―――『君にあの星空を・後編』―――

 
 ――――『一体、いつになったら、あの子に本当のことを話せるのかしら……』


(……声が聞こえる)

 ――――『もう少し、もう少し待とうじゃないか。光子郎がもっと大きくなるまで』

(………お母さんと……お父さんの声?)

 ――――『でもあの子、ひょっとしたら薄々気づいているんじゃないかしら』

(………やめてください……言わないで)
 
 ――――『自分が………

(僕が、僕が……)

 ――――『養子だって』

(貴方たちの子供ではないなんて、言わないで――――!)

 ……悲鳴が尾を引く。
 これは悪夢。いつまでも繰り返される、僕だけの悪夢。
 まるでビデオでも見ているみたいに、真っ暗に暗転した画面に、また両親のシルエットが映り始める。
 僕の、本当の両親ではない『両親』のシルエットが。

 ――――『一体、いつになったら……』

 オートリバース。いつまでも繰り返し。
 何度でも僕を苦しめる、半永久的な悪夢。

 ――――『でも……あの子、ひょっとしたら……』

(もう、やめてください……。誰か、僕を起こして……この悪夢から……)

 その時だ。
 突然、僕の前に広がっていた大画面にヒビが入った。
 大きく入ったヒビは、たちまち亀裂へと広がり、画面は、きらきらと光るカケラを撒き散らして霧散する。
(………どうして? 何が起こったんだろう?)
 おずおずと手を伸ばしたそこに、誰かがいる。
 僕が、恐る恐る伸ばした掌を躊躇なくつかんで、眩しいくらいの笑顔を見せた、その人は。

『光子郎!』

 その瞬間。輝きが、世界に満ちる。
 何の気負いもなく僕の名前を呼んで、一瞬もためらわずに僕を闇から引っ張り出してくれた人の足元から、光が広がっていく。

 ――――つながれた手と手が、とても暖かくて。
 僕はただただ呆然と、誰よりも憧れてやまない人のことを見上げた。
 目を大きく見開いて……瞬きをして。

「…………こうしろう?」

 ――――僕は、自分が夢を見ていたということに気づいた。

◇      ◇      ◇      ◇

「………なあ、こうしろうってば……? だいじょうぶか?」

 ――――光子郎は、自分か夢から覚めたということに気づいた。

 首筋に当たる草と土の感覚がじわじわと伝わってくると共に、やけに背中が痛いことにも思い当たる。

「こうしろう…!」

「……………大丈夫……ですよ」

 光子郎は、太一の呼びかける声が本気で泣きそうになっていることにようやく気づき、にこっとぎこちなく笑ってみせた。

「こうしろう……いたくない? へいき? ほんと?」

「ええ。……本当ですよ」

 光子郎は頷きながら、後ろに腕を突っ張らせて半身を起こす。

 そして、辺りが暗くなっていることと……太一の体が擦り傷だらけなことに、ようやく頭がまわるようになった。

「太一さん! その怪我は……!」

「え? けが?」

 太一は慌てて聞いてくる光子郎に首を傾げ「いたいけど、へいき」と笑う。

「こうしろうがへいきなら、たいちもへいきだ」

 何とも健気な言葉だが、勿論光子郎が納得する筈はなかった。

「……平気なはず、ないでしょう! ほら、ちゃんと見せてください!」

「やだー、いい、へいきーっ、いたくない〜っ」

 しっかと手首をつかまれてなお暴れる太一の姿は、何やら歯医者に連れて行かれる子供の姿を彷彿とさせた(まだ子供だけど)。

 そんな太一を押さえつけるようにして何とか傷を確認した光子郎は、傷がそれほど大したものではなかったことにホッと吐息して……必然的にそうならざるを得なかった自分たちの態勢に、ぎく、と身を強張らせる。

 半泣き状態の太一の上に馬乗りになり、両手首を地面に縫い付けるようにして押し倒している自分。

 傷口をちゃんと確認しようとしていたために、光子郎はかなり太一の身体に顔を近づけていた。……そして、最後に太一の顔を確認したがために、光子郎と太一の顔はかなり近づいていた。

 ……そう。まるで、恋人同士がキスをするような近さに。

「す、すすす、すみませんっ!」

「?」

 光子郎は弾かれたように太一から離れ、どくんどくんとかなりの速さで脈打っている胸を押さえた。

「すすす? すみません?」

「何でも! 何でもないんです! 何でもないですから、復唱しないでくださいっっ」

「……こうしろう、へんだよ」

「変じゃないですよ〜〜っ! 僕は! 僕はいたって正常です!」

 ぶんぶんぶんと勢い良く首を振る光子郎に太一はますます不思議そうな顔をしたが、光子郎は真っ赤になった顔を隠すように明後日の方向を向く。

「し、しかし、僕たちは一体どうなったんでしたっけね!」

「おちた」

「あー、そうそうそう! 落ちた! ………落ちた?」

 光子郎は、ばっと太一に振り返り、ばっと上を見た。

 ――――どうやら二人が滑り落ちた急斜面は『急斜面』と言うよりも崖に近いものだったらしい。角度の話ではない。高さの話だ。

 頭上は、崖から垂直に生えた植物や、天まで伸びよとばかりに生い茂る木々の葉っぱが覆っており、とてもではないがもといた場所は見えそうにない。無論、もといた場所からもここは見えそうにもないということだ。

「困ったな……。これじゃ、皆と合流するのは難しいかもしれない」

「たいち、さっきおきた。こうしろう、いまおきた。……きっと、おなかすいたから」

「おなか……?」

 そう言われて初めて、光子郎は自分が空腹を感じていることに気づく。

「そうか…、僕たち、お昼も食べずに気を失ってたんですね……」

「おなか、すいちゃった」

「ええ、僕もです」

 きゅるるる、と切なく空気だけが胃袋を通過する音に、二人は情けない顔をした。

「とりあえず……せっかく採ってきた食べ物だけど……今食べてしまったほうがいいと思います。…さて、まずは火をおこさなくては…」

「きのみ、たべるっ! ……でも、こうしろう、ひ、をおこすってなに? ひ、ねてるのか?」

「焚き火をするってことです。こんなに暗いでしょう?」

 光子郎は太一の無邪気な質問に答えてやりながら、大分ぎこちなくなくなってきた笑顔を浮かべる。

「あ、あと……それから、太一さん」

「? なーに、こーしろー?」

「……えっと」

――――『ありがとうございました』。

「……?」

 ――――『あの悪夢から、助けてくれて』。

「…………すみません。やっぱり、何でもないです」

 光子郎は困ったような笑顔を浮かべて、ふるふると首を振った。

「?」

 太一は疑問符だらけの顔を光子郎に向けたが、光子郎はその話はそれでおしまいとばかりに火をおこす準備を始めている。

「こうしろう、へんだ」

 いたって正直な太一の言葉に、光子郎は何も答えず……ただ、心中で呟いた。

(その通りかもしれないな)

 ――――僕はおかしい。

 そんな風に。

 

 

 ――――時刻は、恐らく自分たちの感覚で言えば午後九時をまわった頃だろうか。

 光子郎たちは焚き火をする際に、頭上を木々で覆われていない場所に移動したのだったが……。

(誰か、この煙に気づいてくれればいいんだけどな)

 夜空にたちのぼる煙を目印にしてくれれば、場所を知らせることと無事を伝えることが同時に出来る。

「たいち、もうおなかへってないよ」

 そんな光子郎の横で、太一はにこにこしながらころんっと草地に転がって、幸せそうにまたもや星を眺めていた。

「太一さん、そう言うときはおなかいっぱい≠ナいいんですよ」

「んと。……おなか、いっぱい?」

「そうです」

「んー……よくわかんない」

「ゆっくり、分かっていけばいいんですよ」

 光子郎は何気なく太一に告げて、にっこりと笑った。随分優しい、自然な笑顔で。

 その言葉が、既に『太一』が治ることを諦めているセリフだとも気づかずに。

「あっ、ほし、おちた!」

 太一が突然、がばっと起き上がって、夜空を指差した。

 光子郎は「えっ?」と反射的に太一の指差す先を眺めると、確かに、網膜に僅かな光の残像を残して消え去る星が視界に入る。

「ああ……太一さん、あれは流れ星≠チていうんですよ」

「ながれぼし?」

「そうです。……あの星は、果たして太陽系の星なんでしょうか……」

 途中からは完全に光子郎の独り言である。

 太一もどちらかというと探究心旺盛な方ではないらしく、自分の興味のない単語には全く突っ込んでこない。それに太一は『流れ星』の方が気に入ったようで「ながれぼし、ながれぼし」と言い続けている。

 そして、また突然に「あっ」と光子郎のほうに向き直った。

「今度はどうしたんですか、太一さん?」

 光子郎の言葉に、太一は「大発見をした」とばかりに顔を上気させて、ぶんぶんと腕を振る。

「こーしろー! たいち、あのほしひろってきてあげる!」

「……………え?」

 太一の言葉に、光子郎は目を丸くした。

 太一はそんな光子郎にかまわず、心の底から嬉しそうな顔で星空を指差す。

「てがとどかないって、こうしろう、いった。でも、じめんにあるなら、てがとどく、ぜったい! だから、たいち、ひろってきてあげる!」

 今まで座っていた場所から立ち上がってまで力説する太一に、光子郎は訂正も説明もできずに圧倒されてしまう。

「こうしろうにあげる」

「太一さん……」

 

『お前って、そーやってすぐ決め付けるよな』

 

 また、耳に蘇った、いつかの『太一』の言葉。

 

『試したことないんだろ? 本に書いてあること全部が正しいわけじゃないじゃんか』

 

 どこまでもまっすぐな、太一の言葉。

 

『やってみなきゃわかんねーだろ。……なら、やってみようぜ? 俺たちに出来るかもしれないんだから』

 

 ――――そのセリフと、今の『太一』のセリフが、何故か重なった。

 光子郎は言葉を探すように言いよどんだが……結局苦笑めいた笑みを浮かべて、立ち上がった太一の手をつかんで座らせた。

(……分かりましたよ、太一さん。試してみてください)

 そう、そっと胸中で囁きながら、目の前でにこにこしている今の『太一』に向かって話しかける。

「……ありがとうございます、太一さん。でも……」

「でも?」

「……今日は、もう遅いですし」

 光子郎はぽんぽん、と太一の頭を軽く撫でるように叩く。

「明日、一緒に拾いに行きましょう」

 ――――わざわざ、夢を壊すこともない。

「うん! こうしろう、だいすきっ!」

「わっ、た、太一さんっ、あんまりしがみつかないでくださいっ……嬉しいですけど」

 そう考えながら、光子郎は心のどこかで、先ほどの囁きの続きを呟いていた。

(貴方なら……)

 そう。貴方なら。

(星を、つかめるかもしれないから)

 そんな風に。

 ――――その何気ない会話が、全てを変えることになるとも知らずに。

 

◇      ◇      ◇      ◇

 

 しん、と静まり返った夜には、普段聞こえもしない音が聞こえることがあるという。

 昼間は誰かの声にかき消されてしまいそうな小さな声も、星の瞬く音すらも聞こえてきそうなそんな夜には、聞こえることもあるという。

 何となく眠れずに、健やかな寝息を立てる太一の横で火の番をしていた光子郎は、ふっとそんな話を思い出した。

 小さな身体を更に丸めて、光子郎は余計なことを考えないように、ちろちろと踊る火の粉を見つめることにした。

(……普段聞こえもしない声)

 ――――そんな声、聞きたくもない。

 光子郎は即座にそう考えて、音を立てないように息を吐き出した。

 探究心の強い彼にしては珍しいくらいに、強い否定だ。

 だが、つい最近、聞かなくてもいいような自分の、殊更に醜い声≠自覚してしまった少年にとっては無理からぬことかもしれない。

「……こうしろう……」

 ぱちっ、と小さな音を立てて火が弾けた。

 その音に反応したのか、安らかな寝息を立てていた太一がふっ…と瞼を上げる。

「まだ、おきてるのか…?」

 拙い言葉。

 だが、その口調は、ひどく『前』の太一と似た口調で。

「太一さんっ!」

 光子郎はすぐさま立ち上がり、強く太一の手首を握り締めて、きっと強い目で彼を見つめる。

「……? こうしろう、どうした?」

「………太一、さん……」

 だが、きょとんとした、依然として幼い声の響きに、光子郎は気が抜けたように、かくん、と膝を折った。

「いえ……なんでもありません……」

 ぐっ…と太一の肩を支えにしながら、光子郎は弱々しく微笑む。

(僕は、ほっとしてるのか……? がっかりしてるんだろうか……? もう、何が何だか分からない……)

「こうしろうは、なんでおきてるの?」

「いえ……」

 光子郎は疲れた頭を軽く振って、焚き火の側に座りなおしてから太一に答えた。

「皆が今も僕たちを探しているはずですから、なるべく起きていようと思って」

 つく必要のない嘘をつく自分に自己嫌悪をおぼえながらもそう言って、光子郎は火に目を落とす。

「みんな……?」

 太一はぽやん、とした口調で繰り返してから、もぞもぞと起き上がった。

「寝てていいですよ、太一さん」

「……いい。ねむくない」

 太一はごしごしと目の上をこすりながら、光子郎の横に体育座りに座る。彼はそのまま膝に顔を埋めて、ぽつんと、だがはっきりした声で呟いた。

 

「たいち、こうしろうだけいてくれればいい」

 

 ――――光子郎の表情が、硬直する。

「太一さん……それ…は……」

 凍りついたような顔で自分を見つめる光子郎に、太一は澄んだ声で続けた。

「ほかは、なにもいらない。……ほんとう」

 赤々と燃える炎に照らされる太一の顔は、神託を告げる巫女のように神聖にも見え、また『何か』を挑発するような甘やかな表情にも見えた。

「ずっと、ふたりだけでいい」

 太一は光子郎の胸に顔を埋めるようにしてしがみつく。

「………こうしろうとだけ、いっしょにいたい」

 光子郎は呆然と、しがみつく太一を見ていた。

 

 コノママ。

 

 コノママ。

 

 フタリダケデ。

 

 ――――――――――――二人だけで。

 

 

光子郎の、心のたがが飛んだ。

 

 

「んっ……んん、んっう……っ?」

 気がついたときには、自分よりも大きな体格の太一を草地に押し倒して、その唇を塞いでいた。

 以前、星を見ていた太一にしたような触れるだけのキスではない。

 ――――光子郎が必死に押し隠してきた、執着と欲望をあらわにした口づけだ。

「…ぅんっ……ゃっ……!」

 太一は怯えたような声を洩らしながら、懸命に光子郎と自分の間に腕を突っ張らせて、半ば本能的に光子郎を押しのけようとする。だが、別の生き物のように口内に侵入してくる光子郎の下に歯列を割られた瞬間、かくっと身体から力が抜けてしまった。

 それと同時に、全く覚えのない感覚が、背筋を一気に這い上がってくるのが分かる。

 太一は必死に光子郎から離れようとしたが、光子郎の手首を押さえつける力は存外に強く、僅かに身じろいだだけに終わった。

「ふ……ぁぅんっ……」

「……」

 やがて、ようやく光子郎の唇が太一の唇から離れていった。息を荒げ、頬を上気させる太一の唇と光子郎の唇の間に、唾液の糸が卑猥な橋を作る。

「こう……しろう……これ、くるしい…」

 太一は息も絶え絶えになりながら、絶対の信頼を置く光子郎に哀願した。……そうすれば、光子郎がいつものように「大丈夫ですか?」と言ってくれると信じて。

 だが、光子郎から返ってきたのは、冷たい沈黙だけだった。

「こうしろう……?」

 太一は言い知れぬ恐怖を覚えて、ぎゅっと光子郎の服の袖をつかんだ。まくられた袖が太一の手に引っかかって、するりとほどけて片方だけが長袖になる。

 袖がほどけて長袖になる様子を呆然と見ていた太一は、光子郎が何も言わずに太一の首筋に舌を這わせてきたことにようやく気づいて、びくっと身をすくませた。

「やだ! やだ、こうしろう、やだ!」

 太一はぐいぐいと両手で自分の襟の間に顔を埋める光子郎の頭を引き剥がそうとしたが、光子郎の舌の感触に身体から力が抜けていく。

 うなじの髪の生え際にきつく吸い付かれたかと思えば、首の付け根を舌先で優しくくすぐられ、太一の抵抗を続けていた掌からも力が抜けていった。

「ぁんっ……や、ふぁ……やだ……やだよ…やめて……っぁ…」

 光子郎の小さな掌がシャツの下のほうから侵入してきていることに、太一はその時ようやく気づいた。冷たい掌の感触が素肌を這いまわり、やがて二つの胸の突起にたどりつく。

「ひっ……」

 まだ柔らかい皮膚を、ぎゅっときつくつねりあげると、太一の喉から引きつった悲鳴がもれた。

「や、やっ、やだ……こうしろっ……こうしろぉっ……!」

 光子郎の細い指先によってたちまち熟したそこは、いつのまにか胸元までめくり上げられていたシャツによって外気にさらされ、冷たい空気に縮こまる。

「…ひぁっ……あ、ひぁぅ……っ」

 太一は、はあはあと息を荒げながら、泣きそうな声を洩らした。光子郎が、外気にさらされた突起を唇に含んで弄び始めたからだ。

「やぁ……っこぉしろうっ……しらないッ……こんなこと、やだぁっっ!」

 かりっと歯を立てると、びくんっと太一の身体がしなった。

「……。どうして」

 光子郎はその様子を、ひどく熱っぽくて、またひどく冷めた視線で見つめる。

「……どうして気づかなかったんですか? 太一さん。……僕が、ずっと、こういう目で―――貴方を見ていたってコト」

「……?」

 びくびくと跳ねる太一の身体を押さえつけながら、光子郎は低い声で囁く。

 睦言を囁くように、あるいは罪状を読み上げるかのように。

「なに……? わからないよ……こうしろ…っ……ひぁんっ!」

「ええ。貴方≠ヘ知らない。でも貴方≠ヘ…あんなことを言ってはいけなかったんですよ――?」

「や、やだぁっ! やめて、そんなとこッッ……」

 じわじわと先走りのもれ始めた部分に掌を滑り込ませると、太一の泣き声がいっそう甲高くなった。

「さわっちゃ……や、やだぁ……はな、はなしてぇっ……」

 ひくひく喉を震わせる太一の突起をゆっくりと舐めあげ、残酷なくらいに甘く追い詰めながら光子郎は囁き続ける。甘く、低く。

「………だから、バランスが崩れてしまったんです。…ねえ?」

 ――――ああ、あの夜の。

 ――――あの時の、僕の声だ。

 光子郎はふとそんなことに気づいて、ふ、と食らい笑みを浮かべた。

 ――――まるで、自分すら、追い詰めようとするかのように。

 

 ――――光子郎は、わざと音を立てて太一自身をいじりまわした。

 太一の身体はとても敏感なので、これだけの愛撫でも大量の先走りが指に付着する。

 光子郎はその先走りに濡れた指先をずるっとズボンの中から引き抜き、興味深そうにそれを眺めた。そして、荒い吐息を洩らす太一の足を、ぐっと開かせる。

「……こんなにいっぱい、出るものなんですね。知らなかった。……ね? まだ、イッてないでしょう。太一さん」

「やっ……なにすっ……」

「何をするって? 太一さんはこのまま、下着もズボンもぐしょぐしょにしたいんですか?」

「やだ……こうしろう、やだよっ……はなして、はなしてぇっ!」

 誰よりも信じていた相手の暴挙に、太一は恐慌をきたしてじたばたと暴れる。

 ――――光子郎は、薄い笑みすら浮かべながらその抵抗を受け流し、下着と一緒に手早くズボンを脱がせてしまった。

「……綺麗な、足ですね?」

 その下から現れた、よく日に焼けた小麦色の肌に光子郎はそう囁く。彼はそのまま、太腿の付け根にキスを落とした。

「やっ…!」

 それだけのことにまた身体を引きつらせて身をよじる太一に、光子郎はまた笑う。

「……柔らかい。太一さんの肌。……すぐ、痕がついちゃいそうですね」

 上半身にも、いっぱい痕つけちゃいましたけど。

 そうも囁いて、光子郎は同じ場所を少し強くついばんだ。

「や、ぁあぅっ……ひぁっ」

 足首に、あるいはふくらはぎに。ところかまわず口付けをし、痕を残そうとする光子郎に太一はぽろぽろと涙を流して懇願する。

「いや……いや、いや…、やめて……ぇ」

 その痛々しい悲鳴すらも、もう今の光子郎には届かない。

「身体中に痕を残してあげますよ……隅から隅まで僕のものだって言う証をね」

 ……彼は昏い瞳で呟きながら、太腿の付け根に軽く噛み付いた。太一の身体がびくんと躍動し、既に硬くなっていた太一の中心から一気に白濁した液が溢れ出す。

「ああっ……ぁあああ!」

 どうにもこらえようのない感覚が『太一』の幼い自我を支配した。

 光子郎はもれ続ける液を指先で拭って、ぺろっと舐めながら粗相をした子供を責めるように太腿を軽くつねる。

「ひぁ…んっ」

「駄目じゃないですか、太一さん。貴方の初めては、もっとゆっくり見たかったのに。こんなに早く出しちゃって……、ほら、僕はまだ足にしか触ってないんですよ」

 そういいながらまた光子郎の手は明らかな意図を持って、太一の滑らかな肌の上をさまよい始める。

「や、やぁっ……くすぐったい……」

「……なのに、また勃ってきてますよ」

 光子郎はもぞもぞと身じろぐ太一に優しい笑みを向け、ぎゅっと太一自身をきつく握り締めた。

 唐突で残酷な愛撫に、太一の身がびくっと跳ねる。

「いやぁ……っ! や、や、はなしてぇ……そこ、や、やぁっ……!」

「嫌? 嘘はいけませんよ、太一さん」

 光子郎はいかにも楽しそうにくすくす笑った。ぎこちなく、ない笑顔で。

「こんなにぐちゃぐちゃになってるのに」

「ああっ…! さわんないでっ……へ、へんになる……またっ……」

「今、ここでやめたほうが辛いんですよ。……ほら、また出しましょうか」

 光子郎の細い指が、ぐっと先端を強く押した。

 その感触に、また太一が弾ける。

「やだ、やだっ……ひぁぁあッ!」

 太一は涙の雫を地面に吸い込ませながら、甲高い悲鳴を上げた。

「もっ……も、もぉ、やだぁ……やだっ……」

「嫌? 嘘ばっかり」

 光子郎はたっぷりと指に乗せた精液を、泣きじゃくる太一の目の前に持っていく。

「気持ちいい筈ですよ。凄く感じるでしょう?」

「やだぁ……やだ……」

「太一さん……何度同じことを言わせるんですか」

 光子郎は、不意に表情の消え失せた顔を太一の足と足の間に埋めて、冷たく囁いた。

「……嘘つき」

「ひぁ……ぁあ、ひッ……あぁんっ!」

 囁きとほぼ同時に、太一自身に光子郎の舌と歯が絡みつく。

 恐ろしく深い奈落に直結しているような快楽に、太一は背筋を震わせた。

「いやぁ……やだあ……っ…! こぉしろっ……やめて、たすけてっ……ぁああっ!」

 光子郎の口の中にすっぽり包まれた太一は、全身を強張らせて喘ぐ。

 唇からはひっきりなしに水蒸気を大量に含んだ吐息が漏れ、瞳は涙で霞んでしまっている。光子郎の手によって掲げられた足だけが、ひくひくと幾度も震えて、夜目にも鮮やかだった。

「あ、ぁふっ……また、またッ……やめて、やだ、やだったら…ふぁああッ!」

 光子郎の歯並びのよい歯列が太一自身に絡みついた瞬間、太一は甲高い悲鳴を上げて三度目の絶頂を迎えた。

 太一はひくひくと身体を震わせて虚ろな目で力なく地面を見つめたが、光子郎は貪欲に太一を飲み干し、まだ足りないとばかりに口唇の愛撫を続行する。

「ひぁ…あぁん……やめて……たすけて……こ…しろぉ……」

 太一は激しすぎる悦楽に呑み込まれて、大きく肩で喘いだ。その声は嬌声というよりは痛々しい悲鳴に近い。身体は確かに快楽と認識しているのだが『太一』の未成熟な精神がそこまで追いつかずにいるのだ。

 光子郎はその現実に気づかないフリをしながら、だんだんと分かってきたポイントをたっぷりと愛撫し、太一は泣きながら―――けれど、また間近に迫って来た絶頂に追い立てられていく。

「……ひっ…ぁあああっ!」

 強制的な解放に太一は悲鳴を上げ、光子郎はごくりとそれを嚥下した。連続的に射精しているせいか、先程よりも濃さがなくなっているようだ。

「こぉしろう……こうしろう……」

 太一は溢れ続ける涙を拭おうともせず、霞む視界で光子郎を見上げた。

 光子郎はその両目をそっと片手で覆い、地面に仰向けに倒れている太一の唇に口付ける。

 先程の、全てを奪おうとしているような切羽詰まったキスではない、優しく深いキスに太一も目を閉じた。

 ――――誰にも見せたくない。

 ――――この瞳も、声も、唇も、身体も……心すらも、全てを自分だけのものにしてしまいたい。

(あれは……本当にデビモンの残留思念だったんだろうか)

 光子郎は、おずおずと応えてきた太一の舌に自分のそれを絡めながら、太一の両目を覆っていた掌を外してやった。

 ――――太一の心には、たくさんの人々が住んでいる。

 それは両親であったり、妹であったり、仲間であったりするのだろうけど……。

 当たり前の、ことなのだろうけど。

(それすらも、僕は許せないんだ)

 光子郎は幾度も、幾度もキスを落とす。

 舌の絡み合う音で、唾液に濡れた唇の立てる水音にも似た粘着音で、身体を重ねることで、太一の全てを縛ることが出来たら、と願いながら。

(――――僕だけのことを考えてほしい。僕だけを想ってほしい。ほかのものなんて見ないで……)

 時々、真剣にそんなことを思う時がある。

 それはドロドロした、とても醜い、子供めいた独占欲。

(僕は、狂ってるのかな)

 光子郎は胸の中で独りごちながら、ぴちゃっと音をたてて太一の唇から離れた。そして、甘いキスにうっとりしている太一の足と足を思い切り開く。

「や、やだっ! みないで!」

「どうして?」

 光子郎は小さく笑って、再度そこに顔を埋める。太一は、またあの怖い感覚がくるのかと怯え、ぎゅっと目を閉じたが……光子郎の舌は、太一が思いもしなかった場所に到達した。

「ひ、やぁ……やだぁっっ……!」

 涙と同じ、いや、それ以上に溢れきっている精液に濡れた後ろに、光子郎は舌を這わせ始めたのである。

 太一はひきつれた声を洩らして、信じられないような濡れた感触に身体を震わせた。

 光子郎は色濃い情欲を目に宿しながら、どこか事務的に太一の後ろをほぐし続ける。

 時には舌だけではなく指もくわえて、過剰なくらいの愛撫を続けた。

(……僕は狂っている)

 誰よりも大事な人にこんな仕打ちをして。

 誰よりも憧れていた人をこんなに貶めて。

 ダイスキな人に、こんなにケガラワシイコトをして。

 ――――どうして、こんなに嬉しいんだろう?

 ……光子郎は、胸の奥から湧き上がってくる嘲笑に身を預けるようにして、心中でうめく。

(あの、デビモンの姿は――――ひょっとしたら僕が生み出したものなのかもしれない)

 ――――太一の全てを手に入れたくて。

 ――――太一が別の誰かに少しでも目を向けることが許せなくて。

 

 ――――――いっそ、壊してしまいたかった。

 

 

「あんな、バカなことを言うから……悪いんですよ、太一さん」

 光子郎は自嘲の笑みを刻みながら、そっと囁いた。

 太一が、もう殆ど聞いていないことを知っていたけれど。

「………ねえ、太一さん」

「あ、ぁああっ! ……ぅ、ひぁあっ!」

 ずるっと、硬く張り詰めた光子郎が、太一を一気に貫く。

「僕だけでいい? ねえ、本当に? 本当にそう思うんですか?」

「あっ…ひぅっ! ……ああっ……!」

 ズッ、ズッと光子郎が太一の敏感な体内を這いまわる。

 光子郎は初めての快楽に夢中になって太一を突き上げ、太一は貫かれる衝撃と吐き気を伴う違和感、それと堪えようのない悦楽に、ただただ必死で光子郎にしがみついた。

「こ、こぉしろっ……こぉしろぉっっ……!」

「……太一さんの……嘘つき」

 光子郎は残酷に囁くと、いったん自身を太一の中から引き抜いた。

「ぁあ……っ」

 太一の喉からどこか物足りなげな声が漏れる。そして、無意識のうちにか、もう靴下しかはいていない足を光子郎の腰に絡みつけた。

「大丈夫ですよ。……また、すぐに僕を入れてあげます」

「な……なに?」

 太一は光子郎に四つん這いの姿勢をとるよう促され、不安そうに眉を寄せながら言うがままの姿勢をとる。

「よくできました」

 光子郎は優しく……太一の背後から囁いて「何?」と首をねじろうとする太一を、そのまま後ろから犯した。

「あ……あっ、ぁあああっ!」

 太一は先ほどの体位よりも尚深く入ってくる光子郎に目を見開き、喉の奥から嬌声を迸らせる。

「っ……くっ……! 太一さん………そんなに締め付けないで……」

「ああっ、あうっひうっ、ァアッ……も、もうだめぇっ……!」

「……ッ!」

 光子郎は激しい太一の締め付けに、たちまち太一の中で爆発してしまった。

 身体の奥で弾けた光子郎に誘発されるように、太一もまた絶頂を迎える。

「あ、ぁああ――――っっ! こぉしろっ、こぉしろぉっ!」

「太一さん……」

 光子郎は太一の中の感覚にうっとりと目を瞬かせながら、物足りなさそうにヒクつく内部を、回復してきている自身でかきまわした。

「ふ、ぁあんっ……こぉしろう……」

 太一は腰を高々と抱えられた状態で、ぐったりと両腕を大地にもたれさせる。

 だが、また激しく動き始めた光子郎に頬を上気させ、甘い悲鳴を洩らしながら光子郎の律動に身を任せた。

「こうしろう……っ…こぉしろおっっ……! いっぱいすき……すきっ…」

「太一さん……太一さん……っ」

 

◇      ◇      ◇      ◇

 

 ――――まるで熱に浮かされたように二人は激しく交わりあい、地面はどちらのものともつかぬ精液で白く湿った。

 光子郎も太一も、お互いタチの悪い悪夢を見ているように貪りあい―――やがて、いつしか眠りにつく。

 目が覚めたら全て≠ェ元通りになっているといい。

 ……全てが。

 そう、心の底から願いながら………。

 

◇      ◇      ◇      ◇

「……う…ん……」

 太一は微かに睫毛を震わせ、ゆっくりと目を開けた。

 大気はひやりと冷たく、辺りはけぶるような朝もやに包まれている。

「……あさ…?」

 ぼんやりと呟きながら身を起こそうとして……太一はようやく気づいた。

 自分が、光子郎に抱きしめられるようにして眠っているということに。

「……っ!」

 太一はたちまち昨夜のことを思い出して、はっと全身を強張らせたが……光子郎は泥のように眠っていて、まだ目を覚ます様子はない。

「………」

 太一は戸惑いを隠せない目で光子郎の幼い寝顔を見つめながら……もぞもぞと身じろいで光子郎の腕の下から抜け出す。

「…………ねてる」

 這うようにして光子郎から距離をとり、ぎゅっと膝を抱えながら太一は呟いた。

 そして、自分がちゃんと衣服を着ていることにも気づき、ホッ、と安心したような吐息を洩らす。

「……………ゆめ………」

 ほっとしたように呟く太一だったが、ズキン! と不意に、昨夜散々蹂躙された場所が痛みを訴え、泣きそうな顔になる。

「……じゃない………」

 恐怖と、困惑と、悲しみ。そんな感情が入り混じった表情で、太一は光子郎を見つめた。

 ずきん、ずきん。

「…………いたい」

 呟きながら、太一はぎゅっと胸を押さえた。

「………ここが、いたい……」

太一は覚えたばかりの痛みに、ぽろっと涙を流す。

(こうしろう、おこった?)

 わけがわからなかった。

 あんなに嫌だと言ったのに、光子郎はやめてくれなかった。

(こうしろう、たいちのこと……きらいになった?)

 太一は光子郎の豹変の理由に思い当たり、ますます顔を強張らせる。

 どうしてかとか、原因なんていう難しいことは『太一』の単純な思考回路では理解できなかった。

 ただ、光子郎に嫌われたかもしれないと言う事実が、太一の心を追い詰める。

――――光子郎、俺のこと嫌いになったのか?

 『太一』の声とシンクロするように、ふと、誰かが呟いた。

「こうしろ……」

 ――――たいちのこと、きらいなのか?

 ――――俺のこと……ずっと嫌いだったのか?

 自分の心の中から聞こえるような声にも誘発されて、太一はたちまち溢れてきた涙で視界を曇らせた。いっそ、このまま大声で泣いてしまいたかったが、そんなことをすれば寝ている光子郎を起こしてしまうかもしれない。

 

『……太一さんの……嘘つき』

 

 冷たく囁かれた声。

 昨夜の光子郎の様子を思い出し、太一はびくっと肩をすくめた。

(こうしろう……きらいになっちゃやだ……!)

 拒絶。否定。嫌悪。非難。

 幼い自我はひどく敏感だ。――――特に負の感情には。

 太一は光子郎の手酷い蹂躙よりも、光子郎に嫌われることを恐れた。

(どうしたら……すきになってくれる? わからない……わからない……)

 ――――知るかよ、あんな奴! 嫌われてたって、かまうもんか…!

(――――やだ。たいちは、やだ)

 太一は心の中からまた響いた声に、そう返事をし、ずきずきと痛み出した頭を押さえてふらりと立ち上がる。

 瞳からぽろぽろと流れ落ちる涙が、赤く腫れた目尻を通って、ちくりとした感覚を伝えてきた。……果たしてその痛みのせいかどうかは分からないが……。

 ―――その瞬間、太一の脳裏に閃いたものがあった。

 彼は目をぱちぱちさせて涙を振り払うと、にこっと破顔した。

 ……とてもいいことを思いついた幼子の笑顔で。

 

◇      ◇      ◇      ◇

 

「おい! おい……光子郎、光子郎!」

「光子郎はーん! 光子郎はん! 目ぇ開けてくれなはれ! こーしろーはーん!」

 ……何だか耳元がうるさい。

 光子郎は朝露に湿った草の感触に眉を寄せながら、うっすらと目を見開いた。

「ああああっ、こーしろーはーんっ! 無事やったんかぁ〜! わてが分かりまっかっ? テントモンでっせ〜!」

「……知ってますよ。大丈夫です」

 光子郎は、ややオーバーな……だが、それだけ心配してくれていたのだろうテントモンに小さな笑顔を返し、そう答える。

 それからゆっくりと半身を起こし、辺りを見渡そうとしたところ―――ものすごい勢いで、何かがぶつかってきた。

 その衝撃にまた倒れる光子郎だが、相手はそんなことをかまっている余裕がない様子で、それこそ泣きそうな声で訴える。

「コウシロウ! タイチがいないんだよ〜! 一緒じゃなかったのっ?」

 ――――その言葉に、光子郎の全身から一気に血の気がひいた。

「太一さんが、いない……?」

 ようやく覚醒してきた頭を振り、光子郎は慌しく周囲を見渡す。

 はらはらと見守っているテントモン、必死な表情のアグモン、進化してさがしてくれていたらしいガルルモン、険しい表情のヤマト……。

 

『こうしろう!』

 

 無邪気に笑う『太一』の姿だけが、ない。

「……さっきお前を見つけて、今、空たちが太一を探してる。光子郎、心当たりはあるか? 一緒だったんだろう?」

 努めて落ち着こうとしているらしいヤマトの言葉に、光子郎は顔を強張らせる。

「心当たり……ですか」

 何故、太一が光子郎の側にいないのか。

 もしもそのことを問うているのだとしたら、答は一つだ。

(僕から遠ざかりたかったからに決まってる)

 今でも、昨夜の暴虐はありありと思い出すことが出来る。泣いて嫌がる太一を無理やり押し倒し、何度も何度も、執拗に追い詰めた。

(僕から……逃げようとしたからに決まってる)

「……光子郎! 聞いてるのか?」

「………はい」

 ヤマトの苛々とした促しに、光子郎は低い声で頷いた。

「心当たりは、ありません。………ひょっとしたら木の実を採りに行ったのも知れませんが……」

「あっ、そうかもしれない!」

 アグモンは光子郎の心にもないセリフに素直に頷き、どすどすと走っていった。

「光子郎はんっ、わて、進化しまひょか?」

 テントモンはブーンと飛びながら光子郎に問う。だが、返事をしようとした光子郎を不意にヤマトが遮った。

「いや、テントモン。お前はガルルモンと一緒にもう少しこの辺りを探してみてくれ。俺は光子郎と別の場所を探す」

「? さようでっか?」

「分かったヤマト、任せてくれ」

ヤマトの言葉に二匹は素直に頷き、ヤマトは光子郎に「最初の合流地点に戻ってみよう」と促した。

光子郎は訝しげな表情をしながらもそれに応じて、ぎゅっと拳を握り締める。

(太一さん……)

 ……後悔と、苛立ちが混濁した思いを持て余して――――。

 

 

 光子郎はどこか現実味の薄い景色の中で、ヤマトに続いて歩き出した。

 ………太一はどこに行ってしまったのだろうか。

(いっそ、戻ってこない方がいいのかもしれない)

 また傷つけてしまうよりは? 苦しめてしまうよりは?

 ………嫌われるよりは、そのほうがいいのかもしれない?

 光子郎は利己的な己の感情に眉を寄せた。

 ……………だって。実際ホッとしてしまったのだ。

 太一の無邪気な信頼が、裏切られた悲しみと非難に歪む光景を見ずにすんで。

(でも……そんなの無理だ)

 光子郎はすぐに否定して、黙って先をあるくヤマトに気づかれぬよう顔を歪めた。

(太一さんがいない世界なんて、もう想像できないんだから………)

 すっかり癖になってしまったらしい、自嘲を表情に刻み込んで。

 ――――そのまま、どれだけ歩いただろうか。

 サーバ大陸に行こうと太一が提案をした水場に辿り着いた頃、突然ヤマトが足を止めた。訝しむ光子郎を、ヤマトは少しきつい目で睨むようにする。

「お前…本当に、あの太一≠フ行き先、知らないのか」

「………ええ。心当たりは、ありません」

「―――じゃあ、あいつがどうしてお前の側からいなくなったのかについて、心当たりはあるのか?」

「………」

 ヤマトの若干冷たい言葉に、光子郎は黙り込んだ。

「あれだけお前に懐いていた太一が、何でお前の側からいなくなってるんだ? 見張りに行く時ですら、あれだけ引っ付いて離れなかったくせに。……おかしいじゃないか」

 ヤマトは微妙な嫉妬の入り混じった口調で、重ねて問いかけてくる。……光子郎はその度重なる問いにしばらく黙っていたが…ややあってから、くすっと小さな笑みを洩らした。

「! ……何が、おかしいんだよ」

「……いえ」

 無論、むっとしたヤマトに問いただされ、光子郎は笑みをあっさり消してから、答える。

「やっぱりヤマトさん、太一さんのこと好きでしょう」

 そのひどく淡々とした、事実だけを述べているといった口調に、ヤマトの顔がカッと赤くなった。

「な、なんだよ、それ! お前、いいかげんにしつこいんじゃないか、その話っ? 俺は、確かに太一のことは……」

「――――トモダチ。でしょ?」

 光子郎はあからさまなくらいに必死な口調のヤマトに、今度はにっこり笑って告げる。

「いえ。紛らわしい言い方してすみません。……太一さんとヤマトさん、普段は喧嘩ばかりしてても、やっぱり友達なんだな、と思ったんですよ。いいですよね。……ユウジョウ≠チて」

「……なんだよ、それ?」

 ヤマトは小さく溜め息をついてから、呆れたように「友情?」と呟いた。

「なんか、嘘っぽい響きだよな。…青春ドラマみたいで」

「そうですね」

 光子郎はにこやかに応じた。

 貴方にぴったりだと思うんですが、という言葉は綺麗に飲み込んで。

(! ……はぐらかされた…?)

 ヤマトはそこでようやくそのことに気づいて愕然としたが、その時はもう光子郎はすたすたと水場に向かって歩いている最中だった。

「おい、光子郎!」

「少し、顔洗わせてください。頭すっきりさせたいんで」

 光子郎はヤマトの声にそう答え、ぱしゃっと軽い音を立てて水の中に掌を差し入れる。

「……?」

 その手の側に。ふと、何かが流れてきた。

 黄色い、小さな花が……一つ、二つ……また一つ。

「?」

 光子郎は不審に思い、ふと頭上を見上げる。そこには割と高い滝が控えていて、この水場もその滝のおかげで出来ているものだったが……。

「!」

 ――――そして光子郎は、上を見上げたポーズで完全に硬直した。

「な、な、な………」

 唇がわなないて、なかなか声にならないが……。

「た、た、太一さんっ! そこで何してるんですかッッ!」

 ややあってからようやく絞り出せた声は、頼りないくらいに掠れたような声だった。

「……太一だって?」

 だがヤマトはその声をどうにか聞きつけたのか、たたっと水場に駆け寄ってきて……同じく絶句する。

 物凄く高いと言うわけでもないが、決して低いと言うわけでもないこの滝の、川の真ん中の、滝の端ギリギリの岩場。

 ――――そこに、にこにこと笑った太一がいた。

「太一っ! な、何してんだ、お前ッ! 早く岸に戻れッッ!」

 いち早く我に帰ったヤマトが声を限りに叫ぶが、滝の水音にかき消されて太一のもとまで声が届かない。

「降りて……ああ、駄目だ! とにかく、そこから離れて!」

 光子郎も怒鳴るようにして叫ぶが、やはり太一に声が届いた様子はない。

 彼はそのまま服が濡れることなどかまわずに、ばしゃばしゃと水場に足を踏み入れた。

「太一さんッッ! 太一さん!」

 両手でメガホンのような形を作って必死に怒鳴るが、相変わらず太一はにこにこしながら、パタパタと大きく両手を振るだけで聞いている様子はない。彼はそのままそこにしゃがみこんで、なにやら喋っているようだ。

「ぅ……し……ぉー」

「なんですか、太一さん! いいから、早くそこから離れてください! 危ないんですよッッ!」

「しー……! ……るー……ぉし…ぉーに……」

 太一は何とか光子郎に何かを伝えたい様子で喋っているが、到底その声は届かない。そして、とうとう。

 ……がくん、と太一の身体が不自然に傾いで。

「――――太一ッ!」

 水に足をとられたのか、身を乗り出しすぎたせいか……太一がバランスを崩した!

「――――太一さんッッ!」

 光子郎は考えるよりも先に、滝壷まで走り出す。

(急がなくちゃ……急がなくちゃ……)

 

 ……ドクン、ドクン。

 

 逸る気持ちとは裏腹に、水を含んで重くなったシューズと水の抵抗が彼の足枷となり、まるで悪夢のようなのろさで足が動く。

(太一さんが……太一さんが……!)

 バランスを崩した太一の身体が、まるで石か何かのようなスピードで落下していく。

 何故か右手の拳を硬く握り締めたまま、落下していく。

 

 ドクン、ドクン、ドクン。

 

 ――――――――ドクン、ドクン、ドクン、ドクン、ドク、ドク、ドク………。

 

 心臓の音が、うるさい。

 全身で脈動しているような音をバックに、太一の身体が。太一が。太一が。

 きょとんとしたような、そんなあどけない表情すら見える近さで。

 

 ――――まるで、死刑宣告のような激しい水音を立てて落下した。

 

 光子郎の目の前で落下した。

 

「………………ッッ!」

 

 その瞬間、何を叫んだのだろうか。少なくとも、自分の聴覚では聞き取れなかった。

 

◆      ◆      ◆      ◆

 

 ――――その後のことは、何も覚えていない。

 ただ、回りにいたものの話によると、光子郎は狂ったように太一の名を呼びながら太一の身体を抱きしめて離そうとしなかったそうだ。

 丈とヤマトが二人がかりで何とか太一から引き離すことが出来たが、それからは何を言われても反応せず、膝を抱えてずっと俯いていたらしい。

 微かに覚えているような気がするのは、テントモンが横にずっとついていてくれたらしいこと。後は誰も寄せ付けず、光子郎はただずっと、太一の姿が見える位置で黙って俯いていたそうだ。

 …………光子郎の中の意識がやっとつながったのは、太一の身体が奇跡的に外傷が殆どなく、高熱を出してはいるが薬草を使えば何とかなりそうだと皆が話している頃だった。

「……でも、これって何なのかな……? 太一さんが右手に握ってた……花?」

「滝の水と太一がきつく握りしめてたせいで、すっかりぐちゃぐちゃになってるけど」

 ――――ハッキリ聞こえた最初の会話はこれで、それからはだんだん頭が覚醒してきた。

 ゆっくりと……だが、確実に。

 

◆      ◆      ◆      ◆

◇      ◇      ◇      ◇

 

(…………ここは、どこ………?)

 ――――太一は、どこか見覚えのある闇の中にいた。

 耳も聞こえない。目も見えない。肌の感覚もない。声が出ない。

(どうして……ここにいる……?)

 分からない。何も分からない。

 だが、何か眩しいものが、闇の彼方から近づいてくるのに気づいて、太一はぼんやりと考えた。

(……見える………)

 そう考えた途端、弾けるように視界が広がった。

 広がる闇の世界を背景に、色彩いっぱいのスクリーンが現れる。

 

おにいちゃん……

 

 淡い、今にも消えそうな声が聞こえた°Cがした。

(………きこえる………)

 そう考えた瞬間、聴覚に音が流れ込んできた。

 

『おにいちゃん……ヒカリ、風邪ひいちゃったみたいなのよ』

 

 優しい声。ああ、これは母さんの声だ。

 布団にもぐりこんでいる小さな少女の小さな額を触ると、微熱が感じられた。

(これが、かんかく……。感覚…………)

 

『あたしも、キャンプ行きたかったな……』

『しょうがないでしょ、風邪ひいちゃったんだから』

『うん。……ねえ、お兄ちゃん、お土産買ってきて……』

(ヒカリ。………妹のヒカリ……。これは記憶……()の記憶……)

『ほら、太一急いで! 光子郎くんが迎えに来たわよ!』

『おはようございます、太一さん』

 

 かしゃん、かしゃん、かしゃん……。

 スライドを上映する時のような音を立てて、くるくるくると場面が変わる。

 それは何年も前の思い出だったり、つい最近の……デジモンたちの世界に来てからの出来事だったりと、時間が慌ただしく戻ったり進んだりを繰り返す。

 

『なあ、お前の名前は?』

 

 ――――そして。怪訝そうな顔をした………光子郎の顔をアップに、ひどく聞き慣れた声が響き始めた。

 

『へえ、泉……光子郎? カッコいい名前じゃん』

 

 声に対応して、喉が震えるのが分かる。

 声に対応して、喉を何かが通っていくのが分かる。

 

『俺は五年の八神だ。八神、太一』

 

(そうだ。……これが……声の出し方………!)

 

 ――――もう、既にそこは闇の世界ではなかった。

一人、また一人仲間たちの姿が浮かび上がっていき、足元には深い色の緑、頭上には目に染みるような蒼が生まれる。

 

『タイチ! ボクは、ずっとキミが来るのを待ってたんだ!』

 

 アグモンが、嬉しそうに草の上で跳ねた。周りのたくさんのデジモンたちが、にこにこ笑っている。

 それから、彼らの横で待っている仲間たち。

 ヤマト、空、タケル、ミミ、丈……そして。

 

『――――太一さん』

 

 優しい声。聞き慣れた声。少しぎこちない笑顔の光子郎の隣に。

 

『……一緒に、戻ろう?』

 

 手を差しのべる、明るい笑顔の少年がいる。

 どこか眩しいような、少年らしい晴れやかな笑顔。

 

『…うん』

 

 太一≠ヘ、ゆっくりと『太一』の掌を取って、目を閉じた。

 

 ――――ああ、そうだ。これが『俺』なんだ。

 ――――君と、俺とで、ひとりなんだ。

 

 心の中でふわりと笑う、幼い太一=B

 その笑顔に応えるように、からりと笑う元気な『太一』。

 

 ――――――『やっと、会えたな』

 ……そう言ったのは、果たしてどっちだったのか。

 

 

――――そうして、太一は今度こそ、ゆっくりと目を見開いた。

 今度こそ広がる――――本当の世界。

 心配そうな顔を向けてくる仲間たちを、意思を宿した眼差しで見渡して……見つける。

「……光子郎!」

 寝起き(しかもつい先程まで高熱にうなされていた)にも関わらず、太一はさっぱりした笑顔を、呆然としているような光子郎に向けた。

 それから、きょろきょろと首を振って「あれ?」と首を傾げる。

 太一は、全員が揃って自分を凝視している居心地の悪さに苦笑しながら……疑問を口にした。

「俺、デビモンを倒した岩場にいたんじゃなかったっけ?」

 途方にくれたように……だが、やはり太一≠轤オく、実にあっけらかんと。

 

◇      ◇      ◇      ◇

 

「ふわー、やっぱ海って広いよなあ」

 太一は単眼鏡を覗きながら感嘆の声を漏らした。

 ――――サーバ大陸を目指して出航して数日。苦労して作ったイカダは壊れてしまったが、そのイカダよりも数段乗り心地の良いホエーモンの背中に乗って、子供たちは海の旅を続けていた。

 時刻はまだ早朝。他の子供たちはまだ眠っている。……それこそ何処を見ても、海、海、海、海、の景色だが、太一は飽きずに単眼鏡を覗き続けていた。もしかしたらそろそろ陸地が見えるかも、と思っているのかもしれない。

 太一は単眼鏡を覗いたままくるくると位置を変えてて「あ?」と訝しげな声を洩らした。何やら、肌色のものが見えたのだ。

 眉を寄せて単眼鏡を目から外すと、そこには苦笑している光子郎がいた。

「何だ、起きたのか?」

「はい。何となく」

「ふーん……」

 ――――太一は幼児退行状態の時のことを、全く覚えていないと言っていた。要するに、三日分の記憶がぽっかり抜けていることになるということだ。

「なあ、光子郎……お前、まだ怒ってんのか?」

 太一は単眼鏡で辺りを見回しながら、居心地の悪そうな顔で光子郎に尋ねる。光子郎は「何がですか」と少しそっけなく答えた。

「……だからさあ」

 太一は少しむっとしたような顔で光子郎に向き直り、だが、またすぐに居心地悪そうに横を向いてしまう。

「……。俺が、ガキみたいになっちまってた時、お前にびたびたくっついてて、お前困らせたって……」

「……ああ」

 光子郎は少し表情を曇らせてから、にこりと笑った。

「別に、平気でしたよ。普段とは違う太一さんに懐かれるのも、新鮮でしたし」

「……なんだよー、それ」

 太一はその言葉に、むっとしたように唇を尖らせる。

 その子供っぽい表情に少し笑ってから、光子郎は微かに寂しそうな顔に変わった。

 

『こうしろう〜』

 

 にこにこと幸せそうに笑う、笑顔。

 どちらが、より好きというわけではない。

 ――――一番最初に惹かれたのは、眩しいくらいにまっすぐな、あの太陽のような笑顔だった。

 けれど、あのいとけない、幼子のような笑顔に心を癒されたのも、また事実で。

(癒される?)

 光子郎は淡く、自嘲に似た笑みを浮かべる。

(……変な言い方。こんなんだから、子供らしくないとか言われるんだ)

 そう心の中で呟いて、また溜め息をつく――――と。

「光子郎」

 ぐいっ!

 いつのまにか目の前まで近づいてきていた、どこか不機嫌そうな顔の太一に顔をがしっとつかまれた。

「……はい?」

 きょとん、と太一を見る光子郎に、太一は「いいかげんにしろよ」と眉を寄せて、顔から手を離す。

「誰かと話してる時に、そーやって違うコト考えるのやめろっつったろ? 相手に失礼だ」

「あ……すみません」

 反射的に頭を下げる光子郎に太一は「まあ」とそっぽを向いた。

「でも。……俺だったら、いいや」

「……え?」

 そして、ひどく当たり前の口調でそう言うから、光子郎は思わず聞き返す。
太一はそれに、目を奪われるような鮮やかな笑顔を返して。

「お前だったら、許してやるよ。俺は。……お前が、何しても。大概のことは、さ」

「………え?」

 光子郎はもう一度……すごく間抜けな返事を返して。

 太一はそんな光子郎に、少し照れたように笑った。

「なんて顔してんだよっ。……ったく、しょーがねー奴だなぁ」

 ははっ、と明るい笑い声を響かせてから、突然ごそごそとポケットの中を探り始める。

「ちょっと、お前向こう向いてろ」

「……え? あ、はい」

 もう、光子郎は何が何だか分からないまま後ろを向いて……。しばらくしてから。

「……? 太一さん。これは……」

 ぱらぱらぱら、と頭上から降ってきた幾つかの黄色い花たちに、怪訝そうな顔をする。

 一つ、二つ、また一つ。

 それは、何かを思い出すような、けれど思い出せないような、不可思議なデジャヴを誘うような…。

「キレーだろ?」

「……はあ。…まあ、そうですけど……?」

 何がいいたいんですか、と訝しむ光子郎の目の前に、さっと一輪、花を差し出して。

「……この花の形さ」

 太一はにっこり笑って、まるで、本当に何でもないことのように言い放った。

「何だか、星の形に見えねぇ?」

「――――……。………え?」

 光子郎は今度こそ、目を見張って。それから。やっと気づいた。

 

『ほしをとってきてあげる』

 

 ――――それはデジャヴではなくて。……同じ、ヒトの言葉の響き。

「約束しただろ? 星を、取ってきてやるって。…さすがに本物は無理だけどな」

 太一はそう言って、小さく微笑む。その笑顔が、あの無垢な笑顔と重なって。

「……ありがとうございます」

光子郎もそれ以上何も言わずに、微笑んだ。やっと、気づいたような気がしたから。―――そう。太一≠ニ『太一』は同じ人なのだということに。

 

――――いつか。僕もきっと届けよう。

今は与えることも出来ないけど、いつか、貴方に手渡そう。

 きっと、貴方に。

――――両手いっぱいの、あの星空を。             

END.







微妙な終わり方…。なんだろう。
結局何がどうなったのか、分かりづらいというか。
ラストが分かりにくいというか。(それだァ!)