『触れる唇に本質』





 ――――リュウの母親は嘘つきだった。

 そして、彼女は生きていくことは嘘ばかりだと、その身でもって教えてくれた。
 だから、こうしてここにいる自分も、きっと嘘だ。
 リュウはそう思って、小さく笑った。
 彼と呼ばれて、男として扱われるリュウ。
 けれど彼は彼女で、男は女で。
 リュウはけれど、素知らぬ顔で今日もレンジャーとして、基地に帰還する。
 誰も知らない、知られてはいけない、リュウの嘘と共に。


*     *     *     *      *

「冷たい唇に、嘘を乗せて」
 ごそごそとロッカーの中身をまさぐり、リュウは半ば癖になっている歌を口ずさんだ。
「嘘のままで抱きしめて、知らないうちにキスをして、私はそれを信じてしまうから、そのままあなたを愛してしまうから」
 歌の意味は特にない。
 何となく口ずさんでしまっているそれは、確か母親がいつも歌っていたものだ。
「そうして愛した私を、どうか捨てて、大切にしないで、そうすれば私はまた生きていけるからだからあなたは…」
 そこまで歌ってから、リュウは困って歌を止めた。
 かしゅと音を立てて開いたドア。そこから相棒が、つかつかと入ってきたからだ。
「続ければ?」
「…ううん」
 ボッシュのロッカーは、リュウの隣だ。彼がそれを大きく開ければ、ロッカーにべったり貼り付けた女性のポスターが覗く。
 リュウはその女性から目をそらすようにしてから、笑った。
「続き、知らないんだ」
 そして、彼は目的のものを見出すとその場を立ち上がって扉に向かう。
「何で」
 ボッシュの問いは、端的だった。
 リュウは困惑して立ち止まり、やや迷ってから「母さんが、酒場で歌ってたんだけど」と呟く。だけど、子どものときに聞いたきりだから、半端なものしか知らない、とも。
 それがボッシュを納得させる理由になったのかは不明だ。しかし「じゃあ」と呟いて先に部屋を出る、その声に「ああ」とボッシュはそっけなく応じるだけで、それ以上は何も聞いてこなかった。


 カツカツと、廊下に響く靴音。
 つめたいくちびるにうそをのせて、とリュウはもう一度囁いた。
 誰に聞かせるわけでもない、やるせない恋の歌。
 場末の歌うたいだったリュウの母は、この歌が好きでよく聞かせてくれた。
 父親が誰だかなんて、リュウは聞くこともしなかった。
 ちっぽけな酒場の歌うたいなんて、それだけで商売やっていけるわけはない。
 母親は当たり前のように身体を売っていたし、そのためにリュウが生まれたこともまた、当たり前のことだった。(ついでに、リュウの父親が誰だか分からないのも、当たり前のことだろう)
『嘘をつきなさい、リュウ』
 母親はおとなしげな外見で、けれどそのことを武器にする程度のしたたかさは持った女だった。
 生まれたリュウが女だと知った彼女は、深く嘆いて、そして娘に向かって繰り返し教えた。
『女だということは隠しなさい。できるなら一生。できないなら、せめて一人で生きられるまで。生きる術を見つけられるまで』
 この世は嘘は裏切りでできているのよ、というのが彼女の持論。
 だから、あなたも嘘をついて。
 そのまま男であると嘘をついて、生きていくのよ。
 彼女は優しくて、健気で、そしてしたたかで。
 嘘をつきなさいと教えたその口で、大勢の男たちとキスして、たくさんの男たちと睦みあって。
 夜毎繰り返されるそれを、小さなリュウはいつも部屋の片隅で聞いていた。
 獣みたいな声が奥から聞こえてくるのを、ぞっとするような思いで聞いていた。
 だからそういうときは、いつも母親が聞かせてくれた歌を、一人で歌うのだ。
 小さな小さな声で「つめたいくちびるに」と歌うのだ。
 …リュウは眉間に眉を寄せた。
 もう小さなリュウでなくなった彼女は、真っ直ぐ背筋を伸ばして、今レンジャー基地に立っている。
 だから、こんなことを思い出す必要はないのに。
「あんな歌、早く忘れられればいいのにな」
 彼女は、苦笑してそう呟く。
 だけど、苦笑するリュウは勿論知っているのだ。
 あの歌は、彼女が嘘をついている限り忘れられないのだ。
 嘘つきの母親が歌う歌を、そっくり受け継いだリュウが、嘘つきでなくなるまで。
 あの歌は、彼女の中から消えはしないのだ。
 リュウは探り当てた剣と、銃器を手にして、ゆるく首を振る。
 脳裏に踊る埒もない思考。そんなものを振り払うには、やはり鍛錬室に行くしかないだろう。
 ゼノに直接剣技をたたきこまれたリュウは、それ以外の武器の扱いにまだ慣れていなかった。
 そのせいもあって、リュウはロッカーまで武器を取りに行ったのだ。訓練を繰り返して、少しでも戦闘に慣れるため。
 そう、最初からその目的で。
 歌も、いつもの癖で歌ってしまっただけで。
 だから、こんな風にいちいち昔のことを思い出す必要なんてなかったのだけれど。
(ボッシュが余計なことをきくから悪いんだ)
 リュウは眉間に皺を寄せ、そんな八つ当たりめいたことを考える。
 そうしてから、ざわつく胸中に惑うように、彼女は服の裾を掴んだ。
 最近自分が、ボッシュに対して何を思っているのか。
 …肌が、服が触れるのにすら過剰に反応してしまうこころ、そして彼の言葉にいちいち傷ついたり、浮上したりする気持ち。
 それらから導き出される答えは一つで、だけれど、一つだからこそリュウはそれに見ないフリをするしかない。
 冷たい眼差しと、皮肉に笑う笑み。彼は一握りのD値を持つ選ばれたもので、リュウは選ばれもしないちっぽけな一人なのに。
 場違いなほどに疼く心は、いっそもぎ取ってしまえればと思うほど。
 ばかみたいだとリュウは小さく呟いて、鍛錬室のドアを開けた。



「昼間の歌だけど」
 鍛錬を終えて自室まで戻ってきたリュウを、出迎えたのはボッシュの何気ない言葉だった。
「え?」
 最近、二人は大部屋から二人部屋に移された。それは、ある程度の実力を認められた証だ。
 けれどリュウはそれを素直に喜ぶことは出来ず、前以上に警戒して、嘘を保ち続けていた。
 ボッシュと二人きりで、けれど最後の嘘は決して開くことなく、リュウは曖昧な笑顔で今日も答える。
「…それがどうかしたの? そんな大した歌じゃないよ。ボッシュが気にとめること、ない」
「何でそんなことお前が決めんの」
 言いよどむリュウに、ボッシュはやや斜に構えた眼差しで真っ直ぐ射抜いた。
 彼はひねくれた笑みや皮肉めいた言動が目立つくせに、時折こうして奇妙に澄んだ目をすることがある。
 リュウはそんな視線に特にまごつき、このときも、自分の嘘などとっくに暴かれているのではないかという奇妙な確信に怯えて立ち尽くしたくなった。 
「歌えよ」
 彼はくつりと笑って、ベッドの上に腹ばいになった。
 気安げな態度で、彼は再度請う。
「あの歌、そう悪くなかった。つっても、歌詞はどうでもいい」
 お前の声がよかったよ。
 そう言って、ボッシュが更に促す。
 リュウは戸惑って、まごついて、目を揺らして立ちすくんだ。
(ずるいよ。…そういう言い方はずるい)
 彼女は、困惑した表情を隠そうとはせず、あるいはそうして決定的に動揺した表情を隠して、曖昧に笑う。
「仕方ないな。いいよ」
「何が仕方ない、だ。ローディーが偉そうな口、叩いてるなよ」
 リュウの言葉に、ボッシュが眉を跳ねさせて言う。それに対して、ボッシュは我侭だからなあとリュウは微笑み、唇を開けた。

 冷たい唇に、嘘を乗せて。
 嘘のままで抱きしめて。知らないうちにキスをして。
 私はそれを信じてしまうから、そのままあなたを愛してしまうから。
 そうして愛した私を、どうか捨てて。
 大切にしないで、そうすれば私はまた生きていけるから。
 だからあなたは…。
 
「だからあなたは」
 リュウはそこで言葉を紡ぎ、じっと聞いているボッシュの端整な顔立ちを見下ろした。
 目を閉じて聞いているところが、本当にリュウの歌声を気に入ったという点を示しているようで、何だかひどくくすぐったい。
 彼女は嘘ではなく、そっと笑った。
「…だからあなたは、またどこかで誰かを愛して。私がそうするように、あなたのしらないあなたを抱きしめるように、あなたも」

 だって私とあなたは、たった一夜の嘘の恋人。
 だから、ねえ。冷たい思い出は、冷たいままで、そのまま眠らせて。

 歌いきったリュウは、目を閉じているボッシュの瞼にそっと指先を伸ばす。
 触れられるかなと思った辺りで、ボッシュがぱちりと目を開けた。
「…おしまい」
 碧の瞳が、じっとリュウを見つめる。
 それをどこかここちよく感じながら、リュウは微笑んだ。
「全部、覚えてるじゃん」
「思い出したよ。…ボッシュが聞いていたら、何となく」
 他愛もない会話。
 リュウは指先を引っ込めて、もう一度笑い直す。いつもの笑顔で。
 ボッシュはしかし、それが気にいらなかったのか。
 むくりと寝台に手をついて身体を起こすと、リュウの手首を引っ張って、寝台に膝をつかせた。
 彼女が戸惑って「ボッシュ」と呟いた声は、間近に迫る碧の瞳に打ち消される。
「俺、その笑い方嫌い」
 間近で見つめる瞳は、リュウの嘘を射抜いて、とらえてしまうほどに冷たく、真っ直ぐで。
 彼の指先が、ゆるりと彼女の唇をなぞる。まるで、嘘を探すように。あるいは、嘘の中の本当を探すように。
「さっきみたいに笑えよ。その方が、マシだから」
「……」
 触れられる指先に、無条件降伏してしまいそうな、情けないリュウのこころ。
 彼女は自分を叱咤するみたいに眉を寄せて、困ったように「うん」と頷いた。
「それでいい」
 そしてボッシュは、彼女の答えに満足げな笑みな見せて、またリュウのこころを千々に引き裂こうとするのだ。
(おれの母さんは)
 愛していると囁きながら、あなたが大切よと囁いてキスをして、母親は笑った。
 その唇で彼女は幾人ものと男と夜を共に過ごし、ある朝そのままいなくなった。
 だから、リュウは思うのだ。
 人生は嘘でできていて、人間も嘘でできていて、全ては嘘で完成していると。
(…だから)
 だから、リュウは思うのだ。
 こんなに、深くこころを許してはいけないのに、と。
「また歌えよ」
 だけれどボッシュは、そんな簡単な一言でまたリュウの心を掌握し、そのまま目を閉じるのだ。
 リュウの掌を捕まえたまま、その手に甘えるみたいに、無造作に。
 困惑したまま、彼女は捕まえられていない方の手で、自分の唇をなぞる。
 そして、ボッシュに触られたそこに、何か自分の嘘を見抜く本質でも、隠されていたのではないかと疑うのだ。













女の子リュウ、そのに、です。
この題目話の組み立てが、何となく一番うまくいったかなあとと思ってます。
いつか続きを書きたかったので、書けてよかったーと一安心なのですが、相変わらず進展とかいう言葉とは無縁です。