――――『傘を忘れた雨の日に』――――

 

「あーあ、今日も雨かよ」

 サァアア……。

 太一は苛立たしげにぼやきながら、人気のない朝の通学路を歩いていた。

 時刻は七時四十五分。朝練に行く運動部の生徒からすれば遅すぎる、けれど一般の朝練のない生徒には早すぎる時間帯である。

……太一の所属するサッカー部は、この雨のせいで朝練が中止となってしまった。

だが、いつもの習慣通りに早起きしてしまった太一は……。

とりあえず、学校に行くことにしたのである。

  ――――雨はものすごく激しいというわけでもないけれど、すぐには止みそうにもなかった。いずれにしても、朝からこれだけ降り続ければ、グラウンドの状況は最悪だろう。

……少なくとも、今日は屋外で練習をするのは不可能のようだ。

太一は嘆息交じりに傘の内側を見た。ポツポツポツ、と、傘の表面に水滴が落ちる音が聞こえる。

――――太一は昔から雨があまり好きではなかった。理由はきわめて単純である。

(雨が降ってちゃ、外で遊べないじゃん)

 ザアザアというような激しい雨のとき……たとえば突然の通り雨のときなんかは、構わず外で遊んでいたりしたのだが、こんな静かな、けれど止みそうにない雨のときは逆にどうしようもない。

 それと同じ理由から、太一は梅雨もあまり好きではなかった。

 ……この梅雨さえ通り抜ければ、また太一の好きな夏がやってくるのだが。

(まだ、夏は遠いか…)

 そんなことをつらつら考えていた時。

 ――――ニャア。

 どこからか、猫の声が聞こえてきた。……ような気がした。

 太一は思わず足を止めて、軽く辺りを見回してみる。

 ――――ニャア、ニャァ……。

 どこかか細い、悲鳴じみた声。

 雨の音にかき消されそうな猫の声が、また聞こえた。

 太一はしばらくきょろきょろと辺りを見回してから……「あ」と声をあげて、ようやく見つけた声の主に駆け寄る。

 …サアサアと、細い雨が降る中。

 道の片隅にうち捨てられたダンボール箱の中で、小さな猫が鳴いていた。

(……。泣いてる)

 太一はぶるぶると震えて、またか細い声をあげる猫に眉を寄せる。

 ……それからの彼の行動と決断は、すばやかった。

―――まずは自分の傘を惜しげもなくダンボール箱の上にさしたまま立てかけ、雨を防ぐ。結果的にそれでまず太一の肩が濡れたが、太一はそんなことを気にもせず……ごそごそと大きな、部活用のドラムバックをあさり始めた。

「……あった!」

 やがて彼は小さく歓声をあげると、まだ使っていない柔らかなタオルを取り出して、それで子猫を優しく包み込んでやる。

 子猫のふるふると震える体はすぐに温かなタオルに包まれ、太一はひとまず安堵の吐息をつく。

「ちび、平気か?」

 小さく呼びかけると、それに答えるように「ニャア」と細い声が漏れた。

「……まだ、寒いか?」

 太一は心配そうに再度呼びかけて、腕時計を確認する。

 ……学校が始まるまでは、まだ時間があった。

「……。悪いな、ちび。俺んちで、飼ってやれればいいんだけど……」

 太一の言葉はそこで不意に途切れた。

 ばしゃっ、と顔に大粒の水滴がかかったのだ。

「……電線かよ」

 太一が軽くうめいて上を見ると、予想に違わず、今の水滴は電線にたまった雨滴が落ちてきたものらしかった。

 ニャア、と、子猫が再度鳴く。それは太一を心配しているような声音で、太一は思わず苦笑した。

「平気だよ、ちび」

 太一はそう優しくささやくと、タオルに包まれたちび猫を抱えて、傘をさしたまましゃがみこむ。

「学校に行くまでだからな?」

 タオルから伝わってくる太一の暖かな温度に目を細める子猫を見て、彼はゆっくりと話しかけた。

「あと、もうちょっとだけ、こうしててやるよ」

 優しい太一の言葉に答えるように、子猫が「ニャア」とまた鳴く。

 その鳴き声は、もう泣き声には聞こえなかったので、太一は少しほっとして。

「もうちょっとだけな」

 濡れる肩口を拭きもせず、子猫を暖める作業に、しばし従事したのだった。

 

 

「……今日も雨、ですか」

 光子郎は我知らずほころんでくる顔をおさえて、学校への道を急いだ。

 ――――最近、彼は雨が好きになった。

 彼の愛しい、ただ一人の人は雨があまり好きではないと知っていたけれど。

「あ、紫陽花」

 晴れた陽の下で見るのと違い、また風情のある花を見かけて光子郎は微笑む。

 柔らかな晴れた陽ざしもいいけれど、こういうのもまた落ち着いた風情があっていいと、光子郎は思う。

(それに)

 光子郎は小さく苦笑じみた笑みを浮かべながら、胸中で付け加えた。

(雨の日は、太一さんと一緒に帰れるから)

 部活が早くきりあがるか、あるいは最初から中止になってしまうかで、いつもは部活のせいで一緒に帰れない太一を独り占めできる。

(…なんて、のんびりしてる場合じゃないか)

 光子郎ははた、と我に返って、再び急ぎ足になった。

 いつもは早めに教室についている光子郎なのだが、昨夜ついつい夜更かしをしてしまったせいで寝坊してしまった。

(そんな時に限って、お母さんまで寝坊してたからな……今日は)

 不運、というものは幾つかまとまって来るものなのかもしれない。

 あるいは、ここのところ太一が部活が出来ないことに苦痛を感じていることを知っているくせに、それをひそかに喜んでいたということへ神様だか誰だかが罰を下したのかも。

(まあ、これくらいですむんなら別にいいんですが)

 光子郎はかなり不遜な独り言を胸中に落とすと、また足を速めた。予鈴が聞こえてきたのだ。

 ――――だが、その時。

 彼は、ふと立ち止まってしまった。

「………あれって」

 ぽつりと呟いてから――ちらりと腕時計を見やる。

「………」

 光子郎はしばらく考えてから、ふう、と溜め息をついた。

「……これも罰ですかね」

 彼はやがて溜め息交じりにそう呟くと、すたすたと学校とは別方向に歩き出す。

(遅刻ですめばいいけど)

 そう、心の中で呟いて。

 

 

 ――――キーンコーンカーンコーン……。

 ……どこか間延びしたチャイムが、学校の終業を告げる。

「おい、八神、聞いたか?」

「…なんだよ」

 どうやら五時間目の授業は睡眠学習をしていたらしい太一は、眠そうな声で話しかけてきたクラスメイトに応じた。

「今日、部活中止だってさ」

「あ? 何で。中で筋トレもしないのか?」

「そー。なーんか、もう場所がないんだってさ。他の部に場所とられちゃって」

「……ふーん」

「ま、梅雨が終わるまで我慢だな。ほんじゃなー」

「おー」

 太一はぱたぱたとやる気のない仕種で手を振って、ふう、と嘆息する。

「……帰るか」

 そう言いながらも、頭の中は自宅のことよりも別のことでいっぱいだった。そう、たとえば。

(……。あのちび……どうしたかな)

 ―――今朝の子猫のこと。

 ほんの少し肩口の辺りから寒さが広がってきて、太一はくしゃん、と小さなくしゃみをする。それから、校門の方をなんとなく眺めた。

 ―――雨は依然として降り続けていて、今朝よりも幾分か激しくなっていた。

 太一は鞄以外は手ぶらの状態で、しばし玄関の前で立ち尽くし「どーするかな」と独りごちる。

「あら、太一。傘忘れてきたの?」

「……。まー、そんなとこかな」

「朝から雨降ってたっていうのに、器用ね」

 そこでちょうど会った空にからかわれ、太一は憮然と「うるせー」と答えた。

「そういえば、光子郎くんとは今日、一緒に帰らないの?」

 太一はその言葉に、軽く肩をすくめる。

 それから、気になっていることがもう一つ。

(今日は一度も光子郎に会ってない)

 ……無論、そんな日があってもおかしくはないのだ。

 だけど、メールが一通も入らないというのは珍しくて。

「さっきメール入れたんだけど、返事がなくてさ」

 返信が返ってこないというのも、もっと珍しい。

「どうりで、太一の元気がないわけね」

「……なんだよ、それ?」

空は小さく笑って「風邪、ひかないように帰りなさいよ」と告げて、部活に向かった。

「……元気、だあ?」

 太一はそれに少し憮然としてから、腕時計をチラッと見て、校門の方をまた見る。

(……あのちび、まだあそこにいるんだろうな。きっと)

 鞄の中には、昼に余分に買ったパンが入っていた。……勿論、あの猫のために買ったのだが。

「……」

 太一はしばらく考えてから、ぴっぴっとDターミナルでメールを打ち始める。

『用事あるから、先帰ってていいぞ。太一』

 そんな、用件だけの簡潔なメールを打ち込んで。

「よしっ」

 太一は雨の中を一気に駆け出していった。

 

――――だが。

「………え?」

 太一はどこか呆然と呟いて、軽く目を見張る。

 今朝方、確かに同じ場所のダンボール箱の中で鳴いていた子猫は、太一がたてかけた青い傘とタオルごと、いなくなっていた。

「……ちび?」

 誰かに拾われたのだろうか。

 太一は少し掠れた声で囁いて、ふっと、目線を落とす。

 制服はぐっしょりと水を含んでいて、髪の毛の先からもぽたぽたと雫が落ちてくる。

「……。……なんか、ばかみてえ。俺」

 太一は小さく笑って独り言をいうと「あーあ」と大きく伸びをした。

 ばしゃっ、とちょうど今朝のように雨粒が顔にかかって、太一はまた溜め息をつく。

 こんな気分を、一体なんと表現するのだったか。

 ……寂しい。

 そう、それだ。

「……光子郎からのメールは返ってこないし、ちびはいないし」

 ばしゃ、ばしゃ。

 太一はまるで子供のように水溜りをけとばしながら、嫌なことを羅列するように呟く。

「部活は中止だし、雨降ってるし、肩つめてーし」

 ばしゃ、ばしゃ。

「………」

 ばしゃ。

 太一は何だか泣きそうになって、少し俯いた。

「……さびしーし」

 雨なんて、嫌いだ。

 太一がそうぽつん、と呟いてしゃがみこみそうになった。ちょうどその時。

 ばしゃばしゃばしゃばしゃっ!

 そんな勢いのいい水音と、足音が聞こえてきて。

「なにやってるんですかっ、太一さん!!」

 何だか凄く怒ったような声と、柔らかな、大きなタオルに包まれた。

「……?」

「ああっ、もう、こんなに濡れちゃって! 風邪ひいたらどうするんですか!?」

 しっかりとその腕の中に包まれる、暖かな感触。

 いつのまにか冷たい雨からは傘で守られていて、冷えた身体はしっかりと抱きしめられていた。

「……。……だ」

「身体も、こんなに冷えちゃってる……。本当にもう、貴方って人は……」

「……光子郎だ」

「―――」

 ―――太一はようやくそう呟いて、ぎゅうっと、その身体にしがみつく。

 ……とても、暖かい。優しい感触。

「………ええ。僕ですよ、太一さん」

 だから、光子郎も優しくそう答えて、片腕でしっかりと太一の身体を抱きしめながら、濡れてしまっている頭と肩口をすっぽりタオルで覆った。傘は顎と肩の間でしっかりと押さえている。太一はその状況に苦笑して傘を持ってやろうとしたが、光子郎に優しく遮られた。

「……きっと、ここにいると思ったんです」

 彼はそう囁きながら、太一の顔をまだ幾筋か伝う雨粒を舌先で拭う。太一はそのくすぐったさにちょっと笑って、ぎゅうと光子郎の首に手を回した。

「冷たい」

 光子郎はそう囁きながら、太一の冷えた唇を暖めるように自分の唇を重ねる。

「ん…っ」

 口内まで冷えていた太一をくまなく温めるように、光子郎の熱い舌は太一の口内を這いまわった。

「ん……ふっ」

 太一も珍しく拒もうとはせずに、光子郎の熱を受け止めるように自ら舌を絡める。

 ……サァア―――…。

 先ほどとはうってかわって優しく聞こえる雨の音。

 傘で遮られた雨が、太一と光子郎の周囲に水の壁を作っている。

「……綺麗だな。…雨って。……割と」

「…そうですね」

 名残惜しげに唇を離した光子郎の腕に身体を預けて、太一はぽつん、と今更のように呟く。

 光子郎はそんな太一に優しい微笑を向けて、その額に軽いキスをした。

 そして、ぼんやりと……ダンボール箱の中を見つめている太一に、小さく咳払いをして。

「……子猫、探しに来たんでしょう?」

そう切り出す。

 太一は勿論不思議そうな表情になって、

「? ―――何で知ってるんだ?」

 と、光子郎に尋ねた。

 ようやく太一の注意が自分に移ったことが嬉しくて、光子郎は「今朝、僕もここを通ったんです」と説明する。

「遅刻しそうになってしまって。……そうしたら、ここの道で見慣れた傘とタオルと……子猫を見つけたんですよ」

「えっ!? じゃあ、あのちびは……!?」

 子猫のことだけを少しおまけのように言う光子郎に気づかずに、太一は必死な顔で光子郎に詰め寄った。

「飼ってくれると言う人が、つい先ほど見つかりました。……おかげで、今日一日忙しかったんですけど」

「……そっかあ…」

 太一は心底からほっとしたように息を吐いて、ふと光子郎に尋ねる。

「なあ。じゃあ、お前、今日学校は……?」

「ああ。さぼっちゃいましたね」

「………。いいのか?」

 複雑な表情で光子郎を見る太一に、彼はまた微笑んだ。

「いいんですよ。ノート借りるあてもありますから」

「……そっか」

 太一はそこでようやく、にっこりと笑う。

「――にしても、お前がそんなに猫好きとは知らなかったぜ」

「………。まあ。猫好きというか…」

 太一の嬉しそうな言葉に、光子郎はちょっと苦笑した。

(太一さんの傘を、あの猫から返してもらいたかっただけなんですけどね)

 太一の持っていたものを、誰かが……たとえ猫であろうとも持っていると思うと、とても腹立たしく感じたので。

――――だが、それはどうやら黙っておいた方がよさそうだ。

 光子郎は苦笑の裏側でそう考えて「じゃあ、帰りましょうか? 太一さんが風邪をひかないうちに」と、愛しい恋人を促した。

「あ、そうだな」

 太一は素直にそう頷いて歩きかけてから……ふと、足を止める。それから光子郎が脇にはさんでいる傘を指差した。

「そーいや、光子郎。さっきから持ってんの。それ、俺の傘だよな」

「……? ええ。そうですよ」

 光子郎はタオルを頭からかぶった太一の姿がまた可愛い、などと腐ったことを考えていたせいか、一瞬反応が遅れるが、すぐにそう返答する。

「じゃあ、俺、そっちさすよ。わざわざお前の傘に入らなくてもいいだろ」

 それに、さっきからお前の肩、濡れてないか?

 太一はそう続けて、頭にかぶっていたタオルを外して、光子郎の太一がいる方とは逆の方の肩を拭おうとした。

「ああ。別に平気ですから、いいですよ。太一さんがタオル持っててください」

 だが光子郎はそれをやんわりと遮り、太一の傘も渡さないままで歩き始める。

「おい、光子郎ってば!」

 太一はそれについていきながら、少し怒ったように光子郎を見た。しかし、光子郎はそれをあっさりと退けてしまう。

 悠然と告げた、この一言で。

「だって、せっかくの相合傘がもったいないでしょう?」

「…………」

 ぱくぱくぱく。

 ……さながら鯉か何かのように口を動かしてから。

 太一はみるみるうちに真っ赤になって「ばかか。おまえ」と呟いた。

 光子郎はその言葉ににっこり笑って。

「馬鹿ですよ。……でも、僕は幸せだから、馬鹿でもいいんです」

「………」

 太一は真っ赤な顔でしばらくそっぽをむいてから……。

「お前が馬鹿だってこと、知ってるのは俺だけだな」

 強がるような口調で、そう言って、鮮やかに、にっと笑った。

「ええ。……太一さんだけです」

 光子郎も笑って、肯定する。

「……ならいーや」

 太一はそう言うと、そのまま周囲を軽く見回す。

 ……雫で出来た雨の膜に覆われた世界は、何だか静かで。

 ……少し冷たくて、少し優しい。

 濡れた紫陽花が綺麗だ。

ぴちょんぴちょん、と木陰に入ると雨の音が変わるのが、今更に楽しく感じる。

 ――――なんだ。雨の日も、悪くないじゃん。

 太一はそう心の中で独りごちて、光子郎のことをちらっと、見た。

(光子郎が、いる時はな)

 ……そんなこと、口に出しては言えはしないけど。

サアアァァ……。

 こんな、優しい雨の音が響く日は、ひょっとしたら、雨の音がそんな囁きは呑み込んでしまうかもしれない。

 言ってみようか。

 普段は、とても言えないこと。

 ……晴れた空の下では、恥ずかしくて言えないセリフを。

 ――――……。

 太一はじっと、光子郎を見てから、ふっと笑った。

「? なんですか、太一さん?」

「ん。何でもない」

 今日じゃなくても、いいか。

 そう思って、太一は光子郎の手の中に自分の掌を滑り込ませた。

「……明日も、一緒に帰ろう」

「……。はい」

 

明日、明後日、またその次も。

 ――――二人で一つの傘をさして、仲良く帰ろう。

 ホントは秘密の恋人だけど、雨の日だけはこんな風に帰っていこう。

(そしたら、きっともっと雨が好きになるから)

(そしたら、きっともっと)

 

君の事を、スキになるから。

 

――――END.








☆サイトオープンのお祝いにいただいた新哉さんの光太へ、お礼のブツですvv
し、しかし、全然礼をしきれてない気が! こう、ひしひしと!
いちゃっててラブい話を目指したつもりですが…。どうなんだろう。
ポイントは、とうとう動物にまでやきもちを焼くようになったウチの光子郎氏。
アンタそろそろ駄目路線直進だね。(おい)
あ、あとは…太一さんが乙女すぎて……泣けてきます(笑えない)。



モドル