――『星見の夜』――
――――星が綺麗だと、あの日アナタは笑った。
(……だから僕は)
――――そうですねと。
(アナタだけを見ながら、静かに答えた)
◇ ◇ ◇ ◇
……こつん、………こつん。
――――深夜。
軽くて硬質的な音を立てて、小石か何かが窓に当たるような音が聞こえた。
(当たるような…?)
真夜中、黙々とパソコンに向かっていた光子郎は、訝しげに眉を寄せ、カーテンがきっちり閉められた窓を振り返る。
……こつん。…………こつっ……。
(…………まさか)
光子郎は小さな吐息混じりに、ちらと時計を確認した。
時刻は前述した通り、本当に真夜中の2時頃で。
(でも、あのヒトならやりかねない)
だけど、咄嗟に浮かんだ「まさか」という思いを打ち消して、光子郎は迷わず窓に近寄り、カーテンを軽く掌でたばめて窓をガラリと開け放つ。
――――途端、ひんやりした冬の風が光子郎の頬を掠めていく。
……季節はもはや冬だった。街に吹く風はこの通り当然のように冷たい。
だから本当に「まさか」と思った。だけど「やっぱり」とも思ってしまった。
そのまま、溜め息としてゆっくり吐き出す息も白い。
「…………よう?」
窓の下で、顔を寒さで赤くしながら、悪戯坊主のような笑顔で太一は声を張り上げる。
「やっぱり起きてたかー」
「……」
……呑気な声に「やっぱり」じゃないでしょとか、貴方こそ「やっぱり」じゃないかとか色々思ったけれど。
「…ちょっと待っててくださいね」
光子郎はもう一つ白い息を吐きながら、少しだけ眉を寄せてみせた。
――――お説教やお小言は、とりあえず下に下りてから。
光子郎はそのまま窓を閉めて、コートとマフラーと、後は財布をつかむと、そのままマンションの廊下に飛び出したのだった。
「おばんでーす♪」
落ち着いて、落ち着いて……と思いながらも最後には少し走ってしまったせいで、光子郎の息は若干荒い。
エレベーターがもどかしかったから非常階段を走ってしまった、という辺りからも、自分が呆れるくらいに焦っていたということが分かる。
そう。たとえ。
――――たとえどんなに、このヒトの突飛な行動に慣れていたとしても。
光子郎は胸中で少し皮肉めいた気持ちになりながら呟き、ふう、と溜め息をついた。その息はまた白い塊に変わり「飲むか?」と太一が差し出してきたコーヒー缶を軽く包む。
「熱いぞー」
言いながら、太一自身はもふもふと、どこぞのコンビニで買ったのであろう肉まんをかじっていた。
光子郎はそんな太一の首に甲斐甲斐しくマフラーをかけてやってから「ありがとうございます」とコーヒーを受け取る。
「食べるか?」
そんな光子郎の前に、今度は食べかけの肉まんが差し出された。
光子郎は今度もその肉まんを素直に受け取って、軽く触れたその手の冷たさに驚いて、その掌をぎゅっと包む。
「手袋は忘れてきたんですか?」
「……ん? 手、冷たいか?」
しかし太一はその問いには答えず、不思議そうにその手を自分の頬に当てている。
相変わらず寒さに無頓着なヒトだと、光子郎はまた白い息を吐いた。
先ほどからこの太一とのやりとりの中で何回、白い息を空気に晒しただろう。
光子郎はそんなことを考えながら、もふっと躊躇なく太一のかじっていたポイントをかじる。太一はそれにやや頬を染め「フツー別のトコから食うもんだろ」と光子郎から肉まんを取り返した。
「生憎、今更普通ぶることも出来ませんので」
そんな子供じみた仕種に光子郎はやっと笑って、肉まんよりもずっと欲しかった太一の掌をつかまえると、その手の甲に優しく舌を這わせる。
「……!」
その感触に太一は一瞬びくりと身体を震わせ、けれど拒みはせずに目元を赤くして軽く俯いた。
「………舌が、張り付いてしまいそうです」
光子郎はそんな太一にくすりと笑みを向け、からかうように、俯いたままの太一の唇をさらう。
「……唇まで、冷たい」
「…………お前な……」
太一は軽く触れただけで離れていった光子郎の唇に頬を染めながら「今夜はわざわざんなコトしに来たんじゃないんだよ!」とやや乱暴な口調で言い放ち、くるりと背を向けた。
「そんなコト、ですか?」
光子郎は不満そうに唇を尖らせながら、自分に背を向けてしまった愛しいヒトの掌をそっと包む。
「あーあ、こんなに冷えちゃって」
少し怒ったような、光子郎の平坦な声に太一は「いや……」と弁解するように目をそらして。
「………光子郎、なかなか小石に気づいてくんねーし…。……最初、なかなかあの窓まで届かなかったし……」
「携帯電話という手段があるでしょう?」
「……番号書いた紙、ウチに置いてきちまったんだもん」
「…………」
やはり太一さんには、近々携帯電話を入手してもらおう。
光子郎はひそかにそんな事を決意しつつ「それじゃ、星見に行きましょうか?」とつないだ太一の掌を軽く引っ張った。
「…? 光子郎? 俺が何しに来たか、何で分かったんだ?」
太一はそれにきょとんとして、だが引っ張られるままに光子郎の後に続く。
「今度同じセリフを言ったら、一晩中いじめますからね」
光子郎はそんな太一に、にこやかな笑顔を浮かべつつ、厳かに宣言してから。
「貴方のことだったら、なんだって分かるんですよ。僕は」
――――晴れやかな笑顔で、あっさりと言ってのけた。
……太一はその言葉に大きく目を見張ってから。
そういえば、いつのまにか並んでしまったらしい、自分と年下の恋人の目線の高さに今更のように気づいて。
「……そんなの」
………まるで先を越されたと悔しがるように、どこか憮然とした……照れた口調でぼそりと呟いた。
「…………とっくの昔から知ってるよ」と。
ここだったら丁度いいでしょう、と光子郎が案内したそこは、近くのビルの屋上だった。
光子郎や太一の住んでいるマンションの屋上は、夜中は危険ということで鍵がかけられている。だが、ここの屋上は、エレベーターが使えないために非常階段を上がらなくてはいけないという難点さえ除けば、まさに絶好の穴場だった。
「…そーいや、あんまりホシミって言葉は、聞かないよなあ」
途中のコンビニで追加購入した食べ物と暖かい飲み物が入ったビニール袋を無造作に置きながら、太一はどっかと冷えたコンクリの上に腰を下ろす。
「まあ、やはりお月見に比べれば語呂もあまりよくないですし」
光子郎は太一のすぐ隣に腰を下ろしながら、先ほど太一にもらった缶コーヒーを一口含んだ。
「……もう冷めちゃっただろ? こっちの飲めよ」
太一はそんな光子郎にふと首を傾げ、ビニール袋をがさがさいわせながらそう勧めたが、光子郎はきっぱりと首を振って。
「暖かいですよ、まだ」
といかにも幸せそうな顔でまた口に含む。
「……うそ。……ぜってー冷たいって」
太一はそんな光子郎に苦笑しながら彼の持つ缶コーヒーに手を伸ばし、ことんと光子郎の肩に自分の頭を乗せた。
「お前って不器用だよな」と言いながら。
……まるで猫のような気まぐれさで身をすり寄せてくる太一に、光子郎も幸せそうに苦笑しつつ、その肩をそっと抱く。
「不器用でもいいんですよ」
――――たとえ不器用でも、貴方を抱きしめられる腕があるのなら。
……そんな光子郎の心中の囁きが聞こえたというわけでもないだろうが……太一は突然ぴくっと身じろぎして、ふっと頭上を見上げた。
「綺麗だなあ」
――――そのまま無邪気に呟かれる声は、ただ純粋な、星空への賞賛。
「……光子郎とさ、一緒にこーいう星が見たかったんだ」
そう呟きながら、光子郎が貸してくれたマフラーにくすぐったそうに笑って「あったけえ」と続ける。
――…まるで脈絡がないような、そんな会話。
光子郎はそんなちぐはぐさすら愛しくて、小さく笑った。……太一はその笑顔と共に漏れた光子郎の吐息に、またくすぐったそうな顔をしてから……星空を見上げたまま、唐突に話を始める。
「……部活の帰りとかで遅くなるとさ、やっぱりこーいう星が見られるんだ」
――――勿論、都会の星空なんてたかが知れてる。
せいぜい幾つかの冬の星座が確認できて、一際輝く一等星、二等星あたりが見られるくらいだ。
「でもさ、やっぱり綺麗だと思わないか?」
けれど太一はそう言って、いかにも愛しそうに笑う。
「俺さ、都会の星も綺麗だと思うよ」
「そうですね」
光子郎は、優しく太一の声に応じた。星なんか、殆ど見ていなかったけれど。
太一は勿論それを知っていて。……だけど何も言わずに、突然話題を転換させる。
「……俺さー。ちっちゃい時、すごいささやかな夢があったの」
太一は喉が渇いたのか、そこでふと言葉を切り「ちょっとくれ」と邪気なく光子郎にコーヒーをねだった。光子郎は「はい」と笑って、素直に缶を手渡しする。
太一はそのままコーヒーを一口二口含んで「やっぱ冷めてるじゃん」と苦笑した。
「幼稚園くらいの時かなあ。大きくなったら何になりたいですかってやつ」
「ああ。……サッカー選手でしょう?」
光子郎は幼い頃の太一を想像してちょっと笑いながら、そう確認する。太一もその言葉に笑った。
「そーそー。ナントカの一つ覚えみたいになー。……でもさあ。俺、ホントは、将来の夢、もう一つだけあったんだ」
彼はそのまま、まるで大事な秘密を話すように、わざとらしく掌を軽くたわめて光子郎に耳打ちする。
「“おおきくなったら、ほしをいっぱいつかまえたいです”」
そう囁くように言ってから。
「この話すんの、光子郎が初めて」
と、微笑んだ。
「…星を」
光子郎は小さく微笑んで、でも真面目な顔で太一に尋ねる。
「星をつかまえて、どうするつもりだったんですか?」
太一はその質問に「いい質問だね、泉くん」と真面目なカオで応じた。
彼はそのまま、あくまでも内緒だぞ、と念を押して、非常に重々しく告げる。
「ぴかぴか光る星をつかまえて、こっそり布団の中で独り占めしてみたかったんだ」
太一はそう告げてから、ニヤリと笑って。
光子郎も思わずにんまり笑って。
「俺ってばかーわいいーっ!」
「微笑ましすぎですよ、それーっ!」
げらげらと、思い切り二人で爆笑してしまった。
……そうやってひとしきり笑ってから、太一はごろん、と屋上に転がって。
「でも、ホントの話。……小さい頃はさ、俺、何でもできると思ってたから」
ふと、何かを懐かしむような、惜しむような調子で呟いた。
光子郎もその隣に座したまま、優しく太一を見つめて「過去形じゃないと、僕は思いますけど」と微笑む。
その言葉に太一は小さく笑って。
「……そうかな」
と答えてから。
「――…でもやっぱり、俺はあの頃ほど無敵じゃないよ」
そっと目を閉じて、ぽつんと言った。
――――手を伸ばせば星がつかめると思っていた。
――――今、手が届かないのは、まだ自分が小さいからで。
――――もっと大きくなれば。もっと背が伸びれば。
――――つかめないものは何一つないと。
ただ無邪気に信じてたあの頃。
「……貴方は、無敵ですよ」
光子郎はそんな太一に相変わらず優しい微笑を向け、横たわったままの太一の唇を覆い被さってふさぐ。
優しいホホエミとは裏腹に、今度のキスはとても深くて。
太一は頬を上気させ、そのまま頬に重なってきた光子郎の掌に縋るように、ぎゅっと袖をつかんだ。
……そのままたっぷりと太一の唇を堪能してから、光子郎は満足げに唇を解放し、にっこり笑顔で続ける。
「――――僕以外には、ですけどね?」
「……ッ……」
太一はその言葉に薄く頬を赤らめながら「お前は敵じゃないだろ」とぼやくが、「僕に勝てるんですか?」という光子郎の言葉にあっさりと降参した。
「へーへー、どうせ俺はお前には勝てませんよー」
その目は今度はまっすぐに光子郎だけを見ていたので、光子郎は大変に満足して。
「分かればいいんです」と、素直に太一を解放した。
「――――今でも、星をつかみたいですか?」
――遙か眼下の小さな出来事などどうでもいいと言うように、僅かな星々は依然として太一たちの頭上にある。
「どうかなー」
太一は光子郎の問いに彼にしては珍しく曖昧に笑って、今は見てるだけでもいいんだと呟いた。
「そうですか」
光子郎はその答えに静かに目を閉じて……(でも)と、心中で続ける。
(――――もし、貴方がそれを欲するのならば)
(――――きっと、あの天空に輝く星すらも、その手につかめるんだろう)
それはまるで当たり前のことのようで。
光子郎は、本当は自分にだって最高に無敵なヒトを、優しく、愛しげに見つめた。
「ねえ、太一さん。……僕も誰にも言ってない、内緒の秘密を教えてあげましょうか?」
「……へーえ? 聞かせてくれよ」
「それはね」
――――光子郎がとびきりの秘密を話そうと口を開いた瞬間、ふっと星が一つ流れていった。
気まぐれな流れ星にふと目を奪われ、呆けたように口を開けた太一にそっと顔を近づけながら、光子郎は続きを心のなかで囁く。
(僕にも、ずっとずっと欲しかったものがあるんです)と。
――――それはずっとずっと昔。幼い頃に抱いた漠然とした望みだったけれど。
(一人きりの真夜中に、窓を叩いてくれるヒト)
(寒いときに、暖かい飲み物を優しく差しのべてくれるヒト)
だから光子郎は流れ星を見つめる太一を、背中から抱きしめてゆっくりと囁いた。
「星をもつかめる貴方を抱きしめられる僕は、とても幸せだと思いませんか?」と。
すると太一はちょっと黙ってから……「馬鹿だな」と声をあげて笑って、光子郎に背中を預けると。
「寒い夜に抱きしめてくれるあったかい奴と、一緒に好きなものを見られる。……こんなに幸せで、無敵な俺にかなうはずないだろ?」
――――そう、さも当然のように告げて晴れ晴れと笑った。
◇ ◇ ◇ ◇
――――星が綺麗だと、あの日アナタは笑った。
(……だから僕は)
――――そうですねと。
(アナタだけを見ながら、静かに答えた)
――――勿論、僕にとっては、星を見るアナタが何よりも綺麗で、いとおしいのです。
――――だけど、そう告げたら、きっとアナタは「馬鹿だな」と笑うことでしょう。
――――それでも僕はどうしようもなく幸せで。
……キラキラ輝く、僕だけの星。
それがアナタだって言ったら、アナタはきっと笑うのでしょう。
(――――勿論、それでも僕は幸せなんですけどね?)
光子郎はただ自分の中だけでそう呟いて、にっこりと笑った。
END.
星が綺麗で嬉しい太一。
そんな太一が嬉しい光子郎。
一方通行なようで、実はちゃんとつながってる二人が理想です。