『見えない口付け』
おやすみのキス。おはようのキス。
さよならのキス。だいすきのキス。
口付けに親愛の情を求めるのは、恋人たちと、それから幼い子どもたち。
両親から向けられる愛情が永遠で確実であると信じ、躊躇いなくさしのべられる掌。
それが踏みにじられると思うはずもない。彼らは愛されている。そう信じることを禁ずる理由が、何処にあるだろうか。
(結局のところ、くだらない馴れ合いってヤツだろ?)
手をつないで笑い合う親子。時折母親の手をひいて、顔を近づけ、くすくす笑う。そしてすぐ後に咳き込む。…地下の空気は、暗く淀んでいるから。
それを見て軽く溜飲が下がるのを感じながら、ボッシュは軽く舌打ちする。
違う。あんな取るに足らないローディー如きに心を乱されているような自分は、違うのだと。
天井に描かれた空。
人の手で塗られた、手の届く場所にある薄汚れた空。
それが人々にとっても、似合いの光景だと、ボッシュは皮肉げに口の端を持ち上げる。
父親の掌は、いつも何かで塞がっていた。
たとえば剣の柄。たとえば必要なデータ。たとえばとても大切な、何かの鍵みたいなもの。
小さなボッシュの掌をとる余地など、その手にはなかった。
寂しかったのかもしれないと、他人事のように考える16歳の自分を哀れむのは誰だろう。ボッシュはくしゃ、と髪をかき混ぜて、ようやく現れた相棒に嘆息した。そのまま立ち上がって「遅い」と声をかける。
おやすみのキスなどというものも、無論知るはずがない。まして、あの父親がと思うと、想像するだにぞっとする。
「ごめん、ボッシュ。…支度に手間取って」
「まあ、許してやるよ。俺はローディーに寛大だからな」
リュウはボッシュの言葉に、笑えばいいのか頷けばいいのかわからないような、半端な表情で応じる。
「…ついでに、どんくさい相棒にも寛大なんだよ。ほら行くぞ」
「……え? あ、うん…!」
歩き始めたボッシュとリュウの横を、先ほどの親子が通り過ぎていく。
それを見るともなしに横目で眺めてから、ボッシュは「おやすみのキスとか」と、唐突に呟く。
「え…?」
「ガキの頃って、そういうの。やっぱするもんなのか?」
「…え? え、ちょっと待って、まず…あの…おやすみの…?」
ボッシュの口から唐突に放たれた言葉に困惑したのか、リュウがおろおろと足を止める。そんなにおかしいかと眉を寄せてから、そんなにおかしいかもしれないと思い直す。
自分はそういうことを口にすべきではない、と誰かが何処かから叱咤する。それに従うのも癪なようで、でもそれが確実に正しいのだとも知っていて。
ボッシュは眉を寄せたまま、憮然と黙り込む。
「…おやすみのキス、は…。どうだろ。あの、ええと、さ」
おれはあまりしなかったかも、でもそんな小さい頃のことよくわかんないなとリュウはしどろもどろに答える。よっぽど吃驚したらしい。ボッシュの眉間の皺が、深まる。
「ええと。…うーん、つまりさ」
リュウも大分、煮詰まったらしい。言葉を捜すように宙をうろうろしていた手が、ぽふとボッシュの肩に置かれた。
なに、と尋ねる間もなく、頬に柔らかな感触。
「……親愛のキス」
そう呟かれて、触れた感触はすぐに遠ざかっていった。
リュウは困ったような顔をしたまま、ごまかすように笑う。
「つまりそういうこと…かな…? おれはよく覚えてない。でも、ボッシュがしたいのなら、今誰かにこんな風にしてもいいと思うよ」
そう告げて、彼は珍しく固まった相棒を眺め、無邪気に首を傾げた。
ちょっと恥ずかしかったな、なんてもごもご呟きながら。
おやすみのキス。おはようのキス。
さよならのキス。だいすきのキス。
口付けに親愛の情を求めるのは、恋人たちと、それから幼い子どもたち。
両親から向けられる愛情が永遠で確実であると信じ、躊躇いなくさしのべられる掌。
それが踏みにじられると思うはずもない。彼らは愛されている。そう信じることを禁ずる理由が、何処にあるだろうか。
(ああ。ないな。…確かにないのかも、しれないな)
口付けの元には信頼と、愛情が。
そう信じても悪くないのかもしれない。
「そうだ…。あのさ、ボッシュ」
並んで歩きながら、リュウが思い出したように、けれどとても大切なことだったんだそれはというように、こちらを眺めた。
「示されない親愛だって、あるんだよ」
それは、多分見えなかったのか。それとも見せられなかっただけで。
どこかに、こっそり隠れているものだよ。
あっそ、とそっぽを向く相棒に、リュウは微笑んで言う。
いつか見つけられるといいね。
――そう、幾度か、瞬きをしながら。
2003/10/13 (Mon.) 00:10:22 交換日記にて。
チャットで書きかけて、でもすぐに流したやつ。微妙に長いし、こんなもんチャットで書こうとするなよっていうか。