねえ」
「………」
「……、そうですね」
 その言葉に、九郎と弁慶はそれぞれ何となく複雑そうな顔をした。
 ヒノエが真っ直ぐ、放たれた矢のようになって向かう先。
 ……それは、かのひとの居場所しかないというのは、既に周知の事実であったからだ。
 望美ちゃんってすごいよねえ。
 そして空気の読めない軍奉行は更にそう口走り、さりげなく弁慶に足を踏まれた。
「……では、軍議を続けましょうか? 二人とも」
「…ああ」
「う、うん、そうだねー」
 …まあ。さすがにその頃にもなれば、弁慶の周囲を飛び交う冷ややかな空気に、二人はそれぞれ気付くことができたので。
 その後の軍議は、いたって滞りなく、話が進行したという話である。


 ――その背中を、見誤ることはありえない。
 ヒノエは迷いのない足取りで、幾人もの源氏の武士の間をすり抜け、彼が目指すただひとりの元へと向かう。
 ……ヒノエと同じように、迷いなく踏み出される足取り。
 少女にしては、ひどく淀みない歩き方で、彼女はヒノエより何歩か先を歩いていく。
「…姫君」
「……」
「……、望美?」
「………」
 さかさかさか。
 もういいかげん、気付いているのだろう。
 そう思って声をかけたヒノエを振り切ろうとするように――、不意に、望美が歩く速度を上げた。
(…おいおい)
 その速度に苦笑して、ヒノエも同じように歩む速さを上げる。
 まるで鬼遊びのようだ。
 鬼に追われる望美はただただ逃げて、鬼であるヒノエは、望美をつかまえることだけに集中して。
(……、そうだね。逃げなよ望美。……さっさと逃げちまいな)
 そうじゃなきゃ――、オレがつかまえちまうぜ?
 細い腕。細い足。
 ……強く掴んだら、ぽっきり折れてしまいそうだ。
 しなやかに踊る、背中に流された髪は、さらさら踊って。
 …追いかけるヒノエによって、まざまざと乱れていくようで。
(ほうら。悪い子だね、望美。……そんな背中を見せて逃げられたら、ますますオレのものにしたくなるだろう?) 
 そんなヒノエの胸中を知ってか知らずか、追いつかれまいと、望美は更に加速した。…既に、周囲には殆ど人気がない。
 源氏の陣のはずれ。
 そこまで早足で追われ、追いかけを繰り返してきた二人の鬼遊びは、唐突に足を速めたヒノエによって終幕を迎えた。
「…ひゃっ!」
 ハイ、おしまい。
 とらえた手首の細さにざわつく自分を知りながら、ヒノエは少女を捕まえて――腕の中、しまいこんだ。
 柔らかい、身体の感触。
 全体的に細い、その身体。
「…望美は悪い女だね? オレを見るなり、逃げ出すなんて」
「……逃げてなんて」
「嘘だね。……現に、こんな端っこまで来ちまったじゃないか。こんなところに、何の用事があるっていうんだい? 姫君」
「……。…ヒノエくんが追いかけてくるから」
「…ふふ、逃げられたら追いたくなるだろう? ましてや、それが惚れた女なら尚更ってね…」
 ヒノエが何気なく口にした言葉。
 …その言葉に、しかし、望美はびくりと身体を震わせ。
「……?」
 ひどく不安げな仕草で。
 ……ヒノエの腕の中で、恐る恐る彼を見上げてくる。
「……、どうしたんだ。望美」
「え? ……う、ううん。なんでもないよ?」
「…オレに嘘をつきたいってのなら、まだまだ修行が足りないね」
 ヒノエはそう、低く呟いて、抱き寄せた娘の耳元で、低く囁いた。
「…一体、何が不安なんだい」
 まるで、耳から囁きを注ぎ込むように。
 そのようにするだけで、望美の身体がびくんと跳ねた。
 怯えたような、けれど何かを誘うようにも見える仕草で、彼女はただ首を振る。
 不安なんかないよと、頑固に嘘をつき続けて、ヒノエの腕の中、首を振る。
「……」
 ああ。
 ……このまま口付けて、頑迷な彼女を奪ってしまえたら、どれほど楽だろう?
「…嘘だね」
 けれど、結局ヒノエは同じ言葉を重ねるだけに、とどめた。
 自分を心配させまいとしてか、構われまいとしてか、偽りばかり紡ぐ彼女の唇。
 ……そんなもの、いっそ塞いでしまえばいいのにと。
 そう、ヒノエの耳元で、誰かが笑いながら、低く囁く。
 何を躊躇っているのだと。
 ……奪ってしまえばいいのだと。
 愛しい女を奪うことに、躊躇っているのでは遅いのだと。
 心ごと、身体ごと、縛り付けてしまえばいいのだと?
(……もっとも。それが出来れば、苦労はしてないって話だよな)
 …腕の中、とくとくと震える望美の心音。
 それを抱き潰さないように――、けれど逃がさないように。
 離して、と呟くのを聞かないふりで。
「…オレがあげた、真珠の耳飾りはつけてくれないのかい?」
 低く、耳元に毒を流しこむ。
 ……愛しさという名の、それは激しい毒。
 オレがお前を愛しいと思う。…その想いが、そのままお前の中に流し込めればいいのにね?
「…持ってるけど……、今は、つけてる、場合じゃないし…」
「今、持ってるのかい?」
「……う、うん」
「…出してご覧よ。つけてやるから」
「いっ、…いいよ! だって、…すぐに陣に戻らなきゃ…。朔が、心配する」
 朔、と呟いた親友の名前で、ようやく我に返ったのだろう。
 はなして。
 望美は、強い語調で、そう呟いた。
 その響きの強さに、ヒノエの心がざわり、震える。
 草原に細波を広げるその風は――、愛しさと、憎らしさと、切なさがないまぜになった、恋の風。
 …離したくないな。
 そう囁いて、口付けることは簡単なのだろう。
 けれど、結局そうすることは出来ずに。
「……仰せのままに。…けれど、次はないぜ?」
 低く、冗談めかして囁いて。
 するりと望美が腕の中から抜け出してしまうのを、内心歯がゆく見守るしか出来ない。
「……」
 望美も、あるいはもしかしたら、……この違和感めいた距離に、何かを感じているのかもしれない。
 振り払ったのは自分だというのに。……彼女はまるで、迷子になった幼子のような目でヒノエを見ているのだ。
(…卑怯だぜ? 姫君)
 そんな、恋する乙女そのままの目で、こちらを見られたら。
「……望美」
「…ッ」
 ……低く、囁いて詰め寄るしか出来ないではないか?
 咄嗟に、また逃れようとした彼女を許さず、手首を捕まえて。
 …手近な幹に、その細い身体を押し付けて。
 怯えたようにヒノエを見上げる眼差しの弱々しさ。……けれど、それでも腰の刃を突きつけてまでは逃れようとしない、彼女の躊躇い。
 つけこめばいい。
 …耳元で、本能が囁く。
(こんなに無防備なお前が…、悪いよ)
 身勝手な言い訳だと知りながら、ヒノエは、自分を見上げる望美の顔に自分の顔を近づけて。
 すきだよと。
 お前が大事だよと。
 ……オレのものに、なっちまえよと。
 そんなことを囁く余裕もないまま、彼女に口付けた。
 柔らかい、娘の唇。
 まるで初めての口付けのように、余裕をなくしながら。
 ヒノエは、馬鹿みたいに望美の唇を吸った。
 ん、と甘く鼻にかかるような望美の吐息が、なおいっそうヒノエの理性を剥ぎ取っていく気がする。
「…のぞみ」
 口付けの合間に名前を呼べば、望美も熱にうかされたように、ひのえくん、と名前を呼んだ。
 その響きが、……ひどく、たまらないようで。
 頭の、裏側が熱い。
 …娘の返事を待とうした、余裕なんて。
 せめて僅かなりとも逃げ場所を残してあげようかなんて思っていた、最後の理性なんて、消し飛んでしまうその威力。
 ……ぴちゃ、と唇と唇が濡れた音を立てた。
 ぞくぞくするような、欲望と本能。それが、ヒノエの身のうちに激しく、逆巻いているようで。
 望美の潤んだ目が、ヒノエを見る。
 ……愛しさが、そのまま零れ落ちそうな眼差しで、じっとヒノエを見る。
(…今、ここでお前を奪うことの、何がいけないんだ?)
 ああ。…恋とは、まこと理性を磨耗させる。
 けれど、それを愚かしいことだと哂う余裕も、もはやなく。
「……ッ」
 望美が息を殺して、惑ったように彼を見上げる。
 …それを見下ろして、再び、口付けようとしたところで。
「……だめだよ、ヒノエくん」
 小さく、拒絶の言葉が紡がれた。
「……」
 ぎゅうと、ヒノエの胸を押し返すように触れながら。
「………だめ、だよ」
 望美が、泣きそうな声で、けれどはっきりと呟く。
「……」
 ヒノエはその言葉に、ただきつく眉を寄せて。
「……、そう、だな」
 かなりの気合を入れながら、望美の身体から、身を離した。
 ささ、と、望美がその拍子に襟元を正したりしている。それに幾ばくかの虚しさを感じながらも、ヒノエは、参ったね、と肩をすくめた。
「…悪かった、な。望美」
 そうして、気まずく眉を寄せたまま――ちらり、望美を眺める。
 その唇は、まだ僅か濡れているようだ。
(…やばい)
 そんなものを見ていたら、また彼女を捕まえてしまいそうだ。
 ヒノエは慌てて目をそらし、望美も、そっと俯いた。
「……う、ううん。…別にその。なんていうか」
 …彼女のうちにも、今嵐が逆巻いているのだろうか?
 ふとそんなことを思いながら、ヒノエは、望美が困ったように笑って。
「……いこう、か」
 そう、泣きそうに笑って、呟いた言葉に、胸を押しつぶされそうだと感じた。
(……お前に、今そんな顔をさせてる原因は、このオレかい?)
 そうであればいい。
 そうでなければいい。
 ……守りたいという傲慢。奪いたいという我侭。
 手をつなぎたくて、けれど、やめる。
 望美と並んで、歩く。
(…オレは、お前を愛さなければよかったかい?)
 問いかけることもできない、らしくもない、胸中の呟き。
 泣きそうに笑う。
 そのうちにある嵐は、一体今、どのような形であるのだろうか?
 間近で、……ひどく間近で、望美と並んで歩く。
 そのことがひどく胸に痛いようで。……けれど、その痛みすら心地よいようで。
 自覚する必要などないと。
 そう思った、あの瞬間を思い出し、ヒノエはひっそりと笑った。
 あのとき、あの瞬間から、ずっとこの胸を食い荒らし続けているような、この胸の嵐。
 それがこの少女の胸でも吹き荒れていれば、いいと。
 ……それでも、彼女を苦しませるのは御免なのだと。
 そう思う自分が、つくづく矛盾していると。
 ……笑って、また、ヒノエは望美の手に自分の手を伸ばしかけて――、それから、やめた。



*****


 ――比翼連理という言葉がある。

 それは、二人でないと、飛べない鳥。
 それは、絡み合って伸びた、二本の木。

 その二つの言葉は、ふたりであることの重要性を語り、ふたりでいることの必要性を歌う。

(それでも私は、比翼の鳥にはなれない)

 否。…なりたくない。そう思うのだ。

(私は私で、あなたはあなた)

 あなたがいないのでは飛べない鳥にはなりたくない。
 …私がいないことで弱くなるあなたには、したくない。
 それこそ傲慢? それこそ我侭?
 笑うこともできないまま、望美は隣を黙って歩くヒノエの熱さを思いながら――手をつなぐことも、できないで。
 考えさせてと。…そう言った望美に、彼はいつものように笑って、じゃあ決まりだと言った。
 本気にさせてみせるよ、と笑った。
 けれど、――本当にそうかもしれない。
 姫君と言って、…望美と名を呼んで微笑む顔が。囁く声が。
 全てが、ひどく、胸に痛い。

(答えは、とっくに出ているのかもしれない)

 けれど、望美はまだそれに見ないふりをしていたいのだ。
 
(あなたは私を好きだとという。…私も、あなたを好きだと、そう思う)

 ――ああ。おとぎばなしなら、これで全てがハッピィエンドの筈なのに。

 望美はただ首を振って俯き、ヒノエの掌に手を伸ばしたくて、伸ばせないままで、歩いていく。
 …彼についていくことで、裏切らなくてはいけない、たくさんのものたち。
 それでも、たとえそうだとしても、望美はきっと選んでしまうのだろう。


(…あなたがいないのでは生きられないいきものには、なりたくないのに)


 なんと愚かしい悲劇。
 望美は笑って、それから、少しだけ泣きたくなった。
 ――それでもきっと、望美は選んでしまうのだろうから。
 だから、少しだけ笑って、少しだけ泣くしか、ない。


 …彼の口付けを拒めなかったその時点で、その選択は、明らかなのだから。


 ――その悲劇は、明らかなのだから。




















相思相愛の悲劇。
最初はどんな話書いたらいいんだーと思ってたのですが、書いてみたら結構スラスラ書けました。
どこまでが微エロ注意つけたらいいのか微妙な気持ちです。
ヒノエも寸止めは辛かったことでしょう……うちではそんなのばかり、なのですが。
かわいそう。ヒノエ。そしてさりげなく弁→神子…?

好きだから辛い、好きだけどしんどい、という話です。

ヒノエも神子もこんなぐじぐじ悩まない気がするのですが……表に出さないだけで、結構悩んでいたのではないかあと勝手に。

間章と、ヒノエの奇策、の間くらいでしょうか。
福原に行く前なのか行った後なのかは、まあその曖昧コースで。
……ヒノエの話だと、(ED前は特に)限られた場所でしか書けないですね…。むつかしい。
にくいおひと…!




……そして、何だか毎度……情けない感じのヒノエですみませ…ん…。