『十歩先の、影法師』
「……光子郎」
―――冷たい床。赤い夕陽。
照らされる光の熱さとは裏腹に、空気はひどく澄んでいて。
「…どうしたんだよ」
息を切らしてやってきた後輩に、小さく苦笑する彼に。
後輩は、眦をつりあげようか、下げようか、どちらともつかない半端な表情で立ち尽くす。
「……な。どしたの? なんか、泣きそうだよおまえ」
小さく、そして困ったように口の端を歪める彼。
光子郎は言葉もなく拳を握り締め、かぶりを振った。
「……貴方が呼んだんです」
「……」
食い込んだ爪が、痛い。
「………貴方が僕を呼んだんですよ…太一さん…」
このまま手の皮を破って、血が噴き出せば。
彼は、いつものように後輩を案じてくれるだろうか。
そんなこともわからないまま、ただ光子郎は立ち尽くしていた。
ぺたりと座り込んで、曖昧に笑う太一を前に。
……ただ、立ち尽くしていた。
* * * * *
空がヤマトのことを好きらしいというのは、もはや、新旧選ばれし子どもたちの間でも知る者が殆どいないほどの、公然の事実となっていた。
そう。知らずは噂の渦中のヤマトばかりなり。
相変わらず弟以外のことに関しては鈍感らしい彼は、何一つ知らないまま。
周囲がめまぐるしく変わるのにも気づかず、向けられる好意にも気づかないままでいた。
―――どうか変化せずにこのままでいて、と願ったのは誰だったのだろう。
恋心に怯える、臆病で可憐な思春期を抱えた空自身だろうか。
それとも、変わりゆく二人を見守っていた太一だっただろうか。
あるいは、変化を好まず、誰も傷つかず、このままであればいいと周囲こそが望んでいたのかもしれない。
……そう思うのは、光子郎の勝手な想像なのかもしれないが。
「太一さんはどうなんだろう」
久しぶりにアメリカから帰国したミミが、ふとそんな言葉を光子郎に漏らした。
「私だったら嫌だなぁ。仲のよかった友達が、二人だけでどこかに行っちゃうみたいじゃない? そんなの」
純真の名を冠した彼女は、その名の通り、思うがままの言葉を口にした。
「寂しいよ」
もしかしたら、そう思っていたのは彼女自身だったのかもしれないが。
彼女は特に空に懐いていた。
元々大人びていた空が、余計にミミから遠ざかってしまうような。そんな感覚をおぼえていたのかもしれない。
正直なところ。…薄情な話だが、光子郎は何も感じていなかった。
(空さんは面倒見がいいし。ヤマトさんは少し突っ走りすぎるところがあるし。…ちょうどいいんじゃないかと思うけど。……そう単純にはいかないものなのかな)
人の心は数式のように簡単にはいかない。
勿論そんなこと、とうに知ってはいたのだけど。
―――そういえば、と光子郎はミミの話を聞きながら、ぼんやりと考える。
(この頃太一さん…ずっと一人で帰ってる)
前は空かヤマトのどちらか、もしくは両方と。…笑い合いながら帰っていた太一。
…夕暮れ迫る帰り道。
ぽんぽんとサッカーボールを蹴り上げながら、一人で帰る太一の姿を光子郎はよく見かけていた。
いっそ声をかけて、一緒に帰りませんかと言ってみようかとも思ったのだけれども。
クラスでも、部活でも友人が多いはずの太一。
けれども、何故か今、あの二人以外の誰も寄せ付けず、一人で帰る太一。
それを見ている内に「ああ、この人は一人で帰りたいんだ」と光子郎は思うようになった。
それから「あの二人と一緒に帰るか、一人で帰るか。今のこの人の中には、その二つしかないんだ」とも思うようになった。
(寂しいんですか? 太一さん)
そんなわかりやすい言葉では、片付かないような気がした。
―――夕暮れに一人。
何の痛痒もないような顔をして帰る太一。
(貴方はどうしたいんですか? 太一さん)
―――夕暮れに一人。
その後を追うようにして、何メートルか離れたところを歩く光子郎。
問う言葉もなく、返す言葉もなく。
二人は、まるで暗黙の了解を守るように黙りこくって。
いつしか。それぞれのマンションへ帰るまでの道を、離れたまま、共有して帰るようになった。
「光子郎さんと太一先輩って、一緒に帰ってるんスか?」
パソコンルームで、何気なく聞かれた言葉。
光子郎が「いいえ」とだけ答えると、問うた大輔は「…でもいっつも二人、おんなじタイミングで帰ってますよねぇ?」とただ首を傾げた。
それに小さく苦笑して「でも一緒に帰ってるわけじゃないんですよ」と答える光子郎に、大輔はただ不思議そうな顔をするだけだった。
彼を単純だと笑うべきか。
それとも、自分たちが馬鹿馬鹿しいほど深刻になっているだけなのか。
何となく後者の気がして、光子郎はまた小さく笑った。
(僕は一体どうしたいんだろう? 太一さんのことを、助けたいんだろうか?)
答は、出なかった。
だからまた。
今日も太一の後ろ、十数メートル離れて。
てくてくと、長く伸びる太一の影法師を踏むようにして、歩く。
終わらない追いかけっこを繰り返すように、てくてくと、歩く。
(僕が呼びかけたら終わるのだろうか。この滑稽な儀式は。…それとも太一さんはそれすら無視するんだろうか。それほどに、あの二人は大きな存在だったんだろうか)
実のところ、太一はただ光子郎をからかっているだけではないだろうかと思うときも。
…何度か、あったりもした。
それはたとえば、不意に足を止めて赤く染まった空を見上げるときであったり。
…もしくは、道端に咲いた雑草の花を見つけて、佇むときであったり。
今にも振り向いて「なあ光子郎」と呼びかけそうなタイミングが、幾度も。
――けれど、太一はいずれのときも光子郎の名前を呼ばず。
…また、何事もなかったように歩き出すのだ。
時にボールを軽く蹴飛ばしながら。…時に、鞄を持ち替えながら。
(これはこれで、心地よいかもしれない)
そんなことを思い始めたのは、この沈黙の帰り道が、いつしか日常化してきたある日のこと。
太一の後に続いて歩く。
どこまでも、どこまでも、黙ってついていく。
彼が見とめた花を見て、彼が見上げた夕空を見上げて。
…てくてくと、ついていく。
それは歯がゆいようでいて、けれど、不思議と心地よい時間のような気がしてきたのだ。
(……それって僕が被虐趣味だってことなんだろうか。これってある種の放置プレイかもしれない。…多分)
ああ、テントモン。僕はマゾだったんでしょうか。
そんな下らないことを考えつつ、さあ今日も太一さんの後に続いて帰りましょうと姿を探していた。そんな夕暮れ。
……教室を探しても、廊下を探しても、グラウンドを探しても、太一がいないのだ。
これは一体どういうことだろう。太一はどこに行ってしまったのだろう。
そう思って探し回ってみたけれど、どこにも姿が見当たらない。
仕方ない。これはきっと先に帰ってしまったということなんだろう。
光子郎は諦めよくそんな結論を出し、てくてくと、誰の影法師も踏まずに夕暮れ道を帰った。
次の日も、太一は見当たらなかった。
その次の日も、そうだった。
……そして、その辺りになって、光子郎の元にようやく噂が流れ込んできた。
「武之内空が、石田ヤマトに告白したって」
――それはまた、寝耳に水というか。
いつの間にか事態は急転していたのですね、というか。
「あの二人、今付き合ってるんだって」
すっかり驚いてしまった光子郎だったが、まあ来るべき時が来たということなんだろうなあなんて。
他人事ならではの落ち着きを発揮して、さて、これからあの二人にどう接したらいいんだろうと、少しだけ悩んだ。
それから、太一のことを考えた。
昨日も、一昨日も見当たらなかった、太一の細くて長い影法師のことを考えた。
今にも消えてしまいそうな、夕暮れの影法師のことを考えた。
教室を探しても、廊下を探しても、グラウンドを探してもいない太一。
でもこれはきっと。
…先に帰ったっていうことじゃ、ないんだ。
光子郎は、鞄を抱えて学校中を歩き回った。
脈絡もなくあちこちの教室を覗いて、今まで入ったこともなかったような最上級生の階にも迷い込んで。
…上から下まで、てくてくと、毎日見ていた影法師を捜し歩いた。
そうしてやっと。
…校舎裏、一人きり壁にもたれて座り込んでる太一を見つけたのだ。
* * * * *
「呼んだ。…そ、だっけ? 俺、光子郎のこと呼んだっけ」
太一は曖昧に笑って、ひらひらと手を振る。
サヨナラの意味でもない、コンニチワの意味でもない、意味のないひらひら。
光子郎はそれをぼんやり眺めて、掌に食い込んだ爪の痛さを思い出した。
「呼びましたよ。…だから僕は貴方を探したんだ」
確信を持って、光子郎はそう言った。
本当は、何一つ確信なんてなかったのだけれど。
…夕暮れの光が、じりじりと二人を焼く。
けれど、足元に感じるコンクリートの感触はひどく冷たくて。
「帰らないんですか、太一さん」
「んんー…。なんかなあ。…ちょっと、気だるいっていうか」
「何言ってるんですか。まだ若いくせに」
「一年の差は意外と大きいんだよ、光子郎君」
光子郎は立ったまま、太一のうずくまる影法師をしっかりと踏みしめて。
太一は座ったまま、冷たいコンクリートに挟まれて。
「そんなに大きいんですか、一年の差は」
じわじわと沈んでいく夕陽。
それにどうしようもない寂しさと、焦燥感をおぼえながら、光子郎は続けて訊ねる。
僕は貴方に比べて、そんなにもちっぽけなんですかと。
……あの二人と比べて、そんなにもちっぽけなんですかと。
「……意外と、な」
太一は顔を歪めた。
「そんなにってほどじゃない。…でも、ちょっと心の整理が必要なくらいっていうか。……なくなって初めてわかる、その大きさっていうか」
「なくならなきゃ、わからなかったんですか」
「…どうだろうなあ。そうだったのかも」
冷たい夕陽の光。
光は光子郎と太一を暖めることなく、じわじわと赤い残光のみを目の奥に焼き付けて、ただ沈んでいく。
「なくならなきゃわからないものって、本当に大切ですか」
光子郎がそれを口に出すには、もっと重大な覚悟がいるはずだった。
「……」
けれど、実際には思った瞬間に口から出ていた。
…太一は、ただきょとんとしていた。
久しぶりに、不思議そうな顔で、まっすぐ光子郎を見ていた。
「それよりも、近づいて、一緒にいたいとか。…貴方を助けたいとか。そう思っている人の方が、大切じゃないですか」
焦燥の理由は、よくわからない。
ただ一つだけはっきりしていたのは、夕陽が沈んでしまったら、光子郎はもう太一の影法師を踏んで歩けないということだった。
それが寂しいことだと考えていたのか、それとも儀式めいた何かが理由だったのか。その辺りがあやふやで、よくわからなかった。
立ったまま、手を伸ばしてみた。
まるで太一に手を差し伸べているみたいな体勢だと思ってから、そうだ、僕はこの人の手をとりたかったんだと光子郎は思う。
「違いますか」
語尾が少しだけ震えた。
彼らは決して太一を捨てたわけではない。
太一も捨てられたわけではない。
ただ、太一はとても寂しいと思っていて。そして、光子郎もそれをとても寂しいと思っているだけなのだ。
「……どうだろうな」
やがて太一は、顔をクシャリと歪めて。……辛うじて、笑ってくれた。
それから膝をついて、光子郎の手を取って、立ち上がった。
「…どっちも大切って、やっぱり贅沢か?」
夕陽に顔の半分を照らされて、まっすぐ光子郎を見て笑う顔。
「……贅沢ですね」
その顔が凄く好きだなと思って、光子郎は笑った。
でもいつかは絶対僕が一番だっていわせてみせますから。…とは言わなかったけど。
そのまま、太一が光子郎に手を引かれるまま、そのままでいてくれたので、その日はそれ以上何も言わなかったけど。
「夕陽、沈んじゃいますね」
「沈んじゃうなあ」
何処も彼処も赤くて。
けれど、何処も彼処も冷たくて。
光子郎と太一は、お互いがお互いを引っ張るみたいにして、ゆっくりと歩いた。
さあ、いち、に、さん。
まるで、小さなリハビリをするみたいに。
「僕は」
光子郎がふと、思い出したように呟く。
「…僕は貴方の隣で大丈夫ですか」
不安そうな口調で。けれど、もう退く気はないと言うみたいな、強い表情で。
そのちぐはぐさに、太一はまたクシャリと笑った。
「光子郎が、いいよ」
その答に光子郎が目を丸くして、それから顔をしかめて。
その答え方はずるいですなんて言うものだから。
なんか恋の歌みてぇと太一が大きく笑った。
貴方は愛しいずるい人ーってかあ、なんて、げらげら笑った。
「悪くないですね」
だから、光子郎はすまし顔でこう言ってやったのだ。
「一緒に恋の歌でも、作りましょうか?」
それもとびきり純情で、とびきり優しいやつを。
太一は面食らったように目を見張ってから。
いち、に、さん。
またゆっくりと三歩刻んで。
「そういうのも、悪くないかもな」
ぎゅと掌をきつく握って、小さく笑った。
40000HIT御礼小説…というか。
ごめんなさい。もしかしなくても、単に私が書きたかっただけの話かもしれません。(帰れ)
私の中の太→空ヤマ・光→太イメージって、わりとこんな感じです。
まだ私の中でも曖昧な部分が多くて、こんな半端な三人称になりましたが、こういうのもありかなあと。(なしですか)
無理やりホモテイストってカンジで微妙かなあと思ったんですが、光子郎はとても太一さんが好きなのでありかなと。(なしですか)
それにしても私は本当に夕陽ネタが好きですね。
……光太だけで、もう三本も書いてるよ夕陽ネタ…。好きにしたって、そろそろ打ち止めだろうに。
相変わらずこんな曖昧な文章書きなんですが、よろしければこれからも、こうちらりちらりと覗いていただければ幸いです。
そしてその文章が貴方の心の琴線に触れ、少しでも感想をいだいていただけるのなら、こんなに嬉しいことはありません。
40000HIT、本当にありがとうございます。