――『心の臓器・後』――

 

 ……光子郎が鍵を開けると、彼の言葉通り、いつも優しく出迎える彼の母親の姿は室内になかった。
 太一は居心地の悪さを覚えながら、光子郎に連れられるままに部屋の中に入る。
「……何か、飲み物でも持ってきます」
 光子郎はそこで、そう…思い出したように呟き、気まずさをごまかすように太一の手首を解放して居間の方へ消えていった。太一はそれをぼんやりと見送り……手首にくっきりと残った赤い痣にちょっと笑う。
「………昔は、腕相撲も俺に勝てなかったくせに」
 そう、困ったように笑ってもらした言葉は…嬉しいような、悔しいような、不可思議な響きを帯びていた。
 ――彼はその痣を癒すように……あるいはいとおしむように軽く口づけると、物憂げに眼差しを伏せた。


 ……一方、台所に向かった光子郎も、どうしようもなく制御できない自らの行動を思い返し、きつく眉を寄せていた。
 太一の手首にくっきりと残った痣が、彼の網膜に焼きついて離れない。
「……今更、ですけど」
 彼は開けっぱなしの冷蔵庫の前でしゃがみこんで、長々と嘆息した。
「…………重症、ですね」
 諦めたようなその呟きは、情けないくらい力なく響き、光子郎の耳に届く。
 彼はそのまま冷蔵庫の中に手を伸ばし、母親が作りおいてくれている冷えた烏龍茶を手に取り…視線を押入れの中の救急箱に移した。


「……太一さん」
「…ん」
 太一はややあって戻ってきた光子郎の手から烏龍茶と…湿布を受け取って、僅かに首を傾げる。
「手首の……その痣に巻いておくといいと思います…。……痛いでしょう?」
 光子郎は太一の怪訝そうな顔に少し笑って、そっと……自分を責めているような顔つきで、太一の手首を撫でた。
 太一は「…うん」と素直に湿布を受け取り、不器用な手つきでくるりと手首に湿布を貼り付ける。光子郎は見るともなしにそれを見守り、巻き終わった頃合を見計らって椅子に腰かけた。
 太一はいつもの定位置であるベッドに腰かけ、光子郎から視線をそらすように俯いている。
「……一昨日は、何があったんですか」
 一体どういう風に切り出すべきか。
 僅かに悩んだ末、結局光子郎は単刀直入に切り出した。
「太一さんが足を捻ってしまったというのは聞きました。ですが、どうしてその後僕を避けたんですか? ……僕は、何か貴方にとんでもない間違いでもしてしまったのですか…?」
 膝の上で組み合わせた両手に、ぐっと力が込められる。
「……お前が」
 太一はそんな光子郎からなおいっそう目をそらすように俯きながら「お前が悪いわけじゃない」と小さく呟いた。
「………じゃあ、何故? 一体何があったんですか、太一さん…」
 光子郎は掌を伸ばしかけてやめ、太一を窺うように見る。……まだ太一は光子郎と視線を合わせようともしてくれない。
「……別に」
 太一は脇に置いた手できつくシーツをつかみながら、そっぽを向いた。
「別に、何でもない。……たださ、」
 そこで太一はそっと、深呼吸をした。……僅かに息がつまった。
「たださ……俺――」
 幾度も唇を湿らせ、逡巡したように目線を落ちつかなくさまよわせる。太一のこんな態度は、滅多に見ることはない。
 光子郎は言い知れぬ嫌な予感を抱きながら「ただ?」と先を促した。
 太一はその促しに強く唇をかみしめ……吐き出すように続ける。

「……ただ、怖く、なったんだ……!」

 まるで、それは重い鉛を吐き出したようだった。
 ――――鉛を吐き出した方も、吐き出された方も、ずんと響く衝撃と吐き気をもってその言葉を受け止める。
「……怖く……って…」
「―――だってさ…!」
 光子郎が太一の言葉の意味を問うよりも早く太一が早口に…一気に吐き出してしまおうとするように立て続けに喋った。
「お前が……お前が他の子と何でもない話をしてるだけなのに、俺の気分はどんどん気持ち悪くなってくるんだ! お前が悪いわけでも、その子が悪いわけでもないのに、教室に飛び込んで怒鳴りたくなるんだ!!」
 太一の吐き出したその言葉は、勿論光子郎にも覚えのある「嫉妬」という名の感情。


『――――あの子、だれ』


 ひどく掠れた、あのセリフ。
 ああ、あれはそういう意味だったのかと光子郎は的外れな得心をする。
「……太一さん……それは…」
 光子郎は僅かにホッとして…また少なからず嬉しくも思って、太一を抱き寄せようと手を伸ばした。だが、その掌は他ならぬ太一の掌によって勢いよく振り払われる。
「違う!! アレはやきもちなんて可愛いモンじゃねぇよ!!」
 太一は―――この日初めて光子郎をまっすぐに見つめ…いや、睨み、吐き捨てるように怒鳴った。
「俺は…お前が笑えるのは俺とか……お前の母さんとか、父さんとか相手にしたときだけだって、無意識のうちにずっとそう思ってた! ……だからあんときもそうだと思って! お前、ただのクラスメイトににっこり笑えるなんて思わなくって……!! だから、俺、すげぇ嫉妬した!! 気持ち悪くなるくらい嫉妬した!! でも―――でも違うんだ! アレは違うんだ!!」
 太一は戸惑ったように自分を見つめる光子郎に、どこか露悪的な笑みを見せると。
「俺――きっといつも優越感を感じてたんだ。……お前、いつも他人なんてどうでもいいってツラしてるくせに、俺にだけは必死で……必死で、笑ったり、怒ったり、キスしたり、抱いたりするだろ? それがすげえいい気分だったんだ。他の連中はこんな光子郎知らないだろって! 俺だけしかこんな光子郎は知らないだろって!」
 優越感。独占欲。嫉妬。欲望。
 太一は自分が、これほど醜い感情を持っているなんて――――今まで知らなかったのだ。
「だから俺…滅茶苦茶気持ち悪くて……、……怖くなって……!」
 ――――光子郎はそんな太一を見つめながら…太一が初めて自分のことを『特別』な存在として『好きだ』と話してくれた日のことをふと思い出した。


(あのときも、太一さんはこんな風に何度も叫んでいた)

(気持ち悪い。こんなのは俺じゃないって)

(怖い。怖いって)

(逃げたいって。……あれほど辛い戦いの中、一度だって弱音を吐かなかったあの人が)

(怖いのだと。……僕が…いや、自分の感情が怖いのだと)


 光子郎は……それを思い出しながら、ゆっくりと手を伸ばした。
(大雑把? がさつ? 一体誰のことですかそれは)
 太一は決して皆が思うほど……大雑把でも、いいかげんでもない。
 その内面は、滅多に覗かせないだけで―――呆れるほどに潔癖で、神経質なのだ。
 ……だからこそ、彼はいつも戦闘の際、冷たく感情を切り捨てる。冷たいと思えるほどに、感情を押し殺す。
 潔癖で……まっすぐであるがゆえに、彼はいつも速やかに敵を倒そうとする。そこに躊躇は存在しえない。
 ――――日常ですら。
 彼は無意識のうちに一線を引いて、その向こうから物事を見ている。だから、彼は誰に対しても鷹揚でいられる。しかしその一方で、一線を引いているがゆえに、誰か一人を特別扱いすることもできず彼は我知らず孤独の中にいる。
 他の孤独を救い、輪の中心にいながら、太一は誰よりも孤独で、しかし孤独でなければその潔癖な内面は保たれない。
(子供なんだ。…この人は未だに子供でしかないんだ)
 光子郎は半ば呆然と、それを認識した。
 それを…その傷つきやすい子供を、光子郎は無理やり引きずり出して……世界を注ぎ込んでしまった。それは呆れるほどに無垢な太一にとって、如何なる衝撃であっただろうか。
「……太一さん」
 光子郎は振り払われることを承知の上で太一を抱きすくめ、きつくきつく太一を腕の中に抱きしめた。
 太一はその腕から逃れるようにもがき、あるいはしがみつくように暴れる。
「……嫌なんだ……嫌なんだよ……! ……俺、今までこんな風に思ったこと……一度だってなかった…! 小学生のときだって、お前が誰かと仲良くしてるのを見たら嬉しいだけだった! なのに……なのに!!」
「……太一さん…」
 光子郎はいっそう強く太一を抱きしめた。その腕の中、もがく太一の動きが僅かに弱まる。
「……携帯…」
「―――え?」
 腕の中でようやくおとなしくなった太一を抱きしめていた光子郎は、ふと太一が呟いたその言葉に瞬きをし、肩越しに机を振り返った。……確かにそこでは太一の言葉通り、光子郎の携帯電話が小刻みに振動している。
「……電話だろ」
 太一は頼りなく光子郎の服の裾を握りしめながらぽつりと囁く。光子郎はその力ない呟きに気をとられながら、太一の柔らかな髪に顎を乗せてただ「ええ」とだけ答える。
「………出ないのか」
「……ええ」
 今はやっととらえた太一を抱きしめることだけで手一杯だった。その腕も、足も、心も、太一のためにしか動かす気が起きず、光子郎は携帯電話を無視して太一を抱きしめ続ける。
 ―――そんな光子郎の腕の中。…ふ、と、太一は自嘲めいた笑みを浮かべた。

「怖いよな」

「……え?」
 その掠れたような響きに、光子郎は太一を気遣うように見つめる。しかし太一は光子郎の目と視線を合わせず、眉を寄せて再度呟く。
「……怖いよ。…たとえ出る気がなくても……たとえ片方に出る気がなくて、ほったらかしにしてても、携帯電話はつながってる。心情なんかおかまいなしだ。……電源をきっちまわない限り、充電が続く限り、携帯は繋がり続けて……」
 太一は微笑んで……光子郎を初めてまともに見上げた。
「怖いんだ。……初めて、怖くなった。……なあ――お前、もしかしたら勘違いしてるとかじゃ、ないのか?」
「――――え?」
 太一は光子郎を突き放すように手を自分と彼の間に差し入れ、軽く押すような仕種をする。
「今はさ。ソーシソーアイ、両想いでいられるけどさ、お前、俺のこと好きじゃなくなったらどうする? 俺も、お前のこと好きじゃなくなったらどうする?」
 片方は出る気がないのに、片方はそれに気づかず、かけ続けるしかない哀しい携帯電話。
「気持ち悪くなるほど好きになったのに、吐き気がするほど嫉妬するのに……お前が俺を好きじゃなくなったら? 俺だけお前のことが好きで、ずっと、ずっと俺の気持ちしかつながらなかったら?」
 ……ひどく淡々とした口調で、太一は囁き続ける。
「……怖いよ。……んなことになったら……」
 太一は、泣きそうな顔で、そっと笑った。


「―――俺、きっとおかしくなるよ?」


 ……それは、今まで知らなくても良かったはずの激情。
 憎らしく、いとおしく、津波のような感情がとってかえす、恐ろしいほどの感情のうねり。
「おかしくなって、きっとお前のこと殺すよ。……んで、俺も死ぬの。…なあ、怖いだろ?」
 太一は囁くように告げ、俯く。
「……だから」
 太一は―――己がひどく勝手で、傲慢なことを言っていると知りながら、力の抜けた光子郎の身体を強く押した。
「……なあ。……今の内に、トモダチに戻ろうぜ?」

 ――――この息苦しい感情を切り捨てて。

 ――――何事もなかったかのように、友人に戻ろう?

 太一は微笑んで、残酷に告げる。それは、子供ゆえの残酷さ。あるいは、子供にのみ許された残酷さ。太一はそれをも知りながらも、開きかけた傷口に目をつぶり、光子郎にぱっくりと開いた傷口を作った。
 ……そして、今ならまだ間に合うから言い捨てて。
 太一はそのまま光子郎を振り払って、鞄の元まで歩いていく。
 …歩いていこうとする。―――しかし。
「っ…ぅ、わッ!?」
 どん! と強い衝撃と共に、光子郎が太一の足首を掴んで彼を引きずり倒した。その拍子に、太一は治りかけていた足首に強い痛みを覚えて「うっ」と低くうめく。
 だが光子郎はそんなことにはかまわず、太一を寝台の上に放るように寝かせ、その上にのしかかった。
「今なら間に合う? ……友達に戻る?」
「うっ…ァアッ!」
 ぎりぎりと先ほど湿布をしたばかりの太一の手首をねじり上げ、光子郎は低く低く呟く。
「冗談じゃありませんよ」
 それはひどく冷ややかな…冷たい声。
 太一はぞくりと背筋を震わせながら、光子郎を見上げる。
 ……光子郎は、見たこともないような虚ろな無表情で、太一を見下ろしていた。
「まさに貴方が今言いましたね。このままいって、もし僕が貴方を裏切ったら、おかしくなるって」
「…つッ…!」
 ガリ! と嫌な音がして、太一の頬にくっきりと光子郎の爪あとがつく。
「僕も狂います。……今、貴方が僕を置いて帰ったら、僕は間違いなく発狂します」
 淡々とした、事実だけを述べているといった光子郎のその言葉に、太一はぞくぞくと背筋を震わせながら光子郎を見上げた。
 ……寝台に縫い付けられた手足が痛い。
 光子郎に加減なく爪を立てられた頬も、ひりひりと痛みを訴えてくる。
 けれど。

 ……けれど、今、太一の背筋を這い上がってくるソレは、間違いなく歓喜に他ならなかった。

「発狂して…貴方を殺します。……いいえ。貴方を監禁でもしましょうか?」
 血が流れてきた頬の傷にそっと口付けて、太一の血を舐めとり、光子郎は太一の耳元で低く囁く。

「窓なんて、いりませんよね?」

 明るい日差し。まばゆく広がる青空。全てを遮断して。

「他の人間なんていりませんよね?」

 誰一人会わせもせず、光子郎だけが太一を抱きしめて。光子郎だけが太一と会話して。

「……光子郎…」
「……どうして、僕は貴方に心の中身すら見せる事が出来ないんでしょう」
 光子郎はそれがひどく大きな世界の罪であるかのように呟いて、太一を哀しげに見下ろす。
「そうすれば、僕が貴方以外の人間に心を奪われるかもしれないなんていう馬鹿げた不安も抱かずにすむのに」
 太一は呆然と光子郎を見上げた。

 ……こんなにひどいことをして。言って。
 ……こんなにひどいことをされて。言われて。

 それでもこの少年を恋い、慕わずにはいられない自分の心はなんだろう。
 それでもこの自分を愛し、いとおしく思わずにはいられないというこの少年はなんだろう。

「もしもこの身体を切り開き、心という名の臓器を取り出して」

 光子郎はひどく哀しげに、淡々と呟く。

「それを貴方に見せることで貴方が僕を信じてくれるのなら」

 そっと頬をなめ、早くも固まってきた血の塊を舌で剥ぎ取りながら。


「――――僕は躊躇いなくこの胸を切り開いたのに」


 ……まるで神聖な誓いのように。
 彼は愛しげに囁いて、太一の唇に口づけた。
 ……太一は静かにその口付けと誓いを受け入れ…そっと瞼を開けた。

「じゃあ光子郎」

 彼はそのまま、いつのまにか解放されていた掌を光子郎の頬までのばし、きつく爪を立てる。
 光子郎は眉一つ動かさなかったが、その頬にはたやすく傷がつき、僅かに血が流れた。
 太一は身を起こしてその傷に口付けて、厳粛に、囁く。


「裏切らないと、約束してくれ」


 口の中に広がる鉄の味を甘く舐め取りながら、太一は光子郎と同じように淡々と…囁く。


「俺も裏切らない。…だから裏切るな。……お前が裏切ったら俺が狂い、俺が裏切ったらお前が狂う。その言葉も、裏切るな」


 光子郎は太一が子猫のように傷口を舐める様を僅かに笑んで見守り、その身体をいとおしげに抱き寄せる。


「もしも裏切れば、俺は躊躇いなく俺を裏切ったお前の心の臓器を切り開いてやる」


 太一の物騒な囁きに、光子郎も「はい」とくぐもった声で応じた。


「僕ももし貴方が裏切ったなら、躊躇なく貴方の心の臓器を切り開きましょう」


 ――――まことに心が臓器として存在しうるのなら。
 裏切り者になったその瞬間、代償としてズタズタにして。


 太一はそのまま組み敷かれながら、3日ぶりの安堵に身を浸した。
 光子郎を太一を抱きながら、眩暈がするくらいの充足感を味わった。


 ……人は不自由なイキモノ。
 心を晒すことも出来ず、晒すことが出来てもどれをもって信に足るかも知りえない。

 だから、彼らは厳かに契約を結んだ。
 互いの心に噛み付きあって、その血をなすりつけあい。
 心ごと血みどろになって、醜い獣に成り下がろうと。
 愛しいと思うこの気持ちが永久にここにあるように。
 互いの気持ちが途切れる事がないように。



 ――――心に臓器があるのなら、激しく脈打ちそれを愛しい君に晒して。
 これほどに私は貴方を愛しているのだと、どうか証明してみせて。


 ――――太一のポケットの中で、今日も携帯電話が小刻みに震えた。


(まるで心臓が脈打つようだ)と太一は思い、彼はポケットから震える「つながり」を取り出して、耳にあてた。



「もしもし」


 ……今日も太一と光子郎の携帯電話は、つながっている。

END.






……ええと。
……皆様、お疲れ様でした☆☆(違…)

すすすすすすみませんすみませんすみません、こんな暗くてー;;;

け、結局最後まで暗いままというどうしようもないことに……え、えへ??(撲殺)

今回はひたすら潔癖で病的な光太を描いてしまいました…。
……恋愛って怖いにゃー、というのがうちのどの小説の太一さんにも共通する持論です。
今回は特別暗い太一さんでしたが、風成の書く太一さんは大抵感情を怖がってます。
感情を切り捨てる術に長け、大きな感情のうねりに怯える子供。
それが私の太一さんに抱くイメージのようです。

……だ、駄目じゃん!!(今更)

と、とにかく、こんなところまで読んでいただいて……ありがとうございました…!!
あんまりにもイタタな企画小説になってしまいましたが……。
もしもどーにもこーにもこれはいたすぎだよ!!;; と思った時は、風成に…一報下さい…。
……書き直します…つーか新しい話書きます……。

………こーいう話も大好きなんですが。(爆)