『君という孤独』
昔々。
ひとがひとりで、ひとりがふたりを知らなかった頃は、きっと誰も知らなかった。
誰かを愛する幸福だとか、二人でいる幸せだとか。
誰かがいない、必要とされない怖さだとか、も。
* * * * *
俺はきっと、ひとりだったんだ。
太一は唐突にそう気づいて、舌打ちした。
帰り道には、誰もいない。
どこまで歩いても誰もいない。
だから、最初はゆっくり歩いていたのだけど、不意に虚しくなった。
歩いて、歩いて、歩いて。そうして自分はどこに行くのだろうと思ったから。
行き先なんてないのだ。だってひとりだから。
どこにも誰も待っていないから。
太一はぞっとして、やがて走り出した。
追いかけてくるものもいない。誰もいないから。
待っているものもいない。誰もいないから。
誰もいないのに、どうして俺はここにいるんだ。
そう思うと、太一は自分が自分でなくなるような気がした。
いつもの帰り道だったはずのそこは、いつのまにかよくわからない、真っ白な場所になっていた。
どこまでも伸びる道、どこにでも伸びる道。誰もいない道で、自分しかいない道だ。
誰もいないのに、どうして俺はここに。
太一は息を切らして、立ちすくんだ。
動けない。動けないのだ。
その事実が、いっそう彼を追い詰めて。
(どうしておれはひとりなんだ?)
問う言葉に、誰かが囁いた。
それは小学生くらいの子どもの姿で、彼の前に立って。
「光子郎が」
彼はゴーグルを額につけて、きらきら光るこげ茶の瞳でもって、太一を笑うのだ。
「光子郎のことが、一番になっちゃったからだろ?」
ばかな俺、と言って、彼は笑うのだ。
夢はそこで終わった。
「………」
太一はむくりと起き上がって、ゆるゆる首を振った。
背中が寝汗でじっとり濡れて、気持ち悪い。
やな夢見たなとぼんやり考えながら、それでも太一は叫びだすこともなく、青ざめることもなく、いつも通りに寝台から降りた。
ひどい夢を見たときこそ、反応は冷静だ。
彼は寝台から降りて、嘆息ひとつ。
「チクショウ。いい天気だなあ、おい」
カーテンを開けて、更に悪態をひとつついて、部屋を出た。
光子郎が彼のことを好きだと告白してから、もう三年が過ぎようとしている。
気づけば太一はもうすぐ高校を卒業しようとしているし、光子郎だって高校二年生だ。
ついでに言えば、二人ともそれなりに性行為というやつに年頃らしく興味旺盛で、結構前に一線も越えてしまった。
セックスなんて、一度してしまえば後はなしくずしだという。
なんだこんなものか、と思ってしまうらしい。
一度繋がってしまえば、後は簡単だからだろうか。けれど、太一にとってそれは決して「なんだこんなものか」ではなかった。
何といっても、太一は受身の立場だったのだから。
タチとネコで言えば、ネコというやつだ。(その用語すら、太一は光子郎から教えてもらったのだが)
男である太一が、同じ男である光子郎を受け入れるのは、大変な苦痛を伴った。肉体的にも、勿論精神的にも。
だけれども、太一自身がそう決めたのだ。
受身でも、何でも。
光子郎の思うところを、彼のことを受け入れようと。
彼が思うように、自分も彼のことを思おうと。
それは、彼が自分のことを好きだという程度には、きっと自分は彼のことが好きなのだと思ったからだ。
そこには、いわゆる恋愛小説に描かれているような重大な確信があったわけではなかった。
それでも、それが太一の選択だったのだ。
なあ光子郎、俺もお前のことが好きだよと言うまでに、神様からそう言えと託宣が降りたわけではなかったし。
光子郎に対して、今までにないほどの甘く切ない胸の痛みが沸き起こったのかというと、それも違う。
(それでも。…俺もあいつのことを、好きだと思ったんだよな。確かに)
太一はぼりぼりと背中をかきながら洗面所に向かい、鏡の中の寝ぼけた顔に笑いかけた。
好きですと言われて、マジで言ってんのお前ていうかちょっと考えさせてくれよと困惑したのも、確かに事実だったのだけどと思いながら。
「おはようございます、太一さん」
マンションを降りたところで、光子郎に会った。
太一は学ラン、光子郎はブレザー。制服の違う二人は、勿論違う高校に通っている。
けれど、朝はこうして二人で登校している。光子郎は電車に、太一は朝練に行くため、丁度時間が合うのだ。
「よ、光子郎」
カンカンと非常階段をおりてきてから、太一は光子郎に笑いかけた。
「待たせたか?」
「いえ、丁度今きたところでしたから」
「そっか。それならよかった」
太一はへへ、と笑って、光子郎の隣に並ぶ。
光子郎の瞳は、そんな太一の仕草をひどく優しい色で見つめていた。
結局のところ、自分の選択は正しかった。
太一は今日もそう思っている。
手をつなぎませんかと小声で言う光子郎に、ちょっと笑って「おう」と言いながら、正しかった、と思う。
けれど、一方で、やっぱり間違っていたのじゃないかと思うときもあるのだ。
手をつないで、こうして分岐点まで歩いて。
そのまま「いってきます」「じゃあな」と別れる頃合に、それは最初に訪れる。
つないでいた掌をほどいて、じゃあ、と手を振るとき、訪れるのだ。
それは、何か、必要なものがもぎ取られるような感覚。
何考えてるんだ俺、と思いながらも、どうしてもそう思ってしまうことは否めない。
どうして、光子郎ともう少し一緒にいることができないのかと考えてしまうのだ。
どうして自分と光子郎は違う高校に通っているのだろうと、思ってしまうのだ。
とっくの昔に、自分で、そう決めたのに。
光子郎も納得して、必要なことだと割り切ったことなのに。
笑顔の向こうでそんなことを考える太一に、光子郎が困ったような顔で、小さく咳払いした。
太一の考えていることを察したというわけではない。
ああ、これはそういう話だな、と光子郎の表情に、太一の鼓動がひとつ、大きく跳ねた。
「太一さん、明日の夜は…」
「ん?」
分からないようなフリをして聞き返せば、光子郎がからかうみたいに口の端をあげた。
何だよ、その強気な笑みは。
「…なまいき」
呟く太一の唇に、光子郎のそれが優しく重ねられた。
人目があると眉を寄せる太一に、誰も見てませんよと光子郎は言う。現に、早朝の道路に人気はない。
電柱に背中を押し付けられるようにして、強く口付けられる。光子郎の舌が入り込んでくる。
「…明日の夜は、あいてますよね」
確認するように囁く声に、太一は黙って頷くしかない。
「……。…朝からこういうキスすんな、バカヤロ」
「はい。すみません、深く反省します」
顔を赤らめて俯く太一に、光子郎はぬけぬけと笑う。ああ、昔はこんな子じゃなかったのにと遠くを見れば、同じ目線の茶色の眼が、太一を見て笑った。
パソコンを教えてもらう名目で光子郎の部屋にこもるのは、秘め事の合図。
さして防音も利いてない部屋だけれど、勉学と部活で忙しく金もない高校生に、毎回ホテルに行くような余裕があるわけでもなく。
太一と光子郎は、そうしてベッドに沈んで、いかがわしい行為にふける。
口付けて、噛みついて、くすくす笑って、二人して絡み合う。
ずるりと音を立てて抜き挿されるのは、光子郎で。それを受け入れて、苦しげに喘ぐのは太一。
そう、そうやって睦みあっているときにも、あの感覚は訪れて。
つめたい孤独の物音。
カタンと落ちる音。テーブルから何か落ちた。けれど誰も拾う人はなく。
白い道。白い街。誰もいない街。
一人でそこを走る太一を追いかけるものはなく、待っているものもなく。
「………」
「…。…どうしました、太一さん」
思わず、きつくしがみついたのは光子郎の背中。
爪は綺麗に切りそろえてある。体育の時間に、からかわれるんですと光子郎が太一に向かって笑ったから、太一は深爪になるくらいに爪を切るようになった。だから、傷はつかない。
「……なんでもない」
太一は呟いて、微笑んだ。
選択は嘘ではなく、間違ってもいない。
けれど、ここにいることを後悔することは、何度もあるのだ。
睦みあう彼の中に、手を離す彼の中に飛来するそれが、きっとそうだ。
「……嘘だ」
光子郎はしかし、太一の言葉を否定する。そして、太一をじっと見つめて、薄闇の中、太一を責める。
「何を隠してるんです。太一さん」
彼は、誰よりも隠し事に敏感だ。
もしかしたら、ここのところずっと太一が感じていた違和感に、太一よりも早く気づいていたかもしれないほど。
「――…」
太一は困ったように瞬きしてから、挑むように、光子郎を見た。
しがみついた爪に、ぎゅっと力を込める。
傷はつかない。それでも、多少は痛いのだろう。光子郎が眉を寄せた。
「俺さ。…なんか、愛してるとか言われても、わかんないんだ」
その姿勢のまま、太一はゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。
光子郎は口を挟まないで、とても間近で太一の目を見つめ、黙って聞いている。
「わかんないっていうか。…光子郎のことが好きで、マジで好きで、一緒にいる時間が増えれば増えるほど、怖くなってくるんだよ。俺」
自分の中の不安を形にするのは難しい。
太一はたどたどしい言葉で、自分の中の戸惑いのいくつかをなぞった。
「だって、好きになればなるほど、遠くなるんだ。…今まではどうでもよかったことが、一つ一つ気になって」
好きになればなるほど、思えば思うほど。
ああ間違いじゃなかったんだと思うほど、光子郎が遠くなる。
いや、最初から遠かったのだ。
自分と彼の距離は変わっていなくて、だからこそ、近づけない絶対の距離があって。
彼は自分でなくて、自分は彼じゃない。
そのことが、どうしてか、こんなに恐ろしい。
……太一はそれを言葉にしようとして、やめた。
これでは、異常者だ。
ごめんなんでもないと言って、この話題はおしまいにしよう。
せっかくの二人だけの時間だ。もっと楽しく過ごそう。
けれど、光子郎はそれを見越したように、太一のことを真っ直ぐに見て。
透明な視線で射抜いてから、彼は静かに言った。
「僕は、ずっとそう思ってましたよ」
淡々と紡がれた、その言葉。
太一はその言葉に、口をつぐむ。
「好きになればなるほど、遠いんです。普段はその距離なんてどうでもいいんだ。相手のことがどうでもいいから、距離のことも気にしないんだ」
光子郎は、そう一息に話して。
太一が黙っていることに一瞬躊躇ったように瞳を揺らしてから、けれど変わらず静かで、決然とした口調で続ける。
「だけれど、好きになればなるほど。そうするからこそ、遠さを感じて。その距離を埋めたくてあがくけど、絶対にどうしようもない距離があって」
それは、懺悔にも似ていた。
ああ、どうして俺は途中でやめてしまったんだろうと太一は、その言葉を聞きながら深く後悔する。
俺もちゃんと言えばよかった。
光子郎が、こうして言ってくれているのに。
そんな場違いな後悔を前にして、光子郎は言った。
「僕はあなたじゃないから」
だから寂しいんです、と。
そんな、決定的なひとこと。
「……。…俺もそうなのかな」
「さあ。…僕はあなたじゃないから」
光子郎はそこで、小さく笑った。
「生きてる限り、僕らは永遠に一人ですよ」
だけれど。それに気づくことができて、それをあなたと共有できるのなら、それも悪くないような気がするんですよ。
彼の言葉は、ひとつの悟りのようだった。
一人と一人は、二人ではないのだというように。
けれど、一人と一人だからこそ、こうしていることができるのだと。
言葉にしないことばが、太一の耳に、確かに届いた。
「……やっべえ」
薄闇の中、もぞもぞと動いて、太一が眉を寄せる。
「どうしました」
光子郎がそう問えば、太一は困ったように笑って「キスしていい」と囁いた。
そうして彼は、彼の孤独を共有する恋人に抱きしめられて、抱きしめて。
許しを得て行うキスで、越えられない距離を噛み締めて、ほほえんだ。
ふたりは、ひとりとひとりで。
ふたりという物体には、どうしてもなれないんです。
あなたがいるから、私は孤独に気づいてしまった。