『かさぶた剥がせば』



 ―――傷口に、薄く張った膜。

 傷を覆って、皮膚が重なって。なおりかけの、傷口。
 がりがりと爪を立てて、かきむしりたくなる。

 たとえ、血が吹き出ても、この薄い皮膚の膜を引き裂いてしまいたくて。
 そんな、歯がゆい傷口。

 ……そんな、歯がゆいかさぶた。


*     *     *     *      *

(どこか、影の薄いレンジャー)

 リンにとってのリュウの第一印象は、その一言だった。

 どこかしら地味で、大人しげな印象。
 リンのことを「トリニティ」と努めて冷ややかに呼び、その行動を見定めるように距離を置く、少し生意気な少年。
 どこか、何かを諦めているような印象。
 それでいて、何かを信じたくてしょうがないような。
 何かに、餓えているような。
 …そんな風に、印象は次々と形を変えて。

「…リュウ。ここで少し、休んでいこう」
「……あ、…ああ、そうだな…」

 たとえ仲間の屍を越えてきたのだとしても。
 ……隣に並んで、共に歩きたいと思うような。
 そんな、無二の存在となった。

「ニーナも、少し休んだらいいよ」

 リュウの傍にぴったりと張り付いて離れない少女に声をかければ、彼女も疲れていたのだろう、こくりと小さく頷いて座り込む。
 そして、優しくリュウに頭を撫でられて、気持ちよさそうに目を閉じた。
 そのまますぐに、すうすうと寝息を立て始めるニーナに「…疲れてたんだね。ニーナも」とリュウは小さく呟く。

「……ずっと歩き詰めだったからね」 
「…そうだね」

 その寝顔を見守るようにして、リュウが小さく微笑んだ。
 …その笑顔に、最近は、あの何かに餓えていたようなそんな焦りの表情を見なくなったな、とリンは思う。
 代わりに、…また少し、何かを諦めてしまったような、そんな表情が増えたな、とリンは思う。

「……彼が」

 リュウは、躊躇いがちに小さく口を開いた。
 その目を伏せた顔つきに、リンはそっと身構える。

「…どうしたの」

 リュウと向かい合うように、壁に軽くもたれて。
 リンは注意深く、彼の表情を見つめた。

「……」

 リュウは躊躇いがちに口を開き、閉じして、明言を避けるように目を伏せた。
 そして、自嘲気味に小さく笑う。

「相棒が死んでしまったのに」

 伏せ目がちに、低く、呟いて。

「…殺してしまったのに」

 表情を見失ってしまったような、そんな顔つきで。

「……おれは、どうして平気で歩けているんだろう?」

 問うように。乞うように。
 リュウは、何度も首を振って、呟く。

「平気…じゃないだろ?」

 リンはそんなリュウに眉をしかめ、とん、と壁から背を離した。
 それでも、正面の壁にもたれたリュウにはそれ以上近づかない。
 彼女と、彼の間の一定の距離。

(それが、ルール)

 近づきすぎてはいけないのだと、彼女は自分に言い聞かせる。

「…ともだちを……失って。……平気でいられるやつなんて、いないよ」

 本当は手を伸ばして、彼の細い肩ごと抱きしめてやりたかった。
 感情を見失ってしまったように立ち尽くす、彼の掌を握ってやりたかった。
 でも、それはしてはいけないのだと立ち止まる。踏みとどまる。
 ……リュウのために、ではない。
 自分の、ためにだ。

「……」

 リュウは、そっと顔を上げて、リンを見つめた。

「……リンも」

 表情を失った顔つきで、見上げてくるその様子は。
 リュウの大きな瞳とも相まって、どこか子供じみて痛々しい。

(まだ16の子どもなんだ)

 その眼差しに、胸が痛くなるのを覚えながら、リンは歯がゆい距離の元、彼の言葉を待つ。

「リンは、……平気で、いられなかった……?」

 躊躇いがちに開かれた唇。
 その唇から零れたセリフに、リンはぴく、と肩を震わせる。
 
 ―――辛かった、とか。哀しかった、とか、と言うよりも。

 その言葉が、リュウの唇から零れたということが、何よりも彼女に痛みを与える。
 ずきずきとハンパに痛むような。
 思い切り、かきむしってしまいたくなるような。
 そんな、歯がゆい痛みを。

「……そう、だね。平気じゃ、なかった」

 リンは軽くかぶりを振って、一歩だけ、距離をつめた。
 見上げたリュウの眼差しが、リンの見下ろす眼差しと、かち合う。

「……今のリュウと、同じようにね」
「……」

 続けられたリンの言葉に、リュウは小さく笑う。
 苦笑するように、自嘲するように、そっと唇を歪める。

「……リンは、優しい」

 そして、緩く瞬きをして、目を閉じた。

「…優しい、な」

 まるで、何かを乞うように、そう呟きながら。

「……」

 リンは、続ける言葉を持たず、ただ立ち尽くした。
 近づくことも出来ず、退くこともできない。
 彼と彼女の、中途半端な距離。
 治りかけの、中途半端な傷口。

(思い切りかきむしってやりたくなるような)

 ハンパな、かさぶた。

「…ねえ、リン。聞き流してくれていいこと、なんだけれど」

 リュウは目を閉じたまま、膝に顔を埋めた。
 もたれかかるニーナの髪が、さら、とその腕をくすぐる。

「…もしも、おれが死んでしまったら」

 少しだけくぐもった声は、顔を膝に埋めているから。
 少しだけくぐもった声は、そう、けして泣いているからだとか、辛いからだとか。
 そういう理由では、ない。
 …リンは聞き返すことすら出来ず、ただ立ち尽くしているだけだ。

「―――リンは、泣いてくれる?」

「……」
 
 もっと、からかうようにその言葉が紡がれたのだったら。
 …いくらでも、怒ってやれたのだろうけど。

「……ニーナには、笑っていてほしい。…泣いて、ほしくないんだけど」

 勝手だね、と怒ってやれたのだろうけれど。
 …今だって、勝手だよ、と怒ってやれるのだろうけれど。

「…リンには、泣いてもらいたいんだ」

 かってだよという言葉は、喉奥にへばりついて出てこない。
 リンはただ、ぼんやりと立ち尽くしてその言葉を聞いているだけ。
 淡々と、ゆっくりと……くぐもった声で紡がれる、その言葉を聞いているだけ。

「……聞き流していいよ」

 そこまで言うと、リュウは唐突にむくりと顔を上げた。
 そうして、困ったように微笑む。

「…忘れて、いい」

 ごめん、と囁くように呟いて。

「……」

 リンは喉奥にへばりついた声を叱咤するように。
 …ごくりと唾を飲んで。

「……。……ああ」

 やっとの思いで、そんな間の抜けた声を絞り出すのだ。
 微笑むリュウに近づけもせず、触れもせず。

「……わかったよ」

 そんな、曖昧な答しか返せないのだ。

 ……リュウが優しく笑う。

「…もう少ししたら、また歩き出そう」

 幼子の目から、急に男の目に戻って、笑う。

「休ませてくれてありがとう、リン。…ニーナのことも、起こさなくちゃ、な」
「……ああ。そうだね」

 そしてまた、リンばかりが取り残されて、また背中を壁に押し付け、距離を保つのだ。
 何一つ約束も、気持ちも交わすことなく、また距離を保つのだ。
 歯がゆくて……、かきむしりたい距離を。


*     *     *     *      *

 ―――傷口に、薄く張った膜。

 傷を覆って、皮膚が重なって。なおりかけの、傷口。
 がりがりと爪を立てて、かきむしりたくなる。

 たとえ、血が吹き出ても、この薄い皮膚の膜を引き裂いてしまいたくて。
 そんな、歯がゆい傷口。

 ……そんな、歯がゆいかさぶた。

 ―――ひきむしったらどうなるだろうか。

 血が吹き出すのだろうか。

 それとも、既に新しい皮膚が出来上がっていて。
 何事もなかったように、そのままなのだろうか。

 かきむしりたくて。ひきむしりたくて。


 ―――けれど、臆病なわたしは。

(今日もまた、かさぶたのまま)

END.










末尾は気に入っています。