『彼の世界』




 手を伸ばしたところに、世界はあった。

 ただ、そこにあるだけの世界が。

 彼が何を願おうと、何ももたらしてはくれない。


 ただ、それだけの世界が。


*     *     *     *      *

 空が青く、空気が涼しい。
 彼は特に何をするでもなくそれを受け止め、目を眇めた。
 人の流れは、そんな彼を気にした様子もなく。
 たゆむことなく、ただただ過ぎていく。
 巨大な石像。二振りの剣を構える異世界の神像の台座の下。
 常に手にしている杖をぼんやりと握り、彼はまた、人の流れを見やった。
 子どもが駆けて行っては、行き過ぎる見知らぬ大人たちに片端から質問していく。
 曰く、勇者は何をしても許されるのか、戦争とは勝ったものが正しいのか、などの。
 …無邪気を許される子供だからこそ、可能な質問ばかりを。
 
「…下らないな」

 彼は小さく口の中で呟くと、もたれていた台座から背中を離した。
 走り回る子どもの口から零れた「勇者」。それが、ディンガルの皇帝として君臨するネメアだということくらい、誰でも察することが出来るだろう。
(…それが、僕を不機嫌にしたのか) 
 彼は訝しむ気持ちすら不可思議に思いながら、それでもその名前を心の中で浮かべること自体に。既に、苛立ちを隠せなくなってきてしまう。

 彼の姉をさらった男。
 
 言葉にすればほんの一言に過ぎない、かの人物。

 彼に言わせれば、単なる俗物に過ぎないのだ。
 たとえ、かの人物が勇者と呼ばれ、多くの人々に慕われようとも。
 有数の傑物たちを従え、君臨していようとも。

 ……己が運命にさえ立ち向かわんと。

 堂々と、明言していようとも。

「……本当に、下らないな…」

 彼はもう一度小さく呟いて、嘆息した。


『何故、ネメアのことを悪く言うんだ?』


 …正義の勇者気取りなのか、それとも単なるおせっかいか。
彼が人々に教えを説くときに立ち合わせ、そして、それが権力者や兵士たちに妨害されるとき。その剣をもって、彼らに立ち向かう娘。

 ふと脳裏に、先日この場所で会話をした、その娘の姿が思い起こされた。



 不用意なくらい真っ直ぐな眼差しで彼を見つめ、なぜ、とたやすく口にするその姿。
 彼にとっては、何故も何もあったものではない。
 至極当然な、ネメアを嫌う。…憎む理由。
 けれど、その理由を説明することは何故かはばかられた。
 …単に、面倒だったのかもしれない。
 結局そのときは、何一つ返事を返さずにその場を立ち去った。


『なぜ』


 …思えば、あの娘の眼差しはいつもそれを問うているような気がする。
 真っ直ぐにこちらを見つめ、真摯に言葉を選び、なぜ、と言葉を紡ぐ娘。

(…その眼差しには)

 彼は軽く目を細めて、痛いほどに青い空を見上げた。

(……この世界は、どんな風に映っている?)

 道を辿り、迷い、それでも娘はひたすらに歩いていく。
 これは、前に進むためについた足だとでも証明するかのように、ただただ真っ直ぐと。
 その姿は理由のない苛立ちを引き起こし、また、名前もつかない奇妙な感情をもたらす。


「……」


 たゆまなく流れ、進んでいく人並みの中。
 ふと、誰かが足を止めた。
 彼を、見つけた。


「……エルファス…?」


 躊躇いがちに呼ぶ声に、軽く顔を上げた。


 ―――君には、何が見える。


 彼は、皮肉気に口の端をつりあげた。


 絶望しか見えない。何もしない。
 だから何かをするしかない。自分が動くしかない。
 そんな、ただあるばかりの世界。

 そこに佇んで。…同じ場所に立って。
 彼は思う。
 彼の前にゆっくりとやってきた娘を眺めて、その言葉を待つ。

 …彼のすぐ傍まで近づいてきた娘は、小さく笑った。

「…不思議だ」

 そう、呟いて。

「…何がだ? ここはディンガルの首都だ。人の行き来も激しい。お互い、偶然があってもおかしくはない場所だろう」
「うん。…そうかもしれない」

 娘は小さく笑ったまま、首を傾げる。

「それでも私は、嬉しいと思ったんだ。…何故だろう。エルファスと、今すごく話したいと思っていた」
「……」
 付き合いきれない、と溜め息をつく彼に、娘はまた屈託なく笑った。
 …出会ったばかりの頃は、世界は明日終わると思い込まされてしまったような。
 ……そんな顔をしていたくせに。

「さて。…僕はもう行くよ。君みたいに、暇じゃないんでね」
「そうか。…じゃあ、また今度」
「……」

 のんきな別れの言葉に、彼はまた困惑する。
 そして、困惑などという感情が絶滅せずにいたことに気づき、軽く首を振った。

「…エタニティ」

 そうして、そのまま。
 彼は、彼らを置いて流れ続ける人の最中で佇みながら、訊ねた。

「世界とは。…君にとって世界は、どんな風に見えている?」

 娘は戸惑ったように。…唐突な質問に目を見張ってから。


「そこに、あるもの。…かもしれない。…いつもそこにあって、けれど何もしてくれないもの」


 何を思い出したのだろうか。
 娘は、目の色を少しだけくすませてうつむいた。

(僕と同じ…?)

 彼は娘を暫く凝視してから、そのまま彼女の横をすり抜け、雑踏へと向かう。

 娘がその背中に向かって「ああ、そうだ」と呟いた。


「世界はきっと『わたし』だ。エルファス」

「…? なんだって?」


 娘は足を止めた彼に微笑んで、カツ、と迷いのない足取りで一歩を踏み出した。
 
「わたしがなけれぱ、わたしの世界はないだろう? だからきっと、わたしが世界なんだ。…そして、エルファスにとっても、エルファスが世界なんだ」

「……」

 彼は眉を寄せ、言葉が見つからないまま「…そうか」と立ち去った。
 背中の方で、娘が黙って彼を見つめているのがわかる。


 いつも手を伸ばしたところに、世界はあって。

 それは、ただ、そこにあるだけの世界で。

 彼が何を願おうと、何ももたらしてはくれないもので。


(それが、僕自身だというのか?)


 それは随分な皮肉だ。
 彼は僅かに苦笑すると、ふと足を止めた。
 …振り返った場所には、もう、娘の姿は見えない。
 人ごみに紛れて、何処かに消えてしまった。


(彼女にとっての、世界)


 それを知りたいと願うことはもしや、あまり面白くない想像につながるのではないのか。

 エルファスはそんなことで僅かに憮然としてから、また痛いほどの空を見上げた。


 手の届く場所。何もしない場所。
 ただ、そこにあるだけのもの。


(いや。僕は、そうじゃない)


 彼はまた一歩を踏み出して、空から目をそらした。


 それでも、世界はそこにあった。








2003/07/30 表日記にて
ジルオール第二弾 エルファス×女主 ムラ様に進呈