『言葉の裾を握って、』
―――あなたは時々、ぞっとするほど冷たくて。
そして、残酷だ。
光子郎は唐突に告げられたそれに、目を見開いて立ち尽くした。
「え。…だって太一さん、その日はあいてるって」
「うん。俺もそのつもりだったんだけど、さ…」
うつむいて頭をかく太一に、光子郎はぎゅっと唇を噛む。
いっそこの唇を噛みきってしまえば、貴方は流れ出す血に驚いて、踏みとどまってくれるのかも知れないけど。
けれど光子郎にはそんな勇気も、潔さもなくて、結局唇ひとつ噛み切れず、太一を引き留めることもできないまま。
「また部活の後輩に泣き付かれたんですか。それともサッカーの急な試合でも?」
「う〜。うん、なんつうか。…ええと、それを足して二で割った感じかな」
後輩にどうしても試合を見てほしいと。
太一が言うには、昨日の夜にいきなりそう訴えられたのだそうだ。
正確には選手ではなくマネージャーだそうだが、光子郎にはそれこそどうでもいい。
大学入学したOBを引きずり回すとは、いい面の皮な後輩ですね。
ましてや前日にアポイントもなくとは、礼儀知らずにもほどがある。
光子郎は喉元まで出かかった悪態を飲み込んで、辛うじて笑った。
分かりましたと言えば、きっとこのひとは満足する。そう知りながらも、言葉が出ない。
前日に訴えて了解をもらえる後輩。一ヶ月前から約束して、反故にされる恋人。
こんな馬鹿げた冗談があっていいのだろうか。
光子郎はだんだんと苛立ちが腹立ちに、挙句、憎しみにまで進化していく過程を、今まさに見つめていた。
試合開始時間が迫る。ついでに、予定していた映画の開始時間にも。
太一は時間を気にするように、ちらりと時計を見た。
そんな仕草ひとつに、ああ、どうして僕はこのひとを嫌いになれないんだろうとうんざりする。
嫌いになるどころか、好きになるばかり捕われるばかりなんて、我ながら本当に馬鹿げてる。
「あ、悪い。じゃあ俺、そろそろ行くな」
多少はうしろめたいのだろう。太一は光子郎と目を合わせないままで走っていく。
「…はい」
だから光子郎はひどく惨めな気持ちで頷いて、走り去る背中から目をそらした。
* * * * *
今日は、最近封切りになった映画を観に行く予定だった。
前々から太一が観たがっていたやつで、実際彼自身が嬉々として前売り券を入手してきたのだ。
これ、お前の分な。
光子郎、アクション好きだっけ、と差し出してから、はっとしたように尋ねた彼。
本当はそれほど好きというわけではないのだけど、光子郎は半ば反射的に「はい」と応じていた。
そか、それならよかった! と、晴れやかに笑った彼。
この笑顔のためなら、アクションだろうがメロドラマだろうが、喜んで観に行ってしまうだろう。
光子郎は恋する男の滑稽さに溜め息をついて、笑った。
好きと好きのシーソー。きっと、自分の方が少しだけ重い。
光子郎は何気無く時計をもてあそび、丸々あいてしまった時間を持て余す。
太一と過ごすはずだった至福の時は今、どろどろと停滞する塊となった。
光子郎は重い息を吐き出して、起動させたパソコンをスタンバイ状態にする。
マネージャーに頼まれて、どうしても断れなかったという太一。
彼の心を捕まえて、試合へと彼をさらっていったのは、一体どんなマネージャーだというのだろう。
(その目的は、本当に)
光子郎はざわつく胸中も、ささくれ立つ心も抑えられずに考えるが、いくら考えても答が出ないことも事実で。
「…ねよ」
彼にしては珍しく、ふてくされたような呟きと共に、寝台に横たわったのだ。
……そうやって、彼が眠りについてから、何時間経過したのだろうか。
瞼がひどく重くて、光子郎は再び覚醒した。
夢の名残はない。昨日も夜遅く眠りについた彼は、夢も見ずに眠りこんでいたのだ。
しかし、今、夢を見たら、どんなものを見てしまうんだろうか。何かどうしようもない、虚しい夢ばかり見てしまいそうな気がする。
光子郎はどろり、脳内に残る眠気を振り払うようにして、緩く首を振った。
「光子郎〜」
今何時だろうと時計を探る光子郎に、母の声が聞こえた。
外は明るい。結構眠った気がしたのだけど、この明るさだとまだ昼前だろうか。
そう考えながら部屋を出ると、そこでは母が。
…そして、彼女と向かい合って笑う太一がいて。
「よう。光子郎〜」
「た、太一さん!?」
へらりと笑う彼に、光子郎は困惑して立ち尽くす。
だって太一は試合に行って。光子郎を置いていって。後輩の試合に。
もしかして全ては夢だったのだろうかと危ぶみ始めた光子郎の前で、太一は「おじゃましま〜す」と泉家に上がり込む。
太一はにこにこ笑っていて、それを迎える母もにこやかにしている。
光子郎だけが困惑しているのだ。
「太一さん、あの」
「この時間じゃ、朝の映画終わってるな。飯食ってから、もっかい行く?」
何から聞けばいいのかと惑う光子郎に、太一は何ともすまなそうな顔でそう言った。
「…今朝はごめんな。試合、ちょっと見たら、帰ってきたんだ。マネージャーにも説明して、分かってもらった。…恋人が待ってるから、早く帰らなくちゃいけないんだって」
「そ、そうですか」
光子郎は浮き立つ心をどうにか押さえて、けれどどうにも隠しきれずに嬉しそうに笑った。
じゃあとりあえずお昼を食べましょうか太一さん。
…そう言ったところで、光子郎は今度こそ覚醒した。
窓の外は、青と朱色が混じり合っている。ああ、夕方に差し掛かった辺りか。
光子郎は眉間にきつく皺を寄せて、息をひとつ吐き出す。
今度こそ、夢だったのだ、と。
誠実で、優しくて、光子郎のことが一番なんだと今にも言ってくれそうな太一だった。
……まさしく、夢のような太一だ。
(だからって、嬉しいわけがない)
余計鬱々となった心の中、光子郎はそう呟いた。
夢は願望のあらわれだというが、それにしたって、あまりに都合がよすぎる。
光子郎は空腹を訴える体に気付いて、また溜め息をついた。
ばかみたいだ。
呟いて部屋を出ると、家の中は妙に暗い。
テーブルの上には母の手による「買い物にいってきますね」との書き置きが残されていた。
半端な時間だが、何か適当に食べようかと光子郎は頭をかく。
その脳内には、まだにこりと笑って、優しい言葉を言う太一がいて。
でもあれはいかにも夢だよなあと、光子郎はその場にしゃがみこんだ。
太一があんなことを言うのは、有り得ない。いや、もしかしたら戻ってきてくれるのはあるかもしれないけど、それは昼前とかそんな早い時間じゃなく。
そのとき、光子郎は、不意に響いたドアチャイムに、苦笑した。
そう、こういう時間に。
「…今日は悪い。ごめんな、光子郎」
ねえ、どうか許してくれませんか、というような顔で、こちらを見上げてくるだろう。
まさしくその通り、予想通りの時間に、予想通りの顔で、太一は佇んでいた。
夢の中のように、優しく、けれど本当にすまなそうにしているわけではなく、もっとなんていうか。
(情けない顔をして)
太一のしゅんとした顔に、光子郎はこっそりと苦笑をもらした。
こんな顔すら可愛く思えるなんて、自分はやっぱりどうかしているのだ。
夢の中の太一には感激して、けれど戸惑って。
こうして目前に佇む情けない太一には、どうしようもない愛しさを感じて。
「もう、試合終わったんですか?」
「いや…。途中で抜けてきた。俺がいなくても平気そうだったし、マネージャーとも話したし」
どうやらこの辺りは微妙に正夢だったらしい。光子郎は笑って、太一を招いた。とりあえずあがってください、と。
「なあ、光子郎。あのさ。…怒ってるか?」
「怒ってないって言ったら、嘘ですね」
夢の中の太一だったら、こう言ったらどう答えただろう。
光子郎はそんなことを考えつつ、ますます情けない顔をした太一に笑った。
「そのマネージャーのひとは。何を話したかったんですか、太一さんに」
玄関先に佇んで、あがっていいと言ったのに動かない太一は、光子郎のその言葉にぎくりと動きを止める。
そして「……気づいてたのか」と、困ったように呟いた。
「気づかないわけがないです。…いくら太一さんが後輩のお願いに弱くっても、一ヶ月前からの約束より優先させると言ったら、よほどの理由があるはずですから」
光子郎はそんな太一に向かって、片眉を上げてみせた。
「……ちゃんとお断りしてきたんですか」
「そりゃあ、…決まってるだろ」
太一はむすっとそっぽを向いて「おまえがいるんだから」と小声で呟いた。
(うん、今のは割と高得点ですね)
光子郎はその言葉に浮き立つ心を、しかしぎゅうぎゅうと上からしっかり押さえつける。
まだまだ。まだこんな言葉一つで、許すわけにはいかない。
「あがってください太一さん。…お茶くらいなら出しますよ」
冷たい声で促せば、太一はやっと足を動かして、光子郎の不機嫌な顔を恐る恐る見守る。
「……。…あの、さ。光子郎は俺が告白されるとかって、さ、予想、ついたのか?」
「ええ。大体は」
「………。…そっか」
俺、全然想像つかなかった。
小さな声で呟く。その残酷なほどの鈍さも、また太一らしくて涙が出そうだ。
「あのさ」
靴を脱ぐ太一を、待ってはやらない。
先に進んで、振り向いてもやらない。
僕は怒ってるんですよという態度を崩さない光子郎に、太一がもう一言、言葉を放った。
「ごめん」
返事をしない光子郎に、更にもう一言。
「もう、こんなことしないからさ。…絶対光子郎の約束優先するから。…光子郎が一番だから、さ」
だから、と太一は言う。
機嫌直せよ、と困ったように。
光子郎はその一つ一つの言葉をしっかり縫いとめて、契約書を書かせようかと本気で考える。
何度目の「絶対」だろうかとも、考えながら。
無邪気に残酷な太一の言葉は、子どもじみたその場しのぎのものばかりだ。
それらは全て、水か砂のように、するすると指先から逃げていくものばかり。
さて、どうしてくれようかと光子郎は考える。
「…光子郎」
太一が求めているのは、きっと唯一つ。
しょうがないですねと言って、許してあげますよと笑えばいい。
その二言を求めて、太一は必死に指先をこちらまで伸ばしてきているのだ。
爪の先に、言葉の裾だけでも引っ掛けられないかと、子猫が必死にもがくみたいに。
「――…お茶は何がいいですか」
だから光子郎はわざと、飲んだら帰ってください、とでも続きそうなくらい、冷たい声音で応じてやる。
だって自分はまだ怒っているのだし。
あんな下らない夢も見たのだし。
今日は苛々してばかりだったのだし。
…もう少しばかり、太一が言葉の裾を求めてあがくさまを楽しんでも、罰は当たらないのではないかと思うのだ。
「……光子郎」
太一が、悄然として。
ほんとにごめん、と呟くのを、光子郎は卑怯にも自分はしっかりと捕まえていて。
言葉の裾を片手で握ったままで、彼はこの日得るはずだった至福の時間を、じわじわ取り戻していくのだ。
情けない太一さんです。
ていうか話が全然まとまって、ないです…あわあわ。
しかしこの話は激しく太光っぽいですね…! どうしてこうなったのか…。
言葉の裾を握って、を、相手の言質を握る光子郎と、とにかく許しの言葉をもらいたい太一、ということで描いてみました。
…が、描ききれずという印象、強しです。こそこそ改訂します。