――『昼下がりのフェアリー・テイル』――

 

 

 ……タケルは、パソコン室のドアを開けて、動きを止めた。

 

(――――それは、まるで御伽噺の中の光景のようで)

 

 中にいたのは、三つ年上の兄の親友。三つ年上の、コイビト。八神太一。

 彼はすやすやと、窓際の席で椅子に座ったまま、両腕に顔をうずめて眠っていた。

 その頬を、時折風に揺らされたカーテンが撫でる。まるで、いとし子を慈しむ、母の掌のように。

 

(――――まるで、貴方は優しい日差しと、涼しい風に守られた、大事な宝物のようで)

 

 タケルはドアを開けた態勢のまま、目を眇めた。

 

(――――僕は、思わず立ち止まってしまった)

 

 健やかな寝息が、ドアのところまで聞こえてくる。タケルはその無防備な声に、小さく吐息を漏らす。

 

(――――誰よりも、愛しくて、ダイスキな、貴方)

(――――まるで、御伽噺に出てくる、無垢な姫君のような)

 

「……ねえ。太一さんは知らないでしょ」

 タケルは淡く微笑んで、独り言のように呟いた。

 イバラに守られた姫君を助ける王子のように、慎重な足取りで部屋の中に足を踏み入れて。

 

(――――こんな風に、無防備な貴方を見るたびに…僕がどう思っているか)

 

 太一のもとまで辿り着いたタケルは、このうえなく優しい仕種で、太一の頬を撫でた。

 さあっ、と吹いてきた風が、タケルの頬もなぶる。

 

「……だめだよ。そんな風に、無防備でいたら」

 

 ――――悪い魔法使いに、閉じ込められてしまうよ。

 

 タケルは吐息だけでそっと囁き、そっと太一の唇からもれる寝息を自らの唇で奪った。

 

 ああ。

(――――眩暈が、する)

 

 そう。

 眩暈がするほど、貴方がスキ。

 

(――――ねえ、太一さん)

(――――僕はね、いつもこんな風に無防備な太一さんを見るとね)

 

「……貴方を、壊したく、なってしまう」

 

 タケルは昏い目で囁き、淡く微笑んだ。

 

「……………知らないでしょ?」

 

 ――――知らなくて、いいんだけどね。

 

 タケルの囁きはまるで吐息のようで、空気の中に僅かな波紋を残すだけで、すぐに残響も残さず消えた。

 鞄の中で、やはりすやすやと眠っているパタモンすら起こさないほど、小さな囁き。

 ―――けれど、太一はまるでその囁きが聞こえたかのように、ゆっくりと睫毛を揺らした。

 タケルはその緩慢な瞬きを、眠り姫が自分のキスによって目覚めることを信じて疑わない世間知らずの王子のように、微笑を浮かべて見守っている。

 

◇      ◇      ◇      ◇

 

 ――――耳元で、誰かに囁かれた気がして。

 ――――ついで、唇が温かい何かに塞がれた気がして。

 

(起きなくちゃ、いけない)

 

 何故か、そんな気になって。

 

 太一はぼんやりと、緩慢な瞬きを繰り返した。

(……あれ…。俺、寝てたんだっけ…?)

 薄く開いた視界に入ってくるのは、パソコン室の白い机と、キーボード。

 それから、優しく頬を撫でる風と、肩口のあたりに注がれている日差し。……それと。

「……おはよう、太一さん?」

 頭上から囁かれる、年下のコイビトの、笑みを含んだ声。

 ……太一はまだ少しぼんやりとした眼差しをそちらに向け。

「…よう、タケル……?」

 欠伸混じりに答えて、軽く目をこすった。

「うん」

 タケルはそれに嬉しそうに微笑んで。

「よかった。起きてくれて」

 と、優しく目を眇める。

「? なんだよ。それ?」

 太一はタケルの言葉の真意が分からず、彼を見上げた。

 椅子に座っている太一と違って、タケルはいささか行儀悪く、机に直接腰掛けている。そのため、普段と視線の位置が逆になってしまっているようだ。

「だって」

 タケルは子供っぽく、どこかいたずらっぽい笑顔でくすくす笑い、ちゅ、と軽い音を立てて太一の唇にキスをする。

「王子様がキスをしたら、お姫様は起きなくちゃ。御伽噺の鉄則でしょう」

「……あのなあ」

 太一は呆れたようにタケルの笑顔を見つめて、少し赤くなった顔をごまかすように頬をかいた。

「…どこからつっこんでいいのかわかんねえこと、言うなよ」

 彼はそううめいてタケルを睨むと「大体、誰が姫だって?」と、やや憮然とした面持ちで言う。

「勿論太一さんだよ。……決まってるじゃない」

「………」

 太一は大きく溜め息をついた。

 そして、気分を変えるように辺りを軽く見渡して、タケルに尋ねる。

 まずは彼のパートナーのことを。

「パタモンは?」

「鞄の中で寝てるよ」

 お次は太一の可愛い妹たちのこと。

「ヒカリたちはどうしたんだ?」

「今日は掃除当番。結構遅くなりそうだから、僕が先に来て準備をしようと思ったんだ」

 ええと、あとは…。

「京さんはクラスの友達と少し話してから来るって。伊織君は剣道の稽古があるから、今日は失礼しますって、さっき言ってたよ」

「……ふーん」

 太一はにこやかな笑顔のタケルに、ややひるむものを感じながら…「ああ、そうそう。ヤマトたちはなあ」と新たな話題を見つけて、話しかけた。…が。

「―――太一さん?」

 タケルの、ひどく優しい笑顔に、動きを止める。

「……あまり、他のヒトの話ばかりしないでよ」

「いや。……ええと、そういうワケじゃなくてさ」

「それ以上の発言は、言い訳とみなして却下」

 タケルは優しい笑顔で冷ややかに断定すると、困ったように眉を寄せている太一の唇をきつく奪った。

「ん……んっ」

 吐息の漏れる音を残して後ろに下がろうとする太一を、パソコン室の机が阻む。太一の肩をつかんだタケルの掌もそれを許さず、しばらくは濡れたキスの音だけが室内に響いた。

「ん…はぁ……っ」

 ようやく解放された太一は、憮然とした、少し潤んだ目でタケルを睨む。

「もう起きたから、キスはいらねーんだけど」

「知らないの? キスをしてお姫様を起こした王子様は、お姫様を自分の国へ連れて返ってお嫁さんにしちゃうんだよ。これはその時のキス」

「……。そりゃすげえ」

 太一は出来るだけ平坦な声でそのセリフを紡いでから、苦笑するような小さな笑みを浮かべた。

「それじゃあ、コレは夫となった我が王子への親愛のキス」

 そのまま、太一は瞳を閉じて少し背伸びをすると、タケルの唇に触れるだけのキスをする。

 タケルはそれに驚いたように目を丸くして、ふう、と溜め息をつくと……少しだけ乱暴な仕種で太一の身体を抱き寄せた。

 

「僕のお姫様。……貴方は、王子と一緒で……シアワセ?」

 

 耳元で囁くタケルの表情は、太一からは見えない。

 ――――だけど、太一にはありありとタケルの表情が想像できて。

 ゆっくりと、自分の正直な気持ちを伝える。

「シアワセだよ。……お前が起こしてくれたからだけじゃない。王子が、タケルだったから。…そうじゃなかったら、助けてもらっただけで素直にお嫁さんにはならないよ」

「……ふうん」

 タケルはそう吐息だけで呟くと。

「ァッ……」

 目の前に晒されている太一の細いうなじを、きつくついばんだ。

「知らないよ。…そんなこと言って」

「ちょっ……タケッ…ル……」

 甘く乱れる囁き。タケルは太一の首筋をきつく吸って幾つかの痕を残しながら、太一の顔と向き直って、目を開けたまま、太一の唇にキスを落とす。

 無邪気な御伽噺のキスとはかけ離れた、舌を絡ませあうような、深いキスを。

「んっ……んぅっ…ァッ」

 太一は僅かに潤んだ目を細め、タケルが瞳を開けたまま口付けていることに惑うように瞬きを繰り返した。

「……ぁっ……め…、だめ……タケルっ……誰か……来るっ……」

「……駄目」

 キスの合間に途切れ途切れに囁く太一の言葉を、タケルはただ一言で一蹴する。そして、なおいっそう貪るように、太一の身体を机の上に押し倒しながらキスを繰り返した。

「は…ぁ…っ…はぁっ…」

 長いキスが終わった頃には、太一はすっかり息が上がってしまっていた。タケルはそれを微笑んだまま見下ろし「キレイ」と優しく囁いて、殊更ゆっくりとした動作で太一のワイシャツに手をかける。

「あっ……こら、タケル!」

「聞かないよ。……結婚したら、初夜がつきものでしょう? 御伽噺では語られないけどね」

「しょ、初夜って……バ、バカ! ほんとに誰か来たらどーすんだよっ!?」

 にこやかな笑顔のままとんでもないことを言い出す小学生に、太一は顔を真っ赤にしながら抵抗する。しかし、タケルは案外強い力で太一の抵抗を封じてしまい、はだけられた胸元にまたキスを落としてきた。

「ひゃ……っ、ぁ、あぅっ」

「……相変わらず、感度がいいみたいだね、太一さん」

 タケルはくすくす笑って太一の鎖骨の辺りにもキスマークを残し、さあ次はどうしようかというように目を眇める。

 それはまるで獲物を探す猫科の生き物のような眼差しで、太一はどこか心地いいようなその視線に、びくっと身体を震わせた。

(おれ、オカシイ)

 ――――三つも年下の小学生に。

(そりゃあ、コイビトだけど)

 ――――こんなに翻弄されて、でもそれが嬉しいなんて。

(こーいうのって、なんて言うんだっけ?)

 

 とくんとくんとくんとくん。

 

 どんどん早くなっていく心臓の音に身をすくめながら、太一は唾を飲み込んで。

 ――――目を、閉じた。

 まるで、王子のキスを待つ姫のように。

「……」

 タケルはそれに驚いたように目を眇め。

「……太一さん」

 愛しそうに、彼の名を呼んで。

「――――…」

 

 スキ。

 

 そう、そっと呪文を囁いた。

 それだけで、太一は動けなくなる。

 ――――キスされたからじゃない。起こしてくれたからじゃない。

 きっと、御伽噺のお姫様たちも、こんな風に呪文を囁かれたから。

 ――――だからきっと、動けなくなってしまったんだ。

 

「……俺も」

 

 太一が瞳を閉じながら、そっと、そう囁いた……そのとき。

 

 かたん。………がさごそ。

 がたっ。……ぱたぱたっ。

「………あれぇ…? たけりゅう……?」

 幼い、舌っ足らずな声が、室内に響いた。

 ぱたぱたと羽ばたく音は、文字通り、彼の翼が羽ばたく音。

 つまり彼は飛んでるわけで。

 つまり彼も起きちゃったわけで。

 太一は絶望的な確信に呆然としながら、目を開いた。

 

 ――――勿論。

 そこには、高石タケルのパートナーデジモン、パタモンの姿があった。

「? なにしてるの? タケリュも、タイチも…?」

 彼は至極不思議そうに首をこくんと傾げ、机に押し倒されている太一と、それを押し倒している自分のパートナーとを交互に見た。

 しかし、タケルはめげなかった。太一を押し倒したまま、にっこり笑顔で説明を開始しようとすらする。

「あのねえ、パタモン。これは恋人同士の……」

「うわあああああああ!!!」

 しかし、太一はめげた。ていうか、嫌だった。

 こんな無垢なカオをしたデジモンに、そんな爛れたことを教えるのも、見せるのも、勿論激しく嫌だった。

「なななな、なんでもない! ただ、ちょっとふざけててさ!! なあ? タケル!!?」

「…………」

 タケルはおおきーく溜め息をついて。

「ま、そんなトコかな」

 肩をすくめてそう告げた。

 そして、太一の上から渋々退くと、あからさまに未練たらたらな顔つきで、ちらちらとはだけられたままの太一の肌を観察する。

「ふうん…?」

 パタモンはパタパタしたまま不思議そうに首を傾げ、ぽてっとタケルの頭にのっかった。

 ばたばたばたばたばたばたばたばたっ! がららっ!!

 そしてそこへ、やかましい足音と勢いのいいドアを開ける音が響き渡る。

「ああっ♪ たーいちせんぱいっっ!! やっぱり来てたんすねーっっ!!」

「あ、大輔」

 足音の主はそのままの勢いで服を直していた太一のもとまで突進すると、がばあっと抱きついた。

 ぴしぃっ。

 その瞬間、音をたててタケルの額に青筋が入る。その音を聞いたパタモンは、ちょこん、とタケルの顔を覗き込んだ。

「……たけりゅぅ…?」

「…………。パタモン。どーして、もうちょっと寝ててくれなかったの?」

「だって、ボク寝てるのあきたんだもん。それに、タケリュは、ここでなくてもタイチといちゃいちゃできるじゃない?」

「出来るけどねえ」

 タケルはにこやか笑顔のまま、音もなく大輔の真横まで移動すると、ぱかっ、と大輔の足をひっかけて転ばせた。

「うぉわああっ!!」

「大輔!? いきなりどーしたんだよっ?」

「だいしけ、だいじょーぶっっ??」

 そして、面食らった太一が慌てて抱き起こそうとするのを素早く腕で止めて。

「ん…」

 その唇を、ゆっくりとふさいだ。

 タケルの頭上に控えていたパートナーは、仕方なく小さな手と耳のツバサで目を覆う。

「た、タケルっ!」

 慌てて身を離し、口元を押さえて挙動不審になる太一に、タケルはにこっと微笑み。

「ねえ、もしも、僕が王子じゃなかったら?」

 唐突に、そう問いかけた。

「…?」

 意味が分からないといった風に眉を寄せる太一に、タケルはもう一度、辛抱強く尋ねる。

「僕が悪い魔法使いでもいいの? 太一さんを守ってあげる王子様じゃなくて、太一さんを閉じ込める悪い魔物でも」

 

 僕のことを、スキって言ってくれる?

 

 言葉の後半は、降りてきた太一のキスで飲みこまれた。

 優しい、羽のようなキスに目を見張るタケルを睨んで、太一は怒ったように呟く。

「当たり前だ」

 足元ではまだ大輔がじたばたしていて。そんなところでキスをしかけてきたタケルに、正直怒っていたけれど。

 それよりも、もっとずっと太一はむっとしていた。

「俺は、自分の意思でお前を選んだんだからな」

 その決定を疑うなんて。

(俺のスキ≠疑うなんて)

「許さないからな」

 太一はそうはっきり告げてから、にっと笑うと。

「おーい、大輔−? いつまで寝てんだよ?」

 と、どうやら密かにタケルの足に押さえつけられていたらしい大輔を助け起こすべくかがみこんだ。

「た、たいちせんぱーい……」

 どことなくボロボロの大輔はそのまま太一にしがみつき、太一は「しょーがねーなー」と笑っている。

 その光景には相変わらずムッとしたけれど、けれど。だけど。

「タケリュー?」

 パタモンは、パートナーがずっと黙っていることに戸惑って、きょとんと顔を覗き込む。すると。

「見ちゃ駄目」

 こつん、と額を弾かれて、頭上に戻らされた。……だが、一瞬だけ見えたその顔は。

「……タケリュー」

「…なあに、パタモン」

「カオ、赤いよ?」

「……ウルサイ」

 タケルは軽く口元を押さえたまま、ぼそっと呟く。

「やっぱり、まだかなわないなあ」

 それは、どこか優しくて。

 どこか嬉しそうで。

 

「あんまり可愛いと、壊しちゃうからね?」

 

 悪い魔法使いの王子様は、愛しい姫君の身体を引き寄せて、さらりと明るく告げた。

 姫君は面食らったように目を見張って。

 姫君の崇拝者その一は顔を怒りのあまり真っ赤にして目をむいて。

「タァァアケルゥ!! てめえ、それはどぉいう意味だああ!! 太一先輩になんてこと言いやがるっっっ!!!」

「うるさいなあ、大輔君はーっ! あははは」

 結果。

 ばたばたばたと狭い室内を、姫の崇拝者その一に追いかけまわされる羽目になる。

 それでもどこか楽しくて。

 それを見ながら、彼のお姫様が楽しそうにしているのも嬉しくて。

 

「やれるもんならやってみろー!」

 

 けしかけるように、太一が楽しそうに叫ぶ。

「た、たた、たいちせんぱいっ!!? そんなこと言っちゃだめですよ!!」

「あははっ♪ まっかしといて、太一さーん!」

「てんめえええ、黙れタケルーっ!!」

 

 

 日差しは相変わらず優しい。

 風も涼しくて、随分心地よい。

 

 ――――まるで、御伽噺みたいにシアワセな午後。

 

 僕の強気なお姫様は、今日も笑ってくれています。

 

 それなら、今はそれでもいいか。

 

 悪い魔法使いの王子様は、そう思って、お姫様を閉じ込めるための鳥かごを捨てました。

 

 起承転結、ハッピーエンド。

 お姫様と王子様は、今日もきっとシアワセです。

 

END.







……ええっと?
タケルさん鬼畜……かな??
微妙なタケルさんが出来上がりました…。
散々待たせてこのありさま!?
――しかし、私って午後やら、昼下がりやらなシチュエーションが好きだなあ。
ううむ。
……華月さん、こんなモノでよろしかったでしょうか……??(不安)



モドル