『エプロンと、バラの花と』

 

――――『お母さん、いつもありがとう!』

 

 ……唐突に流れてきた、そんな少女の声に。

 彼女はきょとんと、頭上を見上げた。

 今日の夕飯は何にしようかしらとぼんやりしていた矢先だっただけに、それなりに驚いて目を瞬かせ……続いた言葉に、ふと苦笑する。

 ―――5月、12日。

 そういえば今日はいわゆる「母の日」という日であることを思い起こしたのだ。

 彼女は買い物かごに、なるべく綺麗なタマネギの包みを入れる。

 ……かくいう彼女も、先日実家の母親に母の日の贈り物を送ったばかりだ。なのに、すっかり忘れてしまっていたのは、きっと毎日が一般的な主婦同様、それなりに慌しいからであろう。

 彼女にも2人子どもがおり、上の息子はもう中学校2年、下の娘は小学校5年生になる。

 上の息子は運動部に所属しており、小さな子どものときとなんら変わらず、泥だらけになって帰ってくる。

(“かーさん、メシー”なんて、今日も帰ってくるんでしょうね)

 彼女は想像して、小さく笑った。

 …下の娘は、きっと贈り物か何かを用意しておいてくれているのではないだろうか。よく、気のつく子だから。

 だがきっと、上の息子は母の日であることなどすっかり忘れて、泥だらけで帰ってくるのではないだろうか。

 ……『かーさん、メシー』なんて。

 彼女はジャガイモを手に取った。…少し痛んでいる。

 隣のを手にとってみた。こちらの方がまだ綺麗だった。彼女は「うん」と頷いて、買い物かごにジャガイモを入れた。

(今日はカレーでいいかな)

 楽でいいし、何より皆好きだし。

 彼女はそっと微笑んで、また流れてきた『お母さん、いつもありがとう!』を聞くともなしに聞いた。

(健康で…毎日元気に学校に行ってくれて、楽しそうにしてくれていたら、それだけでもう十分よ)

 からからとカートを押して、彼女は心の中でそう呟いた。

 

 

「――あ」

「――…あら」

 スーパーを出てすぐ。

 暗くなりかけた、マンションまで向かう道。

 その道の途中で、彼女は偶然息子の友人に出くわした。

 その服が私服で、手に何やら小さな袋を下げていることに気づき、彼女は「買い物の帰り?」と話しかける。

「…あ、はい」

 小学生の頃から息子と仲の良い少年は、困ったように笑って頷いた。

「……もしかして、母の日の贈り物か何か?」

「…はい、実は」

 息子の友人は、のんびりと歩く彼女と並んで歩き出す。

「えらいわねえ。きっとうちの子なんか、母の日なんて覚えてないわよ」

 そう言って、大して気にもしていなさそうに明るく笑う彼女に、息子の友人は苦笑する。

「――…今日、試合だったんですよね」

「ええ」

 息子の友人の言葉に、彼女は笑った。

「今日はお弁当を持っていったわ」

「―――大活躍でしたよ。2点もゴールを決めて」

「あら、応援に行ってくれてたの? ありがとう」

「いえ…」

 …息子の友人は、ちょっとだけ俯いて言葉を途切れさせた。

 元からあまり雄弁な少年ではなかった。変わらないわね、と彼女はちょっと笑う。

「……それじゃあ、これからもあの子と仲良くしてあげてね。しょうのない子だけれど」

 息子の友人は、別れ際の彼女の言葉に、ちょっとだけ笑った。

「こちらこそ、よろしくお願いします」

 彼が礼儀正しく。彼女に頭を下げたのが印象的だった。

 

 

「お母さん、いつもありがとう!」

 帰りの遅い息子と夫がいないまま迎えた夕飯の後、娘が笑顔で贈り物を渡してくれた。

「あらあら、何かしら」

 彼女は嬉しそうに笑って、綺麗に折りたたまれたハンカチと可愛いエプロンにまた微笑んだ。

「ありがとう、ヒカリ」

「ううん、お母さんこそいつも本当にありがとう。今日のお夕飯も美味しかったよ」

「ヒカリも手伝ってくれたものね」

 彼女は娘と仲良く笑い合って楽しく食後を過ごした。

 ――――気づくと、家の時計はもう9時を回っている。

「あら、もうこんな時間」

「……おにいちゃん、遅いね」

「そうね。…でも、もう、すぐ帰ってくるわよ。……さ、ヒカリ、先にお風呂入っちゃいなさい」

「うん」

 彼女の言葉に、娘は素直に頷いた。

 ――――娘を浴室に向かわせてからほどなくして、家のドアが開く。

「お帰り、太一。遅かったのね」

「うん。ただいまー」

 息子は「つっかれたー」と少し大股にあがってきて「母さん、今日の夕メシは?」と真っ先に聞いた。

 彼女は予想通りの言葉にくすりと笑って「カレーよ」と息子のためにとっておいた分をテーブルの上に並べる。

 息子は「今日の試合さ」と食事をしながら1日のことを話してくれた。今日は、いつもより少し饒舌だ。

「光子郎くんが応援に行ってくれてたんですってね」

「うん。……なんで知ってんの?」

「さっきそこで会ったのよ」

「ふーん…」

 ……息子の食事はあっという間に終わる。鮮やかなほどだ。

「今ヒカリがお風呂入ってるから、後であんたも入りなさい」

「…んー」

 息子は満腹後の眠たげな声で応じて、小さく欠伸をしながら自室に向かう。

 やれやれ、これで子どもたちは一段落。

 彼女は小さく息をつくと、皿を片付け始めた。――と、そこへ、自室に戻ったはずの息子が帰ってくる。

「あら、どしたの」

 首を傾げる彼女に、息子は「うん」と頷き、彼女に向けていきなり何かを突き出した。

「――…あら」

 彼女は、目を見張る。

 目の前に突き出されたもの。それは赤い、一輪のバラの花だった。

「……花屋のどこ探してもカーネーションがなくってさ。売り切れだったみたいだ。……しょーがないからバラ買ってきちまった」

 息子はきまり悪そうに頬をかいて、彼女にバラを手渡すと部屋に戻っていく。

「―――…」

 彼女はその背中に向けてにっこり微笑んで、添えてあったメモ帳の切れ端に、また笑った。

『いつもありがとう。太一』

 慌てて書いたような字が、ひどく微笑ましかった。

 

 ―――10時。

 彼女の夫がやっと帰ってきて、彼女は夫の分の夕飯を用意した。

「あー、疲れた」

「お疲れ様」

 夫の言葉に、彼女は「太一とおなじね」と微笑んで、カレーをよそった。

「ん?」

 ふと、夫が何かに気がついたように声を上げる。

「どうしたんだ、このバラ」

「え? ああ、太一が買ってきてくれたのよ。……母の日だからって」

「ふーん…って、母の日はカーネーションじゃなかったのか?」

 夫は苦笑して、太一らしいけどな、とバラを活けた一輪挿しをつついた。

「ええ」

 彼女もにこりと微笑んだ。

すごくあの子らしいわ」、

 

 

 ―――…11時。

 夫は明日も早いからと眠りにつき、彼女は子どもたちの部屋を見て回った。

 娘はいつものように寝相よくベッドに納まっている。

 なかなか兄離れが出来なくて、以前はよく眠れないと起き出してきたものなのだが。

 ……少しカーテンが開いていたので、閉めておいた。

 今夜は星が綺麗だ。

 息子はいつものように寝相悪くベッドに転がっている。

 汚れたジャージをまとめてもっていく途中、ふと床に転がっていた筆箱に気づいて机の上におきかけ……、ちょっと考えてから、鞄の中に分かるように入れておいた。

 

 ――――その後。

 もらったエプロンとハンカチを丁寧にたたんで、バラを活けた一輪挿しの水を替えてから彼女は眠った。

 

『健康で…毎日元気に学校に行ってくれて、楽しそうにしてくれていたら、それだけでもう十分よ』

 

(…でも、たまにはこんな役得があってもいいかもね)

 

 ……その寝顔は、いつものように優しくて穏やかなものであった。

 

 ――――夜空を彩る星々は美しく瞬いている。

 きっと明日は、よく晴れたいい天気になるだろう。

 

END.


時間がないよーとひーひー大学に行く直前にUPです;;
母の日なのに母の日にUPできなかった……;;
昨日にはもーできてたのに;;