――『ココロの向こう側』――


 ――――例えば、優しい声とか。
 年の割には落ち着いた仕種とか。
 黒目がちの瞳とか。
 探し出したらキリがない。あげつらってみても意味がない。
 自分の心の中が、こんなに複雑怪奇に出来てるとは思いもしなかった。

 泉光子郎。

 俺の頼れる後輩の名前。年下の友達の名前。
 三年前の冒険の大事な仲間。

「太一さん」

 そう、名前を呼ぶ響きが好きだ。
 大好きで。
 ――――今、一番嫌いだ。


◇      ◇      ◇      ◇

「なあ、太一」
「ん?」
 俺はヤマトの呼びかけに、手にした漫画から目を離さないままで答えた。
「お前、最近どこか調子でも悪いのか?」
「はあ?」
 俺は漫画から目を離して「何言ってるんだ」とヤマトを見る。
 ヤマトはその切れ長な目で俺を訝しげに見ていた。
「いや…。やけにぼーっとしてるし、授業中はずっと窓のほう見てるしさ…」
 …そうだっけか?
 俺はヤマトの言葉に首を傾げて「別に? 体調はすこぶるいいけど」と答えて、また漫画に視線を落とした。
「……。光子郎とケンカでもしたのか?」
「……何で」
 俺はヤマトの言葉に少しだけ動揺する。
 ヤマトのせりふの中に入っていた「光子郎」という名前に。
「何でっていうか…。お前、最近光子郎のこと避けてるだろう? 空も随分心配してたぞ」
 空。
 俺はヤマトの口から出たその名前に、複雑な気分になった。
 石田ヤマトと武之内空は付き合っている。今、噂に疎い方の俺ですら知っている有名な噂だ。
 皆にも散々「本当なのか」と聞かれる俺だけど、実のところまだこいつらに確認していない。
 ―――お前ら、本当に付き合ってるのかって。
 ひょっとしたら、怖いのかもしれない。……三年前の冒険のときから築いてきた、俺たち三人の関係を壊すのが。――ヤマトと空だけ、先に行っているのだと知ることが。
 ……ひょっとしたら、俺だけが取り残されているのかもしれない、と知ることが。
「何にもねーよ。それに、別に避けてるわけじゃないって。最近、部活の方が忙しいから、小学校にも顔出してないし…」
「…そうなのか?」
 ヤマトは探るように俺を見てから。
「何か、悩んでるなら…相談くらいしろよ。俺に出来ることなら手助けするし、話するだけでも楽になるだろうからさ」
「ん。さんきゅーな」
 俺はヤマトの優しい言葉に笑って、それから…。
 何だか、とても寂しくなった。

 
 他人と俺はあくまでも「他人」と「俺」で。
 どこまで行っても交わることのない、永遠の平行線。
 生まれた瞬間から、人間って奴は結局独りでしかなくて。
 死ぬ瞬間まで、独りきりでしかない。
 ……最近そんなことを考えるようになった。
 ヤマトと空の噂を聞いてから。光子郎を避けるようになってから。
 デジタルワールドから離れてから。
 ―――ずっと、俺にまとわりついて離れない疎外感。
「暗いなあ…俺」
 どうして、こんな風になっちまったんだろう。

 ――――そもそものコトのきっかけは、光子郎だった。
「太一さん?」
「よっ、光子郎」
 俺は少し遅れて、小学校のパソコンルームに到着した。でも、その時にはもう既に大輔たちはデジタルワールドに入っていて。
「状況はどうなってるんだ?」
 俺はパソコンの前に陣取っている光子郎の肩に手をおいて、そう尋ねた。
「アルケニモンたちが今のところ動きを見せていないのが気になりますが、とりあえずダークタワーを倒すことが先決ですから」
 光子郎はそう言って、画面に映っているマップを示す。
「そうか…。じゃあ、とりあえずは様子を見てるしかないんだな」
 歯がゆいが、まだ我慢するしかない。今、デジタルワールドに飛び込んでもどうしようもないから。
 俺がそう呟いてから光子郎に視線を移すと、光子郎は何故かじっと俺のことを見ていた。
「? 何だよ。どうかしたのか?」
 もしかして、俺がパソコン画面を見ている間、ずっとこうして見ていたのだろうか。俺が居心地の悪さを感じて光子郎を睨むと「ああ、すいません」と光子郎は少し笑った。…そして、俺のことを一瞬。
 じっと。
 ――――ほんの一瞬だけ、ひどく大人びたような、あるいは子供のような、そんな不可思議な眼差しで見つめて。
「僕たちも、戦えればいいんですけどね」
 パソコンに目線を戻し、何事もなかったようにそう言った。
「…え? あ。…ああ、そうだな」
 俺は何だかすごく呆然としていて。ざわ、と奇妙に胸がざわつくのを感じたんだ。
 あれからずっと、その奇妙なざわつきが消えてくれない。

 ――――あの時の光子郎の目は。
 あれは……子供の目じゃなかった。
 俺は、多分それに愕然としたんだろう。
(お前まで、俺をおいて先にいるのか)
 その事実に、俺はパニックを起こしそうなくらい……愕然としたんだ。
 ……それから、あの瞬間からずっと後をひいている胸のざわめきが、俺を戸惑わせている。
『太一さん』
 あの声が、耳から離れてくれないのだ。
『ああ、すいません』
 苦笑するようにして言ったその声。
 俺を見つめていた、奇妙に大人びた…でも子供じみた眼差し。
(そんな目で見んなよ)
 ――――あれからずっと、光子郎を意識している。 
 そんな自分が、全然分からない。……分かりたくない。

 変化ってなんだろう。
 全てが昔のままではいけないんだろうか。
 あの頃のように、男とか、女とか、恋とか、愛とか、意識もしていなかった頃に戻りたいと思うのは、いけないことなんだろうか。
 俺の紋章の名前は「勇気」。
 …だというのに、俺は何だかものすごく怯えている。
 ヤマトと空が本当に付き合っているのかなんて、知りたくない。いや。知るのが怖い。
 光子郎が俺を見ていた理由なんて、分からなくていい。あの視線の意味なんて、知らなくていい。
 ―――どうして俺が光子郎のことを考えずにいられないのかなんて、考えたくない。
 ……そう思ってるのに。
 どうして逃げられないんだろう。どうして気づいてしまうんだろう。どうして、俺は変化せずにはいられないんだろう。
 俺は屋上のフェンスにもたれて、少し冷たい秋の風になぶられながら……目を細めて、遠くを見る。
 見えない心。
 他人の心が見えないって、そんなのよく考えたら当たり前なんだよな。
 自分の心の中も全然分からないくらいなんだから。
 がちゃり。
「太一さん」
 ――――……。あーあ。
 屋上に通じるドアが開く音がして、俺が今、一番聞きたくなくて……。
 でも、まるで絡まった糸の玉みたいに複雑な俺の心のどこかで一番聞きたがっていた声が聞こえた。
「よう、光子郎」
 俺は振り向かずに、彼の声に答えた。
 変化なんて、気づきたくなかった。
 ……よくも気づかせやがったな。
 俺はいっそ光子郎を殴りつけたいような気持ちで、ゆっくりと振り返った。
 お前なんて大嫌いだ。
 そう叫べたら、どんなにいいだろう。
「ここに、いたんですね」
 優しい、少し緊張したような声音。
 まるで俺が逃げることを心配しているみたいに、背中でドアをふさいでいる。
 逃げやしねーよ。……ここまできたら。
「なあ、光子郎」
「……なんですか?」
 お前の声、俺、最近嫌いになった。
 だって、聞くと……その声を聞くと、本当にお前の声しか聞こえなくなるんだ。
 嬉しくて、悲しくて、悔しくて、少し泣きたくなるんだ。
「………。何か用か」
「…どうして僕の事を避けるのか、聞きたくて」
 光子郎は俺の言葉にそう答えて、俺の正面に立った。
「太一さん」
 呼ぶなよ。
 俺は光子郎から目をそらせずに、心の中でうめく。
「なあ。……何で、俺のこと……見てたんだ?」
 俺はずるずるとフェンスにもたれたまましゃがみこんだ。
「……僕の質問に答えてませんよ」
 光子郎は、しかし淡々とそう答えるだけで……すたすたと俺のそばまで近づいてくると、まるで逃げることなど許さないと言うように俺の間近にしゃがみこんで、俯く俺のことを見る。
 見るな。
 俺は、変化が怖くて目をそらした。
 ――――皆が好きで、誰か特別なんていなくて、それがずっと当たり前だったのに。
「……見るなよ…」
「…どうして?」
 光子郎の声は痛いくらい真剣で、それが切ない。苦しい。
 ――――『特別』はいなくて。強いて言えばアグモンとか…ヒカリで。でも、それだって、友達とか、妹の好きで。
 こんな、絶対の支配力を持った『好き』は、いないはずだったのに。
 それに―――光子郎も俺も男で。こんなのは、おかしいんだ。
 こんな変な意識は、おかしいんだ。
 なのに――なのに……。
「太一さん」
 ……嫌だ。俺を、支配するなよ。
 そう思って、目を閉じてうずくまった。すると。
「……そんなに、怖がらないでください」
 優しい声が、耳元で聞こえて。
 ふわりと、暖かい腕の中に包まれた。
「光子郎……」
「大丈夫…。なにもしませんから」
 俺は、優しい…でも不思議と力強く感じる腕の中で、ぼんやりと目を細める。
「なにも、しないって?」
「はい。……太一さんが逃げてしまうといけないので」
「逃げないよ」
「そうですか」
 そう言いながらも、光子郎は俺を放さず、余計に力をこめて抱きしめてきた。
 ……何だか、すごく変な光景だとふと思う。
 秋も半ばの冷たい風が吹く屋上で、男が二人してうずくまったまま抱き合ってる。
 ………すっげえ、変。
 そんな違和感に首をかしげながら、俺は小さく呟く。
「怖かったんだよ」
「……僕がですか?」
 光子郎が俺の耳元で囁いた。俺はそのくすぐったい響きに小さく身じろぎして「違う」と答える。
「分からないことがたくさんあったんだ。今でもたくさんあるけどな。……でも、分からなくてもいいことを分かっちまった。それが嫌で、怖かったんだ」
 わけがわからないだろう。実際光子郎も意味が分からないみたいで、黙ったまま先を促した。
「例えばさ…ピーター・パンになりたかったわけじゃないんだ。つまり……俺は、ずっと俺のまま大きくなりたかった。それだけだったんだ」
 今日の自分が明日突然に変わる。それがあまりにも早いことに気づいたのは、つい最近のこと。
 ……今なら不思議に思える。
 アグモンたちは、進化を恐れることはなかったんだろうか、と。
 あれほどまでに姿形が変わってしまう自分に、違和感や恐怖を感じたことはなかったのだろうかと。
「太一さんは……太一さんで、変わっていないと思いますけど」
「……変わったよ、俺。……あの時みたいに、迷わずに進めなくなったし……臆病になった」
「………」
 光子郎はしばらく黙ってから……そっと俺の両肩をつかんで、きっとすごく情けない顔をしている俺を正面から見た。
「臆病は、悪いことですか?」
 そして、まっすぐに俺を見て、こう言い放つ。
「悪いとかいいとかじゃねえよ。……俺が嫌なんだ」
 俺のふてくされた答に苦笑して、光子郎はそっと俺の頬に触れた。
「じゃあ、僕のことをちゃんと見てください」
「……?」
 俺は意味がわからずに……光子郎を見る。
「僕の目をきちんと見て、僕の話を聞いてください。……臆病になりたくないと言うのなら」
「……」
 俺はああ、とか、う、とかうめくみたいな声を出して、フェンスにもたれたまま少しあとずさった。勿論意味はなかったけど。
「僕は」
 光子郎の声はとても澄んでいて。
 そうか。凛としているってこういうことを言うのかって、俺は頭の片隅でのんきなことを考えていた。

「あなたが、好きです」

 その瞬間。――――心の奥の方で、いつまでもざわついていた何かが、ぴたりと止まった。
 そして全てが静かになって、光子郎の声しか聞こえなくなった。
「ずっと、あなたの手をひいていける人間になりたかった。……あなたの視線を真っ向から受け止められる人間になりたかった」
 しん、と静まり返った俺の心の中で。
 光子郎の声だけが響いている。
 ……それから、じわじわと潮が満ちるように、波がいくつもいくつも打ち寄せてきた。
「俺……」
 ざざん。ざざーん。
「……おれ…」
 心の向こう側から、波が打ち寄せてくる。
「おれは……」
 肩をつかんだままの光子郎の手が熱い。
 まっすぐに見つめてくる目が眩しい。
 耳の中に残っていつまでもリフレインする声が……胸をきつく締め付ける。
 ざざ。ざざーん。
 この波はどこからやってくるのだろう。俺は心のどこかでそんなことを思って、ぎゅっと光子郎の服の裾をつかんだ。

(タイチ〜)

 どこか遠くから、懐かしい声が聞こえてくる。

(ボクは、タイチが来るのをずっと待ってたんだよー!)

 友達の声。大事なパートナーの声。

(タイチのこと守りたいって思うから、一緒にいるために必要だから、だからボクたちは進化するんだ)

 それはいつだったか、アグモンに尋ねた進化の理由。
 何故か今更になってそれを思い出して、俺は……ようやく答を見つけた気がした。
「光子郎」
 ……変化が、怖い。
 でも、おいていかれることはもっと怖いんだ。
 ……だからって、無理やり追いつきたいわけじゃないけど。
「俺さ……」
 俺はゆっくりと笑った。
 それは大分ぎこちなくて、変な笑い方だったかもしれないけど。
 裾を握り締めた手を外すと、一瞬光子郎が悲しそうな顔になる。俺はそのまま……光子郎の首に腕を回した。
 何より怖かったのはきっと、光子郎にまで置き去りにされること。
 光子郎まで、俺のそばを離れてしまうかもしれないこと。
 ――――ヤマトや空が離れていくかもしれないと思う以上に、それが怖かったんだ。
 今まで何も音沙汰がなかった分を埋めるみたいなスピードで変化していく自分も、怖かったんだけど。
「ここのところ、お前のことばっかり見てる自分が嫌で、しょうがなかったんだ」
「! ……太一さん…それって……」
 光子郎が慌てたように言うのに笑いながら、俺はとても軽やかな気分で「でもさ」と続けた。
「もういいや」
「……ちょっ……太一さん! も、もういいやってことは……まさか!」
 光子郎が何だかすごく青ざめて俺を見る。俺はその顔を、ふっきれた気持ちで見つめて、告げた。
「臆病になって目をそらしてても、何もかわんねーもんな。俺、もうぐだぐだ言って逃げないって決めた。……だって、そんなのみっともねーし」
 そして俺は今度こそ、いつもの笑顔で光子郎に言ったんだ。
 ここ数日の憂鬱を吹き飛ばす勢いで、まるで宣言するみたいに。
「俺も、お前のこと好きだよ。……らしくもなく臆病になったり、暗くなったりして悩むぐらいに…な」
 いや。実際これは宣言だろう。
 光子郎が目を真ん丸くして、やがてにっこりと…どうしようもなく優しくて、蕩けそうな笑顔を浮かべた。
 俺はその笑顔が静かに近づいてくることに気づいて、そっと目を閉じながら、心の中の波の音を聞く。

ざざーん。ざざーん。
 ――――打ち寄せる波は、見えない心の向こう側からやってくるもの。
 ざざー。ざざん。
 静かだったり、激しかったり、表情はそのときによって変わるけれど。

「光子郎」
 俺は重ねられた唇がいったん離れ、また戻ってくるのに目を閉じて、小さく名前を呼んだ。
 ……馬鹿みたいにどきどきして、肩に乗せられたままの手の感触が気になって仕方ない。
 でも、もういいよ。
 ……。俺、決めたから。臆病にならないって。
「何ですか、太一さん」
 優しい響き。きっと俺はもうこれからずっと、この声にさからえない。
 でも、いいよ。……支配されてやるよ。
「…なんでもない」
 これは変化で、同時に進化。
 けど、きっとお前と一緒に歩くためには必要な『変化』で。
 お前の隣にいたいと思ったら……お前の一番近くにいたいと思ったら、必要不可欠の『進化』なんだろうな。
「好きだよ」
 俺はもう一度囁いた。
 光子郎は優しく唇を重ねて、俺の言葉に答える。

 散々悩んで、回り道して、でも結局逃げられなかった変化。
 心の奥から色々なものと一緒に流れてきたこいつに気づいたときから、全ては始まっていたのかもしれない。
 打ち寄せるざわざわした波の音と共に、幾つものさざなみと共に。
 『好き』という、俺の気持ちのカケラがやってきたときから。


END








サイト開設時に初アップした小説。
コメントの恥ずかしさに泣きたくなったので、新しくコメントをつけてます…。
小説の未熟さよりもコメントが恥ずかしい…。死ねますあれだけで。

この小説自体は、多分さほど嫌いではないはず。このサイトの原点のようなものなので。

この頃から付き合ってくださっている人々に、今、心底から感謝したいと思います。