『雨上がりの虹』
大人の理屈というものが、昔からヒノエは嫌いだった。
たとえば、何かのために、何かを切り捨てる。
悪い部分があれば、そこを切り捨てて、なかったことにする。口を拭って、見ない振りをする。
下らないことだと、ヒノエはいつも思っていた。
切り捨てても、口を拭っても、それはなくならないのにと。
なくなったように見えても、そいつは結局自分の傍に潜んでいるのだ。消えないで、隠れているのだ。
そんなことも分からないで、あるいは、それこそを見ない振りをしている大人たちが、ヒノエは嫌いだった。
つまらない迷信を言い訳にして、行動しようとしない連中が嫌いだった。
雨の中、外に出るのは不吉だからと。
そんなつまらない理由を一つ口にすることで、自分も周囲もごまかしている。
だから、そんな彼らを、甘えているのだ、と馬鹿にしていた。
嫌いだった。それは、間違いない。
…けれど、ヒノエはそんな彼らに、庇護され、守られていたのだ。一人で平気だと思う一方で、確かに彼は、大人たちに守られていたのだ。
たかだか十を少し数えたばかりのような子どもは、自分を守ることすら満足にできないいきものだった。
大人になりたくないと馬鹿にしていた。……けれど、大人ではないヒノエは、どこかで必ず大人の庇護を受けなければいけないいきものだった。
それに気付いたとき、ヒノエはひどくぞっとして――それから、むちゃくちゃに走り出したくなった。
悔しかった。憤ろしかった。
雨の中駆け出しても、何も変わらないと知っていた。……それでも、駆け出したくなった。
(オレの手は小さい)
まだ、こんなにも小さい。……こんなにも、ちっぽけだ!
小さな子どもの身体に降り注ぐ冷たい雨は、それを嘲笑い、哀れなことだねと見下しているように思えた。
*****
…さらさらと。空から降る雨が、まるで銀の糸のようだった。
だから望美は手を差し伸べて、空を仰いだ。
とても綺麗。
触れたところから、彼女を浄化してくれるような、細い糸。
ふふ、と笑って、望美はさらさらこぼれる雨の中、手を差し伸べた。
きらきら揺れる銀の糸は、望美の手に当たって、ぱらぱらとはじけていく。
うん、本当に綺麗だなあ。
望美は小さく微笑んで、いっそ庭に出ちゃいたいかなあ、と考えるが、膝の上でうとうとしている存在のことを思うと、それも実行は叶わない。彼女はとても優しく笑って、さらりと零れる雨が肌の上を零れる感触をくすぐったく受け止めた。
そこへ、
「――よう、姫君。そんなところで何してるんだい?」
…と、聞きなれた声が聞こえた。
男性にしては、僅かに甘いような響き。それがくすり、笑うような低い声音で、望美に向けて囁かれる。
その響きがくすぐったいようで、望美は「ちょっと、…雨が綺麗だったから」とだけ答えて、照れて笑った。
ヒノエに「姫君」と呼ばれると、いつも何だかくすぐったい。嬉しいような、場違いなような気がするからだろう。
剣を握って、怨霊と戦う「姫君」なんてそうそういないだろうし。……ましてや、そもそも自分は「姫君」と呼ばれるような、綺麗なひとではないし。
だから、いつも少し恥ずかしい。
けれどヒノエは何度言っても「姫君」だとか言う癖を改めてはくれないので、これはもう仕様がないんだな、と諦めることにもしている。
「綺麗な手が、濡れちまうよ?」
邪魔するよ、と言って望美の部屋まで入ってきた彼は、雨の中に腕を差し伸べている彼女の手をつかまえて、ひょいと室内に戻した。
そして、ちょっと笑うと。
「…こんな雨でなきゃ、お前をどこか、遊びに連れ出してやろうかと思ったんだけど」
そう言って、ヒノエは望美の腕を掴んだまま、ぺたりと傍に座った。
望美の膝では、疲れてしまったのだろう。……白龍が、すうすうと幼げな寝息を立てて眠っていて。
「残念。…これじゃ、姫君を連れ出せないね?」
「ふふ。そうだね。……今、譲くんが台所でね、プリンを作ってくれてるんだ。よかったらヒノエくんも食べていったら?」
ぷりん? と訝しげな顔をするヒノエの言葉に反応してか、むにゃむにゃと白龍が「…ぷりん……」と小さく呟いた。
その微笑ましい寝言に、望美とヒノエはそれぞれ小さく笑う。
「…甘くて、美味しいお菓子だよ。私たちの世界の食べ物なの」
望美は小声で説明した。
膝の上で眠る白龍。その髪の毛をさらさらと、優しく撫でながら、彼女は嬉しそうに笑って「おやつだよ」と言った。
「ふうん…。面白そうだね。じゃあ、ご一緒させてもらおうかな? 甘い食べ物っていうのは、あまり得意じゃないんだけど」
「そうなの? じゃあ私のを一口あげるよ。蜂蜜を使うって言ってたから、結構甘くなっちゃうかも」
「へえ。そいつはホントに甘そうだ」
白龍が眠っているからだろう。
小声でヒノエは笑って、掴んだままの望美の手に、軽く口付けた。望美がそれに顔を赤らめて、何するの、と眉を寄せた。
「…ああ。いや? 姫君の手も、十分甘そうだと思ってね。どっちが甘いかな?」
「……ま、またそういうこと言って…! 知らないよそんなのッ…」
その言葉に呆れて手を振り払う望美に、「そいつは残念だ」とヒノエは笑う。
そして、また外を眺め、春雨にしちゃあ長いな、とだけ呟いた。
雨を見つめる、ヒノエのその眼差しは、いつものそれとは幾分違う色を宿しているようにも見える。
「……ヒノエくん、雨、嫌いなの?」
ふと思いついて、望美はそう尋ねてみた。特に確信もなく放った質問だったが、口にしてみると、それは自信めいた強さをはらんで。
「…どうして?」
その自信を持った響きが、面白かったのかもしれない。ヒノエが悪戯っぽく笑って、望美に聞き返した。
きらり、雨の輝きを反射した目が、望美の目を真っ直ぐにとらえる。
「どうしてっていうか…」
望美は膝の白龍が身じろぎするのを気にしながら、思案げに眉を寄せて……「さっきから、雨のことばかり気にしてるから」とだけ答えた。
「…ふうん?」
ヒノエはその答えに、また小さく笑った。
答えとしては不十分だよ、とそう笑うような様子に、望美は居心地悪く身じろぎする。
先ほどまで雨の中に晒されていた腕が、今更のように冷えて、指先まで雫が滴って。
そして、それからまた暫く沈黙が続いて。
さらさらと降る雨の音と、白龍の寝息だけが部屋に響く。
そのいたたまれなさに、ごめん何でもない、と、望美がいいかげん前言を撤回したくなった頃、ヒノエが不意に「そうかもな」と望美の言葉を肯定した。
そうして、彼は苦笑するみたいに笑って「オレもまだまだ修行が足りないね」と肩をすぼめてみせる。
「雨は、あまり好きじゃないんだ。行動を制限されるし、あまりいい記憶がないからさ」
こんなこと女の子に話すの、初めてだぜ? とヒノエはくつくつ笑って、もう一度、懲りない様子で望美の濡れた手に、手を差し伸べた。
コラ、とその手を望美は振り払おうかとも思ったが、すばしこいヒノエの手は、やんわりと、けれど逃げることを許さない速さで望美の手をつかまえて。
「だけど、……なんか、お前を見ていると、色々なものが覆されるような気がしてくるね」
暖かいヒノエの手。
それが望美の手に乗った水滴を払うように触れる。望美の産毛にのっている雫を、きらきらと弾かせるようになぞる。
「雨が綺麗だって言ったね? だけど、オレはそんなお前の方が綺麗だと思ったよ」
彼はそのまま、さらりと、当たり前のような口調でそんなことを口にしてから。…望美がぱかっと口をあけてしまったのを見て、ははっ、と笑った。
「可愛いね。…顔が、紅玉みたいに真っ赤になっちまって」
「ば、ばかっ! …知らないよ、も、もうはなしてったら!」
「嫌だ。……って言ったら、どうする? 姫君」
「そんなの。……無理やりにでも、振り払うよ」
「傷つくね。そんなにオレに手を取られてるのは、嫌かい?」
「ヒノエくんが嫌とか、そういうのじゃないの。……ごまかされてるみたいで、嫌なの」
躊躇いがちながらも望美が口にしたその言葉に、ヒノエはヒュウ、と口笛を吹いて、それからまた苦笑した。
「……参ったな。お前は、ホントに慧眼の姫君だね?」
つかまれていた腕は、あっさりと解放される。……つまり、正解だということなのだろう。
ということは、要するに先ほどまでの会話は、本当に戯れだったということだ。
分かっていたことだったが、しかしそうはっきり明言されてしまうと、不思議と虚しいような気分にもなる。望美は何とも複雑な心境で、自分の腕と、それから依然として寝息を立てている白龍とを見比べた。口笛なんか吹いて、戯れを楽しむヒノエを見る気分には、あまりなれなかった。
しかし、そんな望美の頬に、何か暖かいものが触れたかと思うと。
「ッ…!」
頬には、ヒノエの掌が。…そして、ぎょっとする望美のこめかみに、ヒノエの唇が降ってきた。
「……ひひひひひのえくっ…!」
今度こそ顔を真っ赤にして、「みこ…?」と不思議そうな顔で寝ぼけ声を出す白龍を抱え、望美はずざざざとのけぞり、何歩分か、後ろに後退した。
そんな望美を、ヒノエは悪戯っぽい笑顔で見やって。
「だが、慧眼の神子姫どのには残念ながら」
笑いながらそう告げると、ざっと一歩距離を詰めて。…望美の髪に優しく触れて、跪くようにして真剣な声で囁くのだ。
「お前が綺麗だって言ったさっきの言葉。あれは確かにごまかしだ。……けれど、嘘じゃないんだぜ?」
雨が綺麗だって言うお前の方が、雨なんかより綺麗だと思った、それは本当だぜ? と。
彼はそんなときばかり真剣な声音で囁いて……、そして、今度こそ顔を真っ赤にして硬直してしまった望美の髪を優しく梳くようにして、お前となら、雨に濡れてもいいかな、などと追い討ちをかけるのだ。
「…みこ?」
顔を真っ赤にして硬直してしまった彼の神子を見上げ、白龍がコクリ、首を傾げた。
ヒノエはしかし、白龍が目覚めたことなど全く頓着しないように笑い、望美が怒っていいのか照れていいのか逃げ出せばいいのか分からない様子でいるのに、ぱたり、とひとつだけ瞬きして。
「……ま。今日はこのくらいにしておこうか?」
ひょい、と、一歩縮めた距離を元に戻して、何事もなかったようにそこに座り、胡坐をかいた。
「こ、こ、このくらいって…!」
望美は未だにばくばくする心臓を押さえ、顔を真っ赤にしながらヒノエを見やった。
みこ? 神子、大丈夫? と白龍がそんな望美を見上げる。
「…お邪魔虫も入ったしな」
ヒノエは一つ目の邪魔として白龍を示してから、肩をすぼめた。
そうして、さあ、姫君、と望美に手を差し伸べた。
「おいでよ」
その、ぬけぬけとした物言い。
望美はその言葉にカッとなって、ひとりで立てるよ! と白龍の手を引いたまま勢い良く立ち上がった。
そして、憤然とした様子でつかつかっと部屋を出る。……後ろからついてくるヒノエが、勇ましいね、と笑っているのに気付いて、更に腹が立った。
からかわれている。そう思うとなお悔しくて、部屋の外から見える庭を悔し紛れに睨み――、あっと声をあげる。
いつの間にか、雨は止んでいたのだ。
隣で手を引かれていた白龍が、嬉しげに望美の見ているものを指して「虹だね、神子」と笑う。
望美も、うん、綺麗だね、と笑って。
……それから、咄嗟にヒノエを振り返って。
ヒノエくん綺麗だよ、と言おうとして、……そこで、やめる。
どうせまた、からかわれるだけなのだ。どこまで本気か分からないような、甘い囁きで。…そう、たとえば、お前の方が綺麗だよと、さっき言ったみたいに、笑われるだけなのだ。
やめよう。そう思って、振り向かずつかつかと望美は廊下を歩くことにした。向こうから近づいてくる足音は、きっと譲だろう。
そろそろプリンが出来たに違いない。甘いものを食べて、そうして心を落ち着かせたらいい。
後ろで、まだヒノエが笑っている気がした。
……あるいは、雨が嫌いだと言っていた彼は、もしかしたら虹も嫌いだったりするのだろうか?
ふとそんなことを思って、望美は恐る恐る――こっそりと、視線だけを後ろに向けてみた。なるべく、ヒノエに気付かれないように。こっそりと。
目を向けたそこでは。……ヒノエは、何だかとても優しいような、いとおしいものを見るような目で、虹を見ていた。
望美が傷ついてしまうくらい。
見たこともないような、それはそれは優しい目。
望美は、だから慌てて前を向いた。
何故だろう。心臓の音が、さっきヒノエに迫られたときよりも、ひどく痛いようで。
(…振り向くんじゃなかった)
きらめくように、うっすらと浮かんだ虹。
雨の名残が覗く庭も見ることが出来ず、望美はそのままきしきしと廊下を歩いた。
(どうしよう。振り向くんじゃなかった)
雨でまだ、少し濡れた腕。空には虹。指先には、まだヒノエの熱さ。
「…神子?」
不思議そうに呼びかける、白龍の声。それにうまく応えることができず、望美は困ったようにちょっとだけ、笑った。
もう、廊下の向こうに譲が見えたから。
――それから後ろでは、きっとヒノエが望美の様子に気付いて、訝しんでいるかもしれないと、思ったから。
なるべく平気そうに、ちょっとだけ笑ってみせたのだ。
*****
――雨に濡れた望美の腕は、少しだけ冷えていた。
元々、体温が高いわけではないのだろう。ひんやりとした娘の細い腕。
それがいとおしくて、ヒノエは本気になりそうな自分を笑ってしまった。
望美は、自分が笑われたと思ったのかもしれない。顔を真っ赤にして、白龍をつれて立ち上がってしまう。
ああ、違うのにな。
けれど、それをうまく否定できる自信もなかった。細い腕。冷たい指先。そのくせ、すぐ顔が真っ赤になってしまう、可憐で、賢い娘。
ごまかしだと言った。
だけれど口にした言葉は本気だと、そう言った。嘘じゃない。……本気すぎて、全く笑えてしまうほどだ。
さらさらと降り続く、嫌な雨。
ヒノエの中の嫌な記憶を刺激する、雨。
それを好きだと笑って、綺麗だと言った娘。
(……ああ、全く笑えてきちまうな)
手を伸ばして、雨に触れた。それがまるで何かの術の前触れだったように、気付けば雨は止んで。
そして、部屋を出れば、そこには淡い、今にも消えそうな。――けれど、間違いなくそこにある、綺麗な虹が。
まるで、目の前を肩を怒らせて歩いている娘のようだと思う。
今にも折れそうに華奢なくせに、自分の意見は絶対に譲らず。
奇妙に凛として、それでいて至極当たり前のようでいて。
ヒノエは目を細めて、虹を見つめた。
それから、ちっぽけだと。
幼い頃、ちっぽけだと呻いて、自己嫌悪した掌を軽く握って、……それから、小さく口の端を上げた。
ああ、なんだかお前に似てるね。あの虹は。
そう思ったけれど。……そう言ったら、きっとまた彼女は怒ってしまうかもしれない。
冗談ばかり言わないでと、機嫌を損ねて、あのはかなげな虹のようにいなくなってしまうかもしれない。
それは困るなと思って前を向けば、ヒノエよりも少し前で、望美は白龍の手を引いたまま、足を止めていた。
怒らせていた筈の肩は、頼りないように少しだけ下がっていて。
まるで儚げで。……まるで当たり前の娘。
手を伸ばして肩を抱こうかと思ったけれど、その矢先、彼女はすぐにまた、笑っていて。……廊下の向こうから歩いてきた譲に、いつものように笑顔を向けていて。
伸ばした指先は、寸前で止めてしまった。
まるで、触れられない虹のよう。
そんなところまで似ていると、ヒノエは苦く笑って。
冗談でごまかして何度か触れた望美の肌の冷たさを思い、襟足から覗く細いうなじから、僅か、目をそらした。
まるで中学生日記みたいになってしまいました。
たまにはむずがゆい恋愛模様な二人で。またヒノエを見失った感じになってしまいました。
……このひと誰だろう…。ヒノエだけど、ヒノエじゃないんじゃないかしらん……。
ヒノエは大人だけど、まだどっかで子ども扱いされてると思うのですよー。
実際優秀だとは思うんだけど、やっぱり若すぎだし。
で、なんかヒノエはそういうのをすごく敏感に感じ取る気がするです。
もっとも彼は何を言われても「実力で黙らせてやればいいんだろ?」と行動で返しそうな気がしますが。
まあ、フラストレーションはたまってるかも、というわけで。
……しかし今回もうまくまとまんなかったです。……ウーンウーン。未熟…。