『いちごみるく』

 ……甘くて低い、彼の声。

 うっとりするような優しい声が、耳元で太一の欲望を煽る。
『太一さん』 
 さらさらと耳朶に触れる、光子郎の声。
『ん…ぅん…』
 それに返される、信じられないくらいに甘ったるい、鼻にかかったような太一の声。
 長くて細い指先が、太一に触れ、煽り―――…そして解放する。
 光子郎の手によってのみ訪れる解放感と、堪らない幸福感。
 それらを抱きしめるようにしっかりと抱え、太一はひくひくと身体を震わせた。
 熱い。
 ……そして甘い。
 いっそこのまま蕩けてしまいそうなくらい。
 ……君と共にいる時間はとても甘くて、いとおしくて。
 そっと名を呼ぶ掠れた声。
 ぼんやりと、優しく微笑む恋人の姿を視界にとらえ……太一はうっとりと、足を光子郎の身体に巻きつけ、それから……。

*     *     *     *     *

「ッッ…!!」
 声にならない叫び。
 ……無意識のソレと共に身を起こし、太一は荒い息をつく。
 ちちちと、遠くで鳥たちが朝を告げている。
(あれは雲雀の声? いいえ違うの、あの声はナイチンゲールよ…ってか?)
 昨晩、暇に飽かして延々と視聴した映画のセリフが頭を過ぎる。
 太一はやけに重い身体にぐったりして、抱えた膝に顎を乗せた。
 背中はびっしょりと寝汗で濡れている。
 そして、首筋や唇に残る、……誰かが触れていたようなリアルな既視感。
「俺ってば…やーらしい」
 わざと冗談交じりに呟くことで、太一は自分をごまかすように唇をぐいぐい拳で擦った。
 ―――昨夜は独り寝だった。
 …それは、実際『珍しい』と形容してもいいくらいの確率での出来事だ。……つまり、それほどまでに夜を共にしている恋人との爛れた関係を示しているわけで、太一は他人事のように少々うんざりする。
 ぴぴぴぴぴ。
 今更のように、枕もとで目覚まし時計が鳴り始める。
 太一はそれを億劫そうに見やり、のろのろと手を伸ばして時計を止めた。
 ――――大学生の夏休みは、長い。
 だらだらと、延々二ヶ月強も続く夏休みは、緩慢に脳みそを蕩かせていく。
「…今日って何曜だっけ」
 部活のある日と部活の無い日。
 バイトのある日と、バイトの無い日。
 そんな区別でしか一日一日を判断できなくなってから、もう何週間も過ぎている。
 おかげで、すっかり曜日の感覚もなくなってしまったようだ。
 大学三年生の太一と、二年生の光子郎。
 同じ大学に通うことになった二人が、両親の許可を得て借りたマンションの一室。
 親にも話せぬ、友人にも話せぬ恋愛関係にあった二人にとっては、実に好都合でラッキーな同居生活。
 彼らは、今までには決してなかった二人きりの時間の共有を図り、思う存分その日々を満喫している。
 …満喫しすぎて、ちょっと爛れた状況にもなっている。
(俺って欲求不満なのかなあ)
 濃厚で甘い情事の夢。
 夢は願望の具現だと言ったのは、一体誰だっただろう。
 毎日あれほどセックスに耽っているというのに、太一の意識下ではまだ足りないと訴えているのだろうか。
 太一は、タンクトップ一枚に短パンというしどけない格好でリビングに向かう。
 2LDKのさほど広くもない部屋を横切りながら(あー、後で部屋の片付けしとかねーとな)とぼんやり考えた。
 病気のときや不慮の事態に備えて、寝台はシングルのやつを二つ。
 ただし、殆どの場合、もう片方の布団は綺麗に整えられたまま過ごされることになっている。
 …恋人同士の二人暮らしなのだから、それも当然のことだが。
(そっちの方のベッドで寝れば、あんな夢見なかったかな)
 太一は小さく笑って、下着が濡れていないことを再度確認する。
(思春期のオトコノコじゃあるまいし、ねえ?)
 昨日から、研究課題に夢中になって大学に泊り込んでいる恋人を思いながら、太一はふうと吐息した。
 その吐息は、二十歳を迎えた成人男子のものにしては奇妙に色香を帯びた、甘いものだった。

 寝言で散々喘ぎ声でもあげてしまったのだろうか。
 太一は少しばかり痛い喉に首を傾げて、冷蔵庫のドアを開ける。
 中には幾つか買い置きしてある500ml入りの、イチゴミルク。
『太一さん、ソレ本当に好きですよね』
 苦笑交じり、というよりも、少しばかり呆れたような、うんざりしたような光子郎の声が耳元で蘇る。
(あいつ、甘いもん苦手だからなあ)
 ごくごくと甘ったるい飲み物を飲み干して、太一はまたふうと吐息した。
 掠れた喉や疲れた身体にこの甘い飲み物は丁度良いのだと、何度訴えても光子郎はうんざりしたような目で見るだけだ。
『お前も飲む?』
『いえ、結構です』
 苦笑して断られるたびに、その唇に自分のソレを重ねて笑ってやった。
『甘いだろ?』
『…ええ、とびきり』
 そして、くすくす笑って、また何度も唇を深く重ねあう。

 誘惑したりとか、自分から誘いをかけたりとか、……そういうことがなかなか得意になれない太一だったけれど、この飲み物を飲んだときだけは、やけに積極的に光子郎へ誘いをかけることが出来た。
 甘い飲み物を口に含んで、甘いものが苦手な光子郎にゆっくりとキス。
 照れ隠しにわざと目線をそらすと、ずるいと笑われて顔をつかまれ、更に深い口付けが降りてくるのだ。

「……あ。…ヤバイ」
 太一はひやりとしたテーブルに頬を押し付けて、小さくうめいた。
 ……まだ光子郎は、ここから自転車で十五分かかる大学にいるというのに。
 あんな夢を見たせいか。
 それとも、イチゴミルクなんて飲んでしまったせいか。
 太一は、明らかに発情を始めてしまった自分の身体に、きつく眉を寄せる。
『今日は徹夜になりそうです』
 笑いながら、そう言っていた光子郎。
 だから帰って来る頃には、ボロ雑巾みたいになってますよきっと。
 …そう言っていた、愛しい恋人。
 太一は困ったように時計を見上げながら、ぺろりと唇を舐める。
 少しだけ乾いた、けれどイチゴミルクの味の残った甘い唇。


『あ、光子郎ちょっと待って。飲み物買う』
『何を買うんですか?』
『いちごみるくー』
『………』
『あ、なんだよその顔』
『いえ。よくあんな甘ったるいものが飲めるなと思って』
『好きなんだよ、アレ。…光子郎も一口飲んでみる?』
『結構です』
『なんだよ、遠慮すんなよ』
『結構ですってば』


 …まだ小学生だったあの頃。
 冗談交じりに、悪戯めいた気持ちで重ねた唇。
 甘いだろと問えば、真っ赤な顔で甘いですと答えた幼い光子郎。
 きっと自分の顔も負けないくらい真っ赤だったはず。
 いちごみたいに真っ赤で、…でもまるでミルクみたいに子供だったあの頃。

 今では情事のたびに、あの飲み物を飲まずにはいられない。
 掠れた喉と、火照った心を落ち着かせるために、甘ったるい飲み物を飲まずにはいられない。
 可愛くて、いやらしいいちごみるく。
 血と精液の色ですねなんて、いつだったか光子郎がからかうように笑っていた。

 ――甘い甘いイチゴミルク。
 もう、何十分かしたら光子郎から電話がかかってくるはず。
 そして、それからもう何十分かしたら、光子郎がここに帰ってくるはず。
 …それまで、この味は唇に残っているだろうか? 
 愛しい彼の人を誘惑するための甘い味は、この唇に残っていてくれるだろうか?

 太一はまた一口イチゴミルクを唇に含んだ。
「俺ってば、やーらしい」
 またそう呟いて、紅潮した頬を隠すように腕で顔を覆う。
 …君と過ごすいやらしくて、幸せな時間。
 ソレを彩る、甘いイチゴミルク。
 また今度、まとめて買いに行かなくては。

 るるるるる、と電話が鳴った。
 太一はそれを少し潤んだ目で見やり、はあ、とイチゴの香りを吐き出す。

 早く帰ってきてと囁いたら、彼はどんな顔をするだろうか。
 
 そんなことを考えながら、太一はまたこくりと喉を鳴らした。

END.



裏なのに白背景。……や。妖しいイチゴ背景が見当たらなくて…。(それが理由ですか)
いちごみるくって、何か少しやらしい響きがあるなあと感じるのは私だけでしょうか。
血液と精液の、白と赤のイメージ。しかも甘い飲み物だなんて、何やら妖しげな妄想をかきたてられます。
先日某チャットの中で、とあるお方に小説リクを伺ったところ「いちごみるくで」というお答えが返ってきたことから、萌え萌え妄想スイッチが入りました★

……と、いうわけでこの小説はこっそりと瑞木由良様にお捧げします……。裏でスミマセン……。(こそこそ)

『不治の病』の執筆が完了していない場合は、この小説が記念すべき歓楽街の最初の短編になります。
あまりえろえろシーンはないですが、…なんていうかあからさまな単語をあちこちに堂々と書いてみたりなトコが裏です。(…)
講義の合間に黙々と作りました。(最悪)……いいのか学生。

モドル