『少年リュウの、不可解で不条理な日常』
―――ペットを飼おうと思う。
出来れば、犬。
そして出来れば、番犬になってくれるような、そんな犬がいい。
主が帰ってきたら親しげに駆け寄ってくれるような。
招かれざる客が来たときには勇ましく吠えかかってくれるような。
そんな、犬を飼いたいと思った。
* * * * *
(今日は卵が安いな…)
リュウは新聞と一緒についてきた広告をチェックしながら、ソファに座った。
ぱちりとチャンネルをとってテレビをつければ、ニュースが始まる。
それをぼんやりと聞きながら、よく焼けたトーストを齧った。
……とある住宅街の、平凡な一戸建て。
数年前、両親が揃って交通事故で呆気なく逝ってしまって以来、リュウはここで一人暮らしをしている。
幸い、それなりの保険金はおりたし、両親が残してくれた家もあった。(ローンも返済済みだった)
当時卒業間近だった高校は、公立だったために親戚がぎりぎり何とかしてくれた。一年浪人して貯めた金と奨学金で、どうにか大学にも通っている。
ごくん、とトーストを飲み下し、牛乳を飲み干す。
ゴミ箱の上でと軽くパン屑をはたくと、リュウは部屋の奥にある仏壇の遺影を見つめ、小さく笑った。
「…いってきます」
アルバイトも始めていた頃だったし、保険もおりていたし。
当時はまだ未成年だったから、生活もある程度保障された。
元から勤勉で生真面目な性質だったから、奨学金だって問題なく許可された。
特に就きたい職業があるわけではないけど、生きていくために働いていく気概はある。
(ただし)
リュウは扉を閉めて鍵をかけ、クリーニングの袋をドアにぶら下げながらぼんやりと思う。
(ただし、どうしても慣れないものがあるんだ)
―――行ってきますと言ったら、行ってらっしゃいとかけられていた声。
―――ただいまと言ったら、お帰りなさいとかけられていた声。
『行ってらっしゃい。父さん、母さん』
笑って送り出して、呆気なく逝かれてしまった。
あの日の悲哀と、絶望と。
……そして、現在の孤独。
(…彼女でも作ろうかな)
リュウは鞄を抱えて嘆息した。
そう。有体に言ってしまえば、彼は今スキンシップに飢えていた。
精神的な面でも、肉体的な面でも。
大学の講義の帰りに寄ったスーパーで卵と、その他諸々の物品を購入した後。
……思わず、ペットショップの前で足を止めてしまうほどに。
* * * * *
(犬がいいな)
リュウはウィンドウの中でキャンキャンと吠える仔犬を見つめ、小さく微笑んだ。
生活の余裕が、それほどあるわけではないと分かっているのだが。
充分すぎるくらい、理解しているのだが。
「あ、いらっしゃいませ。…どのようなペットをお探しですか?」
自動ドアをくぐって入ったところで、にこりと愛想のいい少年に微笑まれ。
リュウはつい「あの…犬が……飼いたいんですけど」と答えてしまっていた。
リュウと同じくらいの年頃だろうか?
少年は「犬ですか」と少女めいた面差しをおっとり微笑ませ「ではこちらへ」とリュウを導く。
…出来れば、番犬になってくれるような、そんな犬がいい。
主が帰ってきたら親しげに駆け寄ってくれるような。
招かれざる客が来たときには勇ましく吠えかかってくれるような。
(そんな犬がいいな)
リュウは幸せな想像をして、心の中でそっと今月の予算の計算をする。
友達の数もほどほどで、大学生にしては殆ど遊び歩きもしないリュウの予算計算は、すぐに片がついた。
(うん…。食事のレベルをちょっと切り詰めて、バスじゃなくて歩きにして……今学期の講義は教科書を使わないものばかりだったから、その分もちょっと浮くし…。……どうにかなるかな…?)
これでは衝動買いだな、とリュウは内心ちょっと笑ってしまった。
それと同時に、自分はそれほど寂しかったのだろうかとも思い、苦いものも感じる。
「どのような犬を飼いたいと思ってらっしゃるんですか?」
「…え、……あ、えっと」
若干の苦々しさを感じていたところへ唐突に話しかけられ、リュウは思わずどもってしまった。少年はそんなリュウを不思議そうに見つめ「どうかされましたか?」と心配そうに声をかける。
その優しい声に、リュウは何となくホッとした。
(感じのいい店員さんだな)
もしかしたらアルバイトなのかもしれないが。
「いや…俺、一人暮らしなんです。だから、番犬とかに…なってくれそうな犬がいいかなって…」
リュウは照れ隠しに笑って、店員に説明した。
店員は「ペットを飼うのは初めてですか?」と柔らかく訊ねる。
「はい、初めてなんです。だから勝手が良くわからなくて…」
そうですか、と店員はリュウの答に微笑み、『愛犬コーナー』と書かれた一角へ入ろうとしていた足を止める。
「一人暮らし……ということは下宿でもなさってるんですか? お客様は学生さんかな、と思っていたんですけど」
そしてやんわりとした口調のまま、質問の方向を変えた。
環境もやっぱりペット選びと関係あるのかなと思い、リュウは特に違和感なく質問に答える。
「いや、普通の一戸建てなんです」
「え? でも…」
「……えっと」
不思議そうな店員に、リュウは「数年前、両親が亡くなりまして。それから一人暮らしなんです」と、なるべく何でもなさそうな口調で付け加えた。
店員は申し訳なさそうな表情になり「申し訳ありません。立ち入ったことを聞いてしまったみたいですね」と目を伏せる。
「いえ、いいんです」
リュウはかぶりを振って、笑ってみせた。
「その代わり、お勧めの子を紹介してもらえませんか。……俺でも飼えそうな、しっかりした犬を」
店員はリュウの言葉に親しげな笑みで返し「勿論ですよ」と応じた。
そして、ポケットから鍵を取り出すと。
「では、取って置きの子を紹介しましょう」
微笑んだまま、店の奥へと歩き出したのだった。
* * * * *
―――毛色は、金色。
「……あの」
リュウはぽかんと口を開けて、店員に案内された檻の中を眺める。
「綺麗な子でしょう。結構長くいるんですけどね」
「……いや、あの………。えっと……」
―――瞳の色は、碧色。
リュウは呆然と、部屋の中に座り込んでいる『彼』を見つめて、口をパクパクさせる。
店員はごく自然に微笑んでいて、とても冗談を言っているようには見えない。
何よりも、こんなタチの悪い冗談を言うような人間だと思いたくない。
『彼』は面白そうにそんなリュウを眺め、口の端をつりあげた。
「よかったら、少しスキンシップしてみますか?」
店員はにこやかにリュウの手を取り、『彼』の間近まで連れて行く。
「えっ…や、……あの、…え…とっ…?」
自分の頭がおかしくなったのか、それともこの店員がおかしいのか。
リュウはにこやかに―――金髪碧眼の、…間違いなく『人間』にしか見えない少年の元まで誘われ、呆然とした。
「その…俺は犬を……見せてもらいたいって言ったんですけど……」
「はい? 分かってますよ?」
店員はにこりと笑い、小首を傾げる。どうしたの? と言いたげな仕草だ。
「……それで…その……」
リュウは困惑したまま、目の前の少年を指差し―――「あの…」と呟く。
店員は「ああ」とにっこりした。
「ちょっとなりは大きいですけどね。噛み付いたり、爪を立てたりしませんから。大丈夫ですよ?」
微笑んだまま(リュウにとって)的外れなことを言われ、彼は途方に暮れた。
そこへ、ぴんぽーん、とベルの音が響く。
「あっ、…すみません、お客様。ちょっと席を外してもよろしいですか? どうやら別のお客様がいらっしゃったみたいで」
「えっ! いや、あの、ちょっと」
「すぐに戻りますので! よかったらその子とスキンシップ、とってみてください!」
店員は一方的にまくしたてると、ぱたぱたと駆け足で部屋から出て行こうとする。
リュウは慌てて「ちょっと待ってください! あの…!」と声をかけた。その声に、店員は「あ、そうか」と立ち止まり、にっこり笑って『彼』を指差した。
「彼は名前をボッシュと言うんです。随分長いこと店にいるので、もう名前もついちゃってて。よければ、呼んでみてください。返事もちゃんとしますから」
「え、いや、そうじゃなくてッ…!」
リュウは全然関係ないことを教えられ、思わず声を上げた。しかし、店員はあっさりと部屋を出て行ってしまう。
……リュウと、彼――ボッシュを、残したまま。
「……」
「……」
ボッシュはむっくりと立ち上がり、すたすたとリュウに向かって歩いてくる。
素肌の上にジャケット、下はジーンズ。……そして首には黒い首輪。
首輪以外はいたって普通の若者にしか見えない、…店員にペット候補として紹介されたはずのボッシュは、にっと唇をつりあげて、端正な顔に皮肉げな笑みを浮かべてみせた。
「…はじめまして、ゴシュジンサマ?」
そして、からかうような笑みを浮かべたまま―――あまりにも異常な事態に硬直しているリュウの唇を、ぺろりと舐めた。
「……ッ…!!?」
その突然の暴挙に、リュウは慌ててボッシュを押しのけ、大きく後ずさった。
「な、何するんだよ!」
その剣幕と、羞恥からか真っ赤に染まってしまった顔に、ボッシュはくつくつと笑ってみせる。
「イイ、リアクションするね、お前」
「…はあ!?」
リアクションも何もあったもんじゃない。
俺はこの店の連中にからかわれているんだ、とリュウは憤然となり「帰ります!」と律儀に声をかけて部屋を出ようとする。
しかし、ボッシュはその手首をつかまえ「なに、もう帰るの?」とニヤニヤ笑った。
「…帰るよ! こんな悪趣味な冗談に付き合ってられない!」
勢いよく怒鳴って手を振り払うと、片方の手に握ったままだったスーパーのビニール袋ががさがさと音を立てる。
「……冗談?」
ボッシュは肩をすくめて「何言ってんの、お前」と苦笑した。
「…何言ってって……そっちこそ、何言ってるんだよ! あんたはどう見ても犬じゃないし……、でもあの店員さんは犬だって言うし…! これが悪趣味な冗談じゃなくてなんなんだよ!」
「ああ、そのコト?」
激しい剣幕を気にした様子もなく、ボッシュは馴れ馴れしくリュウの肩に手を置いた。
「……冗談じゃないって言ったらどうする?」
そうして、リュウの顔を覗き込むようにして声を潜める。
「…! …何、言って…」
リュウは不意に顔を近づけられ、怯んだ様子で口ごもった。
ボッシュはまじまじとリュウの目を覗き込んで、……意地悪く、目尻を下げて笑う。
「だからさ。……あの店員がマジで俺のことを、お前に売ろうとしてるんだとしたらどうする?」
「……何だって…?」
そんなバカなことあるわけないだろと、リュウは踵を返そうとする。
しかしボッシュはしっかりとリュウの手首をつかんだまま、唐突に彼を床に引き倒した。
「わ…!?」
突然の行動に、リュウはなすすべもなく仰向けになって床に転がる。ぐしゃっ、とビニール袋も一緒に床へ転がり、折角の特売品が潰れてしまう音が聞こえた。
ボッシュは、そんなリュウの身体にまたがるようにしてのしかかり、息がかかるほど間近にまで顔を近づける。
そして、目を開けたまま。
「…んっ…!?」
……リュウの唇に自分のソレを、今度は実にゆっくりと重ね。
「ん……んーッ……んんんっ…ふッ…!」
じたばたと暴れる身体を押さえつけて、ねっとりと舌を絡め。
「……ぷはッ…、…ぁ…、い、いきなり……何するんだよ……!」
二度目の暴挙に声を荒げ、怒りのあまり顔を紅潮させるリュウを悠然と見下ろし。
―――彼はそのまま当然のように、リュウに告げた。
「お前さ…、結構イイね?」
ちゅ、とからかうように掴んだ手首に口付け、呆然としているリュウを笑って見つめて。
「俺のこと、飼わない?」
至極当たり前のように、そう言ってきたのだった。
パラレルスキー。