『紺碧と、別離と』



 ―――どこか遠くで、なにかが鳴いた。


 どこまでも青い。青い青い青い。
 永遠と思えるほどに広がる紺碧の下。
 空飛ぶ生き物が、愛らしい瞳をくりくりさせながら、その紺碧を切り裂いて飛んでいく。
 青の真中で輝いている、白く眩しいもの。ああ、なんて暖かいんだろう! 地下を照らす人工のあかりとは、あまりにも違う。

 リュウは、大きな穴のすぐ近く。……地下につながるゲートのほど近くに生えた植物に身をもたせかけ、ぼんやりと空を見上げていた。目に染み入るような蒼が、眩しくて切ない。
 これを目指してきたのだという虚脱感。達成感。……それは、しあわせな気持ちだろうか?
 じわりと、柔らかな緑の上に置いた掌を動かした。柔らかそうな、床一面に敷き詰められたそれ。柔らかいわりに、それはひどく強靭で。……千年もの間、この空の下で輝き続けてきたのだろう、とリュウは考える。
 彼の足元で、柔らかであたたかな塊が、もぞりと動いた。
 赤い羽を生やした、華奢な少女。華奢なニーナ。
 安心しきったように、リュウの足元でうずくまり、すやすやと寝息を立てている。
 そのさらさらした金色に、そっと手を伸ばす。零れる金糸、その色は、さながら今も天上で輝いているあの白いひかりを思わせた。
「リュウ。ほら、これだったらどうにか食べられそうだよ」
 眠っているニーナを気遣ってか、少しばかり抑えた声でリンはリュウに声をかける。彼女はそのまま、手にした幾つかの塊をリュウのほうまで放って、彼の隣に座った。柔らかい緑が彼女を受け止め、大きく息をつくそのため息を、当たり前のようにある解放された空気が抱きしめる。
「……いい匂いがするんだな。これ」
「…だろう? 割ってみたら、もっと甘い匂いがした。ものは試しにと思って持ってきてみたんだよ」
「これは何処にあったんだ?」
「その辺りの棒に、幾つも生えてた。…凄いな。どれもこれも、作られたものじゃないんだ。……いきて、いるんだ」
 触ってみたら、手触りが違うんだ。
 リュウのものとは違う耳を生やした獣人であるリンは、それゆえに、彼よりも深くこの自然を感じているのだろうか。
 ひどく興奮したように、そう語って。……リュウを、気遣うように眺める。


「―――レンジャー、その子を置いて行け」
 暗闇に光る赤い目。覆面をかぶった女が、鋭くリュウに銃を突きつけ、促す。
 傍らの少女が怯えたように、身をすくませる。それが更にリュウの中の敵意を強め、女に突きつけた刃を下ろさせない。



 ……トリニティと。
 そう呼ばれるレジスタンス組織の一員であったリン。
 それを思い出し、リュウはうっすらと笑んだ。
「…なんだ? 何が可笑しいって?」
「……いや。…本当に、たくさん。いろいろなことがあったんだなあと思って」
 リュウは小さく、薄く笑んだまま、上着を脱いで足元で眠る少女の肩にかけた。ここはひどく暖かいけれど、眠るひとにとって必ずしもそうであるとは限らないから。
「…そう、だな。随分、いろいろなことがあったな……」
 リンも淡く笑うようにして、目を閉じる。その笑顔が、意外なほどに優しいものだと気づいて驚いたことが、もう遠い出来事のようだとリュウは考える。
 またリュウはニーナの金糸に手を伸ばした。さらりと零れる淡い金。頬に触れると、確かにとくとくと生きている心音が伝わるようで。


 ディクにさらわれそうになっていた少女。
 リュウは小走りに倒れた少女まで近寄って、その背中から伸びる赤い羽に、小さく吐息をもらす。
(……きれいだ)
 闇の中にきらきらと、一瞬ひかりを放ったようにすら見えて、リュウは彼女を抱き起こしながら僅かに目を眇めた。
「……ッ!」
 抱き起こすとすぐに、少女は怯えた表情もそのままにリュウにすがり付いてきた。華奢で、今にも壊れてしまいそうな躯。
 小さな少女。
 名前はと問うと、辛うじて囁きに似た単語が返ってきた。口がきけない少女。
 守らなくてはいけないと、思う。
 なぜならば自分はレンジャーである。それは半ば義務でもあるし。
 …肩を震わせて、怯える少女。
(……大丈夫。きみを守るよ、ニーナ)
 それを眺めて、そう思わないはずがなかった。
 リュウは彼女に手を差し伸べた。さあいこうと呼びかける。
 いこうニーナ。




「……」
 さらりと零れた金糸の感触がくすぐったかったのか、ニーナが小さく肩を震わせて、小さく笑った。
 その笑顔にリュウも小さく笑んだ。
 この笑顔を守るためだったら、なんだってできると。
 我ながら陳腐なような。けれど、それゆえに確かに真実であるような。その思いを頼りに、ここまでのぼってきたのだ。
 リュウは再び植物に身をもたれさせ、手を翳すようにして天上の青を見上げた。
 ひどく眩しくて、それでもとても綺麗で。
 ここへたどり着いてから、何度思ったか知れないことばを、また胸中で紡ぐ。
 それでも、これから何度このことばを呟いても飽き足りないだろうとも思った。



『今一度、空へ…』
 脳裏に直接呼びかけられるようなその声に、リュウは困惑して辺りを見渡した。
 白い。どこまでも白い。
 確か自分はバイオ公社へ向かっていたのじゃなかったのか? そう自問しながら、それでも周囲を見渡して。
 突如、脳内に何か。スライドを差し込まれたように、見たこともない光景が踊った。
 暗い倉庫? そこに磔られたように、骨と皮ばかりのひどく巨大ないきものが。……いや、屍…が?
 小さき友と呼びかける声。それに応える言葉も見つからないまま、リュウはまた唐突に現実へと引き戻された。



(アジーン)
 リュウは、胸中で呼びかけるようにして空を見る。
 眩しい青。眩しい白。塞ぐでもなく包むでもなく、ただそこにある、ひどく美しい、天井。
(ここが、あのとき言っていた空なんだな)
 …今一度空へと呟く声。
 それは懇願にも思え、願いにも、祈りにも似たものにも思えた。
 何に祈ったのか。何に願ったのか。あるいは、それは自分へ願ったのかもしれなかったが。
 ああ、そうだね。きたよ。
 ここは綺麗だね。アジーンが焦がれたこの場所は、本当にきれいだったよ。
 ピイィ、とどこかでまた生き物が鳴いた。
 澄んだその声に、リュウはぼんやりと瞬きをする。隣でリンが、同じように、少し眠たげな顔をしている。
「…眠ってもいいよ、リン。辺りは、おれがみてるから」
「……。…。そうだな…。すまない。少し頼むよ…」
 ふわあと欠伸をして、リンはゆるく目を閉じる。そのまま軽くリュウの肩に躯をもたれさせてきた。その暖かさと重みに、少しばかり心がざわつく。
 きれいなひとには、心がざわつく。それは、年頃の少年としては、当たり前の感情だろう。
 リュウはとく、と僅かにざわつく心音を鎮めるように吐息を吐いた。



「つよく……なったな…」
 そう告げて、どさりと崩れ落ちる躯。
 それを呆然と見つめ、リュウは床に張り付いたような足に戸惑い、そして思うように動かない躯に悲鳴をあげた。
 実際に唇から零れたのは、掠れたような、喉奥にへばりつくような吐息ばかりだったけれども。
 強くなんかない。違う。違うんです隊長。
 細い躯は、それでもひどく強靭で。
 抜きん出たD値だけではない。その実力も、心の強さも、隊員を統率する姿にも。
 剣を教えてくれるその強さにも。
 目標だと、ひそかに思っていた。憧れにも似た感情。
 それなのに、その憧れだったひとは目の前で倒れている。崩れ落ちている。
 リュウは呆然と、やっと動くようになった足を交互を動かしてそこまでたどりつく。
 そこには眠るように目を閉じる彼の隊長と、剣が。……剣が、一振り。
 それを手にして、リュウはかぶりを振った。
 涙は出なかった。ただ、かぶりを振った。



 カタリと、掌を柄まで伸ばす。
 隊長が手にしていた剣を手にする。それは、きっとそれだけでリュウに勇気を与えてくれると思った。
 憧れた、彼女のように強くなりたいと思った、その手にした剣は、それだけで。
 リュウは、小さく吐息をもらす。
 肩と、足元に感じるぬくもり。それが、今ここで剣に触れる彼に勇気を与えてくれた。
 そして彼女が手にしていた剣は、血にまみれる彼の手に力を与えてくれた。
 ばさばさ、と小さな羽音を立てて空から動物が降りてきた。
 そのまま、不思議そうにリュウの肩にとまり、ちょこりと首を傾げる。おまえはだれ、と言うみたいなその仕草がひどく愛らしく、リュウは小さく笑った。
 そして、唐突に、この生き物の名前を思い出す。



「鳥」
「……トリ?」
 ボッシュが見せてくれた、実家から持ち出したという古びたデータ。かなり旧式のそれは、僅かな映像の歪みとともに、若きレンジャーたちの元へ情報を届ける。
「千年前。地上にいたらしいっていう生き物だとさ。結構可愛いよな」
「うん。…綺麗な生き物だね。こんなのが、いたんだ…」
「…どっかの暇人がさ。こういう風にディクを改造しようとしたらしいけど」
 ぱたんとモバイルを閉じて、ボッシュは皮肉げに笑った。
「空を、飛ぶんだと。こいつ。…こんな狭苦しい地下でさ、飛ぶディクなんて邪魔なだけだろ? 上からは許可がおりなかったんだって」
 そりゃそうだよなあ、と椅子に背を軋ませて伸びをするボッシュの言葉を、リュウは反芻するように呟いた。
「空を、飛ぶんだ…。これ…」
 それはひどく心躍る、胸がざわつくことのように思われた。
 データに記された生き物の全長は、ひどくちっぽけだ。それなのに、この生き物は空を。……千年前に地上で輝いていたという、空を、飛ぶのだという。
「すごいな…。なんか、すごいよ…」
 そう呟いて、映像に釘付けになるリュウに、ボッシュは小さく笑った。
「な。おまえ好みだろ? …まあ、俺にとってはさあ」
 そして、リュウが見つめるモバイルをカチカチと軽く操作したかと思うと。
「!!」
「……こういう画像の方が、好みだけどな」
 …先ほどまで広がっていた可憐な生き物のかわりに、ひどく刺激的な肉体の女性が、あられもない姿で表示される。
 リュウは完全に硬直し、顔を真っ赤に染めて「ぼ、ボッシュ、突然こんなの…!」とわめき、ボッシュは「ホラ、じっくり眺めてみろよ? こんな最下層ではなかなかお目にかかれない、高画質画像だぜー」とニヤニヤ笑う。
「おい、おまえら何騒いでんの…って、うわ! 何コレ、すっげぇー!!」
 そして、詰め所の一角で騒いでいたために、それを聞きつけた知り合いがぱたぱたと駆け寄り、歓声をあげた。
 ボッシュはそれを満足げに眺め、哀れむようにリュウを見て笑った。
「おまえもいいかげん、これくらい慣れろよ」
 その言葉に、リュウは真っ赤になって、それでもちらちらと画像に目をやってしまう自分にうんざりした。



「………」
 つんつん、とつつく嘴を掌で受け止めながら、リュウは小さく。…力なく笑った。
 他愛もない戯れ。そればかりではなかったけれども。
 それでも、殺してやるよと目を血走らせて、剣と剣を交えねばならない二人ではなかったはずなのに。
 それは後悔ではなく、悲しみだ。
 …深い深い、悲しみ。
 チチと、小鳥が小さく鳴いた。それにリュウは小さく微笑んで、………はら、と頬を流れた水に、瞬き、した。
 はらりはらり。ほろり。
 伝うように、次々と流れていくそれ。
 声を出そうとして、それがひどくくぐもっていることに気づき、リュウは僅かに顔を伏せた。
「ッ…ゥウ…ッ」
 嗚咽じみた声に、自分で驚きながら。…それでも涙を止めようとする気もなく。流そうという気もなく。
 流れ続ける。零れ続ける、それ。
 隊長を。……そして相棒を。この手で殺めたときには、出なかった涙。
 それが今、リュウの頬を当然のように、流れ。溢れ。……零れ。
 鳥が、ばさりと飛び去っていく。
 その気まぐれな影に小さく笑って、それでも止まらない涙をそのままに任せ。


 ―――どこか遠くで、小鳥が鳴いた。


 そしてリュウは、かけがえない二人の隣で、別離の涙を流した。

END









ドラクォ発売1周年記念。
ひとには別離の涙が必要なのです。
そして、それにはあたたかな空間が不可欠なのだと思うのです。

空に行ったあとのことを、ずっと書きたくて。そして、たくさんのひとたちを描きたくて。
数時間で書き上げた一作なので、アラばかりです。それでも書けて、とても満足です。

ありがとうドラゴンクォーター。大好きだ。