――『カレイド・スコープ』――




 ――――世界はまるでくるくる変わる万華鏡。
 ついこの間、春が来たと思ったのに。
 そういえば、夏がもう終わるようだと、他人事みたいにふと気づく。

 キラキラした宝石みたいな、そんな綺麗なものばかりで世界は構成されていないと。
 どちらかというと、磨いてもこれ以上はどうしようもないような、そんな石ころばかりで世界は出来ているのだと。
 そう知ったのは、もう随分前の……そう。子供の頃だった。
 でも、その一方で、小石の中にこっそり混じっていた宝石の原石みたいな。
 そんなキラキラした人が隠されていることを知ったのも。
 やっぱり、もう随分前の……子供の頃だった。


◇      ◇      ◇      ◇

「――……また、徹夜ですか?」
 そう言った僕の声は、大分呆れを含んでいただろうと思う。
 いや、呆れというよりも。
 ……若干の諦めと。……悔しさ?
 ――――そう。
「悪い悪い…。でもさ、昨日のうちにやっとかなきゃいけなかったんだよ。昨日まで時間がとれなかったからなあ」
 だから一気にやっておきたかったんだと悪びれた様子もなく笑う、磨けばいくらでも光る原石みたいにキラキラした、僕の恋人は。
 ――――昔から、言い出したら聞かないのだから。
「……体調にだけは気をつけてくださいね?」
 だから僕はそれだけは釘を刺して、大あくびをする愛しい人のこめかみに軽く唇をあてる。
「…ちょっ……光子郎……」
 それだけのことで顔を赤く染めて「朝から恥ずかしい真似すんなよ」とぼやく、可愛い太一さん。
 僕はそんな太一さんにクスクス笑いそうになりながら、わざと真面目くさったカオをつくって。
「おはようのキスですよ」
 そう、厳かに告げてから、優しい口調で付け加えた。
「……それから、おやすみのキス」
「…へ……?」
 その言葉にわけがわからないという顔をしている太一さんにかまわず、僕はそのまま太一さんの唇を優しく優しく奪った。
 軽く触れるだけの、ままごとみたいなキス。
 太一さんはそんなキスにもやや顔を赤らめながら「何でおやすみなんだよ」と憮然とした声音で言う。
 ……現在時刻は午前七時五分。時計代わりにつけられたテレビの中では、朝のニュース番組が(僕にとっては)大してイミもなく放映されている。
「俺、これから仕事なんだからな。昨日できた書類を届けなきゃいけねーし、それから今日はデジタルワールドに行って再来週の会談について……」
「書類は僕が届けてきますよ」
 僕はきっぱりと、太一さんの言葉を遮って告げた。
「…おい」
 そして、太一さんが驚いたような顔で何かを言うのにもかまわずに続ける。
「再来週の会談のことでしたら、既にテントモンに依頼してあります。アグモンもあちらにいることですし、今日は太一さんがいなくても十分何とかなると話してくれましたよ」
「……おいってば」
「今日の午後からのスケジュールですが……、大丈夫です。こちらも何とかしましょう。…いえ。何とかします」
 まだ太一さんは何か言いたそうに僕を睨んできているが、僕はあえてそれを無視して……断固とした口調で言った。
「今日は休んでください、太一さん。今日はちょうど金曜です。……今日と土日を使って身体を休めてください」
「……あのなあ」
 太一さんはかなりムッとしたような声で、僕の提案……いや、決定事項に異論を唱える。
「なんなんだよ、それ? ……俺にだって予定があるんだよ。勝手に決めるな」
 ……いや、むっとしているというよりも。
 僕から目を逸らしてそう答える太一さんの伏せられた睫毛は、ほんの少しだけ寂しそうに瞬きしていて。
 ――――太一さんは悲しそうにしながら、僕を睨んでいた。
「――俺のこと、信用していないのか?」
 ……。それは、どこか傷ついたような声音だった。
 僕はある程度予想できていた太一さんの反応に、それでもやはり心を痛めながら……「違います」と答える。
「信用してないわけじゃありません」
「……じゃあなんでだよ。……約束、忘れたのか?」
 太一さんは苛立ったような声で先を促した。

 ――――デジタルワールドと、この人間世界をつなぐ……最初の先駆者となった、最初の外交官となった太一さん。
 そんな太一さんが、同じくデジタルワールドの研究者となった僕と、人生のパートナーとして同居することを受け入れてくれた時。
 最初にした約束が「お互いの仕事に干渉しないこと」だった。
 ……僕たちの取り組もうとしていた仕事は、それこそ、何もない広い川に大きな橋をかけるような、そんな仕事。
 土台作りどころか、まだ設計図すら出来ていない。……そんな状況の中で、気遣いは美徳だけど。

『きっと、最初は邪魔になるだけだ』

 太一さんは、あの人らしい強さで、きっぱりとそう言ったのだ。

『俺はお前のことが好きだし、勿論お前のことも心配したい。…でも』

 彼のことをよく勘違いしている人がいるけれど。
 太一さんは時々、こんな、冷たいくらいの先見をしてみせる。
 そして、恐ろしいくらいに冷静になって、感情の持ち込みを許さなくなる。

『俺たちのやろうとしていることには、互いに支えあうことも必要だ。でもそれよりも、まず一人で立つことが必要なんだ』

 居心地のいい、甘えられる場所。
 まだそんな場所は必要ないのだと。
 太一さんはそうはっきり言い切った。
 まずは強くならなければいけないのだと。
 誰よりも強く、誰よりも脆い眼差しで、僕をまっすぐに見据えて。

 それは約束であり、絶対の誓いだった。……勿論、僕が忘れるはずがない。
 だが、それでも。
 ………それでも、僕は、これ以上……今すぐ倒れそうな、それでも一人きりで立ち続けようとする、愚かで愛しい人を放っておくことは出来なかったんだ。

「……太一さんは、本末転倒という言葉を知っていますか?」
 僕は少し抑揚を欠いた声で、少し薄くなった太一さんの背中を、後ろから抱きしめた。
「……」
 太一さんは黙って、ふいと目を逸らす。
「………。……どんなに頑張っても、どれだけ努力しても、貴方が身体を壊してしまうのであれば……全ての事柄に意味がなくなってしまうんですよ」
「……。……まだ、壊れない」
 ……僕の囁きに、太一さんは子供のような口調で……それでも少しおとなしくなった口調で呟いた。
「………そうですね。……でも、壊れる寸前です」
 僕は抱きしめる腕に、少し力をこめる。
「…昔から、貴方の戦い方には余裕がないんだ」
 ……もっとうまく立ち回れるはずなのに、一人だけで辛いことや苦しいことを背負い込もうとするから。
「……ギリギリで勝利して、でも、その後で力尽きたら、何にも意味がないんですよ?」

 ――――犠牲によって得られたものに、意味などあるはずがない。

「………。それに、現実問題として……」
 ……深刻な顔で。そう、きっと何よりも僕にここまで言わせるほどに心配をかけてしまった自分に対して、また色々と考えているらしい太一さんに、僕は少し明るい調子で話の方向を修正する。
「三日間の睡眠時間、全部含めてたった四時間のヒトを、ふらふらと外出させるわけにいきませんよ」
 ……いや。勿論冗談めかした口調ではあるけれど。
「………眠くねーよ」
 かつてきっぱりと言い切った、あの毅然とした態度とはうってかわってコドモっぽい顔を見せる太一さんに、僕はにっこりと笑顔を見せた。
 ……僕は。
 …………実はとても怒っていたのだ。
 その感情がゆらりと笑顔の中にでも見えたのか、太一さんの顔がぎくっと強張る。
「―――じゃあ、眠くなるように運動≠ナもしましょうか?」
 ……僕のそのセリフに、今度は太一さんの顔が更に強張った。
「ば、馬鹿言ってんじゃねーよ! だ、大体、お前にだって仕事あるだろ!?」
「今日は休日です。……先日、半強制的に何日か休みをとることを約束させられましてね」
 僕は、あくまでも溜め息混じりに答えた。……けれど、溜め息をつく一方で顔が僅かに笑んでしまうのがわかった。
「だから……ね?」
 つい浮かんだ笑顔を、少し意地悪なものに変えて、僕は顔を真っ赤にしている太一さんの顔をのぞきこむ。
「時間はたっぷりありますよ?」


 ――――世界はまるでくるくる変わる万華鏡。
 あまりにも早く時は過ぎ、くるりくるりと景色は気まぐれに変わっていく。
 …僕たちはそれに追いつこうと必死で。
 ……そして追いついたら追いついたで、めまぐるしく変わる景色の中に……万華鏡の景色の中に閉じ込められてしまったのかもしれない。
 けれど、僕は……ようやく気づくことが出来た。


「……ねえ太一さん。……焦ることはないんです。急ぐ必要はどこにもないんです」
 僕たちのなすべきことは、今まで在りえなかった世界の革命。
 そのあまりに重大な仕事に、きっと僕たちは少し周りが見えなくなっていたのだろう。
「僕たちの時間に限りはあるけれど、だけどそれに焦る必要がどこにあるんです? 僕たちはまだここにいる。明日はまだそこに存在している。そして、頑張ってきた昨日までの僕らの努力は、これから形にしていく全てのものの土台となっていきます」
 ――――だからまっすぐに前を向いて歩こう。
 前を向いて、これから築いていく道のりの最終地点を計るのではなく。
 自分たちが築いてきた道が後ろにあることを信じて。
 その道がたとえどんなに狭く、細い道であっても、そこを歩いてきた自分を信じて。
「……過信ではなく。自分が信ずるに足る道を来たのだと……それを知っていてください」
 腕の中で……太一さんはただじっとしている。
 僕の大好きな、あのまっすぐな瞳で、静かに僕を見上げながら。
 僕はその瞳を見つめ返しながら、にこりと微笑んだ。
「時には足を休めて、過去のこと、明日のこと、今日のことを思うことも必要ですよ」
 …そして時にはその手の万華鏡をとめて、世界がどんな形をしていたか思い出すことも必要なんです。
「貴方が好きです。……貴方が大切です。……そんな風に想っている、僕のことも、たまには思い出してください」
 ……たまに、でいいんですから。
 ―――僕は我ながら殊勝なことを言って苦笑した。
 太一さんはそんな僕に小さく笑って見せて。
「…ばーか」
 そう、この上なく優しく呟きながら、ことんと自分の頭を僕の身体にもたれさせる。
「……ごめんな。心配かけて」
 それから独りごとのようにぽつんと呟き、太一さんの身体を抱きしめていた僕の掌を取って、自分の頬をこすりつけて。
「―――最初の、約束な。……ホントは、お前に心配かけないようにする自信がなかったから…」
 どこか後悔したような響きで、僕にそう告白してくれた。
「だから、少しでもお前に辛いとこ見せたくなくて、みっともないとこ見せたくなくて、ああいったんだ」
 かっこつけたかったんだ。
 太一さんはぽつんぽつんと呟きながら、最後に苦笑するように僕を見る。
「……お前、どんどんかっこよくなってたから。……何でも一人でやれるようになってたから」
 それから自嘲するように太一さんの唇が紡いだのは、そんな、僕にとっては驚くべき言葉。
「焦ってたのは、デジタルワールドのことだけじゃなくて。……お前に、置いてかれそうな気持ちがしたからかもしんない」
「そんな…!」
「……うん。そんなわけないって、わかってるんだけど」
 太一さんはちょっと笑って、すりっと僕の身体に身を寄せた。
「強がりたかったんだな、きっと。………それでこんなに心配かけちまった。……昔は逆だったのに」
 その呟きは、何だか少しだけ悔しそうで、僕は小さく笑う。
 太一さんはそんな僕を軽く睨んで、もう一度「ごめんな」と囁いた。
「……ゆっくりいきましょう? 太一さん」
 僕はその言葉にただ微笑んで、そう告げる。
 僕らの足は、走るためだけについているわけではないのだから。
「まずはゆっくり休んで……それから色々考えましょう」
 かつての僕だったらとても考えられないようなセリフに、太一さんはちょっと目を丸くして……少し悔しそうな、でも、何だか照れたような、複雑そうな表情で笑った。
「そうだな」

◇      ◇      ◇      ◇

 ――――世界はまるでくるくる変わる万華鏡。
 ついこの間、春が来たと思ったのに。
 そういえば、夏がもう終わるようだと、他人事みたいにふと気づく。

 ……けれど、ふと気づけば、廻り続けている万華鏡は、ちゃんと僕の掌の中にあって。
 それを止めてしまえば、ちゃんと世界の景色を目に映せるのだと、僕はようやく気づくことが出来た。

「太一さん……僕は………。……太一さん…?」
 そっと尋ねるように名前を呼ぶけど、愛しいヒトは気づけば僕の腕の中で眠りについている。
「………おやすみなさい」
 僕はその静かな寝顔にそっと笑って、この人の安らかな眠りのために、いったん手の中の万華鏡をおろした。
 万華鏡の中に映る景色は色とりどりでせわしなく、けれどもひどく美しい。
 ――――でも、そんな見せかけの美しさに、僕は興味もない。
 ……僕の心を動かして、僕の興味を惹きつけてはなさないものは。
 今も昔も、きっと未来も……貴方一人だけ。


 僕は太一さんの柔らかい髪の毛をそっと梳きながら、まるで祈るように目を閉じた。

(――――……変わりゆく世界の中で、変わらないものを見つけました)

 それは例えば、友達とか、仲間とか、信頼できる人たちのことでもあるけれど。

(――――まるで万華鏡のような景色の中で、変わらないものがたくさんあることを知りました)

 心の底から、誰かにありがとうと告げたくて、僕はゆっくりと目を開けた。

(――――……そして、僕は、貴方と共に立つことができる未来を見つけました)

 そこで眠っている大事なヒトに、僕は囁くように告げる。

「僕は……これからもずっと、貴方と一緒にいたい……」

 今なら叶うかもしれないと思った、まるで祈りのようなその言葉に。

「………一緒に、いよう」

 まるで囁くような、そんな返事が返ってきたことに。


 ――――僕は、心の底から幸せを噛み締めました。

――END.




しぃなさんに捧げた「研究員×外交官」小説でございます。
……書いてる最中はかなり大苦戦で、またタイトル決めも一苦労でした(笑)。
ていうか、研究員とか外交官とかあんまり関係ないじゃんこの話!?(致命的)
いつも後悔ばかりの風成飛翔……。(ダメすき)
それでも楽しかったですよ研究員×外交官!(鼻息荒い)
しぃなさん、書かせてくださってありがとうございます〜vv
このようなモノでよろしければ、お捧げいたします…。


モドル