――『真白の雪に花が咲いたと、君は驚き其を愛でる』――
「―――…冷えるのか?」
……しんしんと、どこまでも静かに降り積もる雪の中。
泰継はまるで今更気づいたように、今の今までもたれかかっていた少女の華奢な身体に手を伸ばした。
「え? ……ええっと」
問われた少女は唐突に言われた言葉に頭がついていかなかったように、一瞬目をぱちりと瞬かせた。
「ちょっとだけ寒いですけど……平気です。この服、意外とあったかいんですよ」
末法の世に現れ出でた救い主――…龍神の神子という名を頭上にいただく少女、花梨は、ようやく会話の流れを理解したらしく、ぱたぱたーっとまるで子犬がはしゃいでいる様子を思わせるような動きで泰継のそばまでやってきた。
――――つい先ほどまで、泰継は“眠って”いた。
今までの、人にあらざる眠り……三月の眠りではなく、まるで「人のような」一刻足らずで目覚めることの出来る“眠り”だ。
『泰継さんは人になったんですよ』
そう告げた、花梨の優しい声は、まだ耳に残っている。―――だが、一方でそれが本当に真実なのか……自分はただ都合のいい夢を見ているだけではないのかと、意味をなさない疑いが脳裏をよぎりもする。
(いや。……私は夢など見ない)
しかし泰継はその考えを即座に否定した。そう。だからこそこれは意味をなさない疑いなのだ。
人形は夢を見ない。……だからきっとこれも現実のうちなのだろうけれど。
泰継は……それでもまだ信じがたくて。
すぐに近くにいた、何よりも確実な「現実」の少女――花梨に手を伸ばして、そっとその頬に触れて。
……そのひやりとした肌の冷たさに、驚いたのだ。
「……すまない。…私のせいだな」
泰継は抑揚のない声に強い後悔の念をこめて詫びる。花梨は「大丈夫ですってば」と告げて安心させるように微笑むが――泰継の中の後悔は深まるばかりだった。
――――ひどく華奢で、泰継よりもずっと小柄なこの少女は……どこもかしこも壊れやすそうに見える。…いや、実際そうなのだ。
ぼんやりとした性格とは裏腹に強い意志を示す花梨の性質は、まるで細い鋼のように強靭だ。
だが、決してその心ほどに肉体が強いわけではない。……当然だ。
―――いかに神子であっても、その身体は唯人と変わらぬのだから。
花梨は、秀麗な顔を曇らせる泰継に、困った様子で「うーん」と呟いてから、もう一度「平気ですよ?」と小首を傾げる。
その気持ちは、本当に――どこまでも本音の気持ちで。
頭がとてもよくて、落ち着いていて、けれどその実とても傷つきやすい青年。
私は人間ではないのだと、至極何でもないことのように語る一方で、「八葉」として、神子の「道具」として役に立てないことを恐れる、外見よりも遙かに齢を重ねている彼。
(……とても、キレイなヒトなんだよ?)
花梨は誰に告ぐでもなく、心中で囁く。
顔立ちのことだけを言っているのではない。
(触ったら壊れてしまいそうな……そんなキレイなヒトなんだよ…)
――どこか張り詰めたような、けれど妙に達観しているような、不可思議な危うさ。
花梨はそれがとても「キレイ」で、とても「切ない」と思う。
(―――だって、どう考えても……)
花梨は、おずおずといった風にのばされた泰継の指先を、そっと自分の手の中に包み込んだ。
「……」
泰継が驚いたように若干身を固くするのにも構わず、その指先に自分の頬をすりよせる。
(…こんな「キレイ」さは、「イタイ」よ)
――――寒さなんか、何でもないの。
――――こんな痛いようなキレイさを見るよりも、ずっと平気なんだから。
……花梨の思いは、どこまでも感覚でしかないゆえに、具体性に欠けていた。思いの表現ですら曖昧なのだから、無論言葉に出来るほど、まとまった形にもなってはいなかった。
(でも、「イタイ」のは……泰継さんも嫌だよね?)
――――だって、私は嫌だもん。……泰継さんのイタがるキレイさは、イヤだもの。
……だから花梨はちょっと首を傾げて、ゆっくりとこう告げた。
「寒くないです」
静かに、考えて、また考えて。
……なんと表現すれば。
どれだけ優しい言葉を使えば。
このヒトから「痛み」を取り除けるのだろうかと考えながら。
「……神子」
泰継は、ひたひたと押し寄せる水のように、自分の心を占めていく目の前の少女の感情に戸惑った。だが。
(……いや)
……違う。この感情は。
泰継はそう考えながら、静かに思う。
(…………これは、私の感情?)
泰継は胸を満たしていく、苦しいような泣きたくなるような、そんな気持ちに驚きながら―――口を開きかけて、また閉じた。
何と表現すれば。
どれだけ明確な言葉を使えば。
正しく。……この少女に、今の“おもい”を説明できるのだろうか。
「……泰継さん」
―――やがて花梨は決断した。
「何だ」
するりと、花梨の手から泰継の指先が解放される。泰継はそれをどこか哀しく思いながら、もう触れてはいけないのだろうと惑いつつ、指先を花梨の頬から離した。
花梨は離れた泰継の指先をどこか残念そうに見つめてから、唐突ににこっと明るい笑顔になる。
「やっぱり寒いです!」
彼女は笑顔のまま実に朗らかに告げ、そのまま「では紫姫の館に早く…」と促そうとした彼の腕の中に、勢い良く飛び込んだ。
「なっ…、み、神子!?」
さすがに面食らって、けれど半ば反射的に花梨を受け止めた泰継の腕の中で、花梨は無邪気に告げる。
「―――だから、私をあたためてください!」
泰継の腕の中へ何のてらいもなくおさまった花梨は、そのまま泰継の胸に顔を埋めて、ぎゅうっと両腕に力をこめた。
(ほら、あたたかい)
戸惑う泰継の腕の中、花梨は漠然とそんなことを思う。
「………。……………神子は」
泰継は呆れたように……あるいはやはりまだ戸惑っているような抑揚のない声で、ぼそりと呟いた。
「――――……柔らかいな」
あたためてという花梨の願いを叶えるように、彼女を抱きしめながら。
「………。…………やわらかい?」
花梨はその言葉に目をぱちくりさせて、ちょっとだけ眉を寄せて考える。
だが結局は深く考えないことにしたらしく、「泰継さんはあたたかいです」と彼に応じた。
「………あたたかい……?」
その言葉に、今度は泰継は大きく目を見開いた。
「――――……。……そんなことを」
彼は今度こそ本当に戸惑ったように……おずおずと掌を花梨の髪の毛へもっていくと。
そのままことん…と、花梨の頭に頬を押し付ける。
「……………私は、そんなことを言われたことは……、ない―――……」
そのまま告げられた、ひどく呆然としたような囁きに、花梨は首を傾げた。
<人形、だな――…>
泰継の耳の奥に、かつて投げつけられたことのある蔑みの言葉が蘇る。
<人形、だな、やはり。…その肌は美しくとも、所詮はつくりもの。―――化け物が。人のぬくもりだけは真似られなんだか>
……冷ややかな肌。
………人にあらざるものの温度。
そう、投げつけられた言葉は、忘れることを許されない泰継の胸の奥底に、静かに降り積もっている。
「―――……どうしてですか?」
しかし花梨は、本当に不思議そうに――暖かい泰継の胸に頬をすり寄せ、どこまでも柔らかな、春の日差しを思わせる眼差しで泰継を見上げた。
「……私は、ひとでは、ない…。……だから………ひとのぬくもりを、持ちうることができないのだ………」
泰継はそれに、途切れ途切れの言葉で応じる。
何故言葉が途切れてしまうのか。
何故神子にもっと分かりやすい言葉で告げられないのか。
何故こんな個人的な必要のないことを話しているのか。
何故ひとのぬくもりをもたぬひとではないわたしのぬくもりで神子をあたためようと。
紫姫の館に早くつれていくことが必要なのだだから私は早く神子をはなしてはなれてひとりで。
「――――だって」
その声は。
泰継の中に広がっていた幾重にもなる声を優しく溶かすような。
澄んだ声音の中に暖かなぬくもりが滲むような、そんな柔らかな声で。
―――全てを静かに通り抜けて、泰継の元に届いた。
「――――雪が、溶けているじゃないですか?」
それはどこまでも純粋な少女の言葉。
……泰継は半ば呆然と緩慢な瞬きをして。
知らず手の甲に降りてきた雪片をみつめ、もう一度、うっすらと瞬きをした。
その一瞬の中で、雪の華は、何のためらいもなく。
――――ふわりと溶けた。
「………わたしは」
――――私は。
……それから彼が何を言おうとしたのか。
続くはずであった言葉は、喉の奥から溢れ出てきた嗚咽に飲み込まれた。
「――――――……わたしは……っ……」
あとからあとから、せきをきったように溢れていく涙。
そのあたたかな涙を花梨はそっと指で拭いながら、ようやく見つけた言葉を囁いた。
「つらくて、くるしくて。でも、あたたかくて。やさしくて」
……それが“ひと”なんですよと。
「私は、泰継さんがずっと“ひと”なんだと思ってました」
だってあなたは、とてもやさしくて、かなしそうなかおをしていたから。
「…………神子………」
泰継は途切れがちな声で囁きながら、まるで子供のように泣いた。
――――しんしんと、静かに雪は降って。
二人のひとの上で、つもることなくふわりと溶けて、また次々と降りてくる。
(――あ)
花梨はふと場違いな事を思って、腕にまた力をこめた泰継になされるがままきつく抱きしめられた。
(なんだかこれって)
――――恋人同士みたいですね?
彼女はひそかにそう思って。
――…困ったように、小さく笑った。
END.
もう随分前に書いた小説な気がします。
いたたまれないコメントに、軽く発狂しそうになりました。
あのコメントを見たひとは、今すぐ記憶を消して…ください……。