『気持ちいい植物』


「――土産」

 ボッシュはそう一言だけ言って、たたん、とテーブルに不可思議な緑色のものを置いた。
「……? なに、これ…?」
 リュウは不思議そうに首を傾げ、その緑色のものをしげしげと眺める。
 公社ラボに用事があるということで出かけたのだから、きっとこれも何かの研究の結果……なのだろうけど。
 少しゴツゴツした茶色い棒から、飛び出ている少し細い棒。そして、そこからわさわさと生えてきている……緑色の、薄くて丸いもの。
 小さな丸いカップ状のものに入った、ぱっと見、子どもの玩具めいて見えなくもない……それ。
 つん、とつつくと、滑らかなくせに弾力を感じて、リュウはまた首を傾げた。
「ショクブツ、だってさ」
 ボッシュは、ばさ、どさ、と上着を椅子に投げ捨て、書類の入ったファイルを床に放り投げる。
 相変わらず乱暴な相棒の仕草に、リュウは慌ててそれらを拾いに走った。
 上着はちゃんとハンガーへ。(皺にならないように)
 ファイルはちゃんと棚の上に。(明日忘れないように)
「ショクブツ…って、なに?」
 ハンガーをクローゼットに吊るしてから、リュウはボッシュに向けてもう一度首を傾げた。
「無知」
 そんな相棒に向けてかけられた言葉は、この一言。
 リュウは「……」と思わず言葉の暴力にショックを受けて、佇んでしまった。……慣れてはいても、こういう不意打ちにはいつも参ってしまう。
 そんな彼の横で、人口の風を受け、さやさやと『ショクブツ』が揺れた。
 ボッシュはリュウがショックを受けていることなど気にした様子もなく「コーヒー」と一言命じ、椅子に腰掛ける。
 リュウは仕方なく「うん」と頷くと、キッチンにはたはたとコーヒーを淹れに走った。
 甘党のボッシュのコーヒーは、いつもたっぷり砂糖とたっぷりミルク。
 色はすっかりクリーミーで、もはや既にコーヒーとしての姿を留めていない出来具合だ。
 おまけにワガママな猫舌なものだから、いつも少しさましたコーヒーを用意しなくてはいけない。
(よくこんなの飲むよなあ)と呆れながらも、今日も慣れた仕草で角砂糖を三つ。
「はい」
「…ん」
 ことん、とボッシュの前にカップを置けば、ボッシュは無言で「おまえも座れ」というオーラを送ってくる。
 リュウは(ちょっと待っててよ)というオーラで返して、今度は自分の分を淹れるためにキッチンへ戻るのだ。
 甘党で猫舌なボッシュとは違って、リュウの好みはいたってスタンダート。
 ミルクも砂糖もなしにコーヒーを用意して、熱さもほかほかと湯気がたつ程度。
 それとお茶請け(むしろコーヒー請け)用のお菓子を持って慌ててテーブルに戻り、席に着く。 
 ボッシュは目を細めてコーヒーを啜り、手元に端末を引っ張り出して、何かを片手で呼び出しているようだ。
 リュウはそんなボッシュをやや上目遣いに眺めながら、一口コーヒーを含んだ。
「……ねえ、ショクブツって」
「待ってろ」
 返ってくる言葉は、そんなすげない言葉のみ。
 リュウは、うん、と小さく頷いて、またコーヒーを一口啜った。少し熱いけど、やはりこのくらいが一番ちょうどいい。
 かた、とボッシュの指先がキーを一つ叩く。
 リュウがそれをぼんやり横目で眺めていると「ニサンカタンソ」と唐突に、ボッシュが口を開いた。
「……に」
 一瞬カタカナで聞こえたその言葉を、リュウは何とか漢字変換させて発音する。
「…二酸化炭素……?」
 何故今そんな単語が飛び出してきたのか、とリュウは眉を寄せた。
「そ。…人間がただ空気吸えばいいってもんじゃないってこと、いくらおまえでも分かってると思うけど」
「……うん…?」
 相変わらずボッシュって嫌味な言い方するなあと思いながら、リュウはとりあえず素直に頷く。
 空気の問題は、特に下層区で暮らす――ローディーと呼ばれる者たちにとって、非常に重要だ。
 淀んだ空気。使い古された空気を吸って生きなければならない人々の肺は、先天的に病んでいる場合が多く、ラボでも空気清浄の研究は大分前から始められていた筈である。
 ……そこまで考えて、リュウはようやく「あ」と気づいて、ボッシュが持ち帰ってきた『ショクブツ』とやらを見た。
「もしかして、あの『ショクブツ』って、空気清浄の役割をもっているものなの?」
 リュウの答に、ボッシュは「ん」と顔を端末から上げて、にやと笑う。
「正解」
 それから、端末の画面をリュウに分かるように向きを変えて、テーブルの上を滑らせると。
「わ、わっ」
 慌ててリュウがコーヒーを零さないようにそれを受け取るのを眺め、悠然と足を組み直す。
 ……画面に映し出されていたのは、かつて『地上』で息づいていたという――緑色の『草』、『木』や、色とりどりの『花』たち。
 リュウはその美しさに見とれて、思わず吐息を漏らした。それをボッシュはにやにやと、満足げに見やる。
 しかしリュウは、ふとあることに気づいて相棒を不安げに見つめ返した。
「ボッシュ……こんな画像、どこから持ち出してきたの…? これって、物凄く、貴重なんじゃ…」
「あ? …ああ。まあ、その『ショクブツ』の資料ってことで、ラボのヤツからもらってきたんだけど」
「……ふうん…?」
 これ、どこかから無断拝借してきたんじゃないだろうか、とリュウはそれでも相棒をどこか不安げに眺めていたが……とりあえずはその言葉で納得したらしく「ありがと」と端末をボッシュに手渡す。
「この、草とか木とか花とか。…まあ、総称して『植物』って言われてるモンなんだけど。…こいつらがさ、地上のあちこちに生えて、空気清浄の役目をしてくれたんだとさ」
 ボッシュは律儀に手渡してくる相棒に目を細め、……軽く『ショクブツ』を指で示しながら、ようやく説明を始めた。
「人間は二酸化炭素を吐いて、酸素を吸収する。それがいわゆる呼吸だな。…だが、こいつらは酸素を吐いて、二酸化炭素を吸収してくれるらしい。…ま、俺たち人間からしてみれば、嫌なもんを全部吸い取ってくれる有難いアイテムってわけ」
「それを、ラボが再現に成功したってこと…?」
 リュウは目を見張って、ボッシュの説明に聞き入る。
 ……もし、それが本当なら、実に画期的なことである。
 この『ショクブツ』とやらが、どれほど酸素を吐き出してくれるのかは知らないが、それによって人々の暮らしや……この地下の暮らしに、大きな変化が訪れることは間違いない。
「とりあえず。まだそれほど大きな効果はないらしいけど、さ」
 ボッシュはコーヒーをごくり、と飲み干し、テーブルにカップを戻すと。
 ニヤリ。相棒に向けて笑いかける。
「…結構、いい土産だろ?」と。
 その言い方に、リュウは思わず小さく微笑んでしまった。
 ……まるで、この言い方では、今日帰りにちょっと掘り出し物を見つけてきたとか、ちょっとした面白いものを買ってきたとか。…そんなノリではないか、と。
「…どうしてボッシュはそれを貰ってこられたの?」
 凄いって言えよ、感心しろよ、と言いたげな相棒にただ微笑んで、リュウは小さな『ショクブツ』をまた指先でつついた。
「ああ。…何か、まだサンプルだから。ちょっと二週間くらい自宅に置いて、様子見ろって」
 リュウの微笑にボッシュは肩をすくめ「まあこんなに小せえんじゃ、変化も何もあったもんじゃないけどな」とコーヒーカップを無駄にテーブルの上でかたかた揺らす。
「二酸化炭素に、酸素、か。……でも、さ。……空気清浄っていうよりも、何か……」
 おかわりってことかなあ、とそれをちらりと横目で眺めつつ、リュウは小さく笑い、そっと『ショクブツ』を両手で抱えた。
「単純に、何か気持ちいいよね。…こんな風に、そっと生きてるものが、近くにあるのって」
 リュウはそのまま目を細め、いとおしげに『ショクブツ』を見つめる。
 コーヒーは、まだ少しカップの底に残っていて。
 ……茶色い水面が、ちゃぷりとそんなリュウの姿を映した。
「…ふーん」
 ボッシュはそれを何だか、少しだけ面白くなさそうに眺めて。
 かたりと立ち上がり。
 ……テーブルに軽く手をついて、向かいに座ったリュウの元まで身を乗り出すと。

「ニサンカタンソと、サンソ」

 からかうように笑って、ふ、と息を吐き出して。
 ――きょと、と目を見張ったリュウの唇に、自分のそれを押し付けた。

「んっ…ん、んんんーーーっ!?」
 苦しい苦しい、と『ショクブツ』を思わずテーブルの上に転がして、リュウは自分の体重までかけてくる相棒の顔をぎゅーと押しのけようとする。
 軽く開いた唇から、割り込んでくる舌。
 それと……熱い、空気みたいなもの。
「んんッ…ん、ん、ふぅッ…」
 ……次第にリュウは抵抗を諦めた。
 我が物顔で割り込んでくる舌とか。
 ……ボッシュの吐き出す二酸化炭素とかを、そのまま受け入れて、仕方なく、目を閉じる。
 やがて、ちゅ、と音を立てて、唇が離れるのを。
 リュウはなんともいえない、複雑な顔で見つめて。
「ニサンカタンソ。……分かった?」
 くく、とからかうように笑う相棒に、小さく眉を寄せてから。
 かたり、立ち上がって。
 中腰みたいに、ちょっとだけ、背中を伸ばして。
 ……ちゅ、と目を閉じて、目の前の相棒のそれと、唇を触れ合わせた。
「わかったよ。……でも、もしかしたら」
 珍しく面食らったように目を見開いている相棒に、リュウはにっこりと笑いかける。
「ニサンカタンソ、とサンソ。……おれたちも、時々逆にして吐き出してるのかも」
 気障かなあとか、夢みがちだなあと思いながら、続きをそっと呟いてみる。
 テーブルの上、かた、とコーヒーカップが揺れて、茶色い水面に二人の姿がぼんやり映った。
「……だってさ。……こんなに、キスが気持ちいいのって。……もしかしたら、サンソのおかげかも、しれないでしょ?」
 悪戯めいた笑みを浮かべて、テーブル越し、掌をそっと相棒の指先に触れさせる。
 …テーブルの上。かた、と気持ちいい植物が音を立てて。
「……結構。言うね、おまえも」
 ―――ボッシュはいかにも楽しげにニヤニヤ笑って、相棒の手をひき、小さなテーブルの上に身を乗り出した。


 ……そうして、また気持ちいい植物の上で、気持ちのいいキス。

 私のニサンカタンソと、君のサンソを交換しようと。

 くすくす笑いながら、じゃれるように睦みあって。

 ―――そして、ころりところがった小さな植物は、ただ黙々と酸素を吐き出し続けたのであった。

END.













ラブかも。