『少年リュウの、不可解で不条理な日常』



「へえ、結構いい家に住んでるんだな」

 ボッシュは、さながら家の主人であるかの如き堂々とした態度で玄関で靴を脱いだ。
「それはどうも」
 リュウは憮然としたままその声に応じ、ボッシュの後から続いて靴を脱ぐ。
(何で俺んちなのに、コイツの方が先に靴脱いでるんだろう…!)
 思わず感じてしまった疑問は、精神安定のため、あえて見ないフリ。
 今日からリュウの『飼い犬』になった黒い首輪の彼は、すたすたと迷いのない足取りで居間へ向かっていく。
「なあ、お前」
「……なに」
 極力無視しよう。そうだ、いないと思えばいいんだ、そうすれば……とブツブツ唱えていたリュウだったが、そのいない筈の存在に話しかけられ、早速決意を挫折させられる。
 ボッシュはソファに悠然と腰かけ、何気ない様子で新聞を手に取った。そして、ちらりとリュウを見上げ。
「そういえば。お前、名前は?」
「……」
 リュウは軽く眉を寄せた。
 一瞬無意味に躊躇ったが…結局素直に「リュウだよ」と答えてやる。
「ふーん…。…リュウ、ね…」
 ボッシュは名前の響きを味わうように、ゆっくりと彼の名前を口にした。
(……)
 その様子に、リュウは久しく―――この家の中で、自分のことを呼んだ者がいなかったのを思い出す。
 すっと視線を彷徨わせ、リュウはこみ上げてきた暖かさとか戸惑いとか……そんな複雑な感情をもてあました。
「…リュウ?」
 その様子を不審に思ったのか、ボッシュが首をかしげて彼を見上げてきた。
「……なんでもないよ」
 リュウは一回瞬きをしてから目を伏せて、ふい、と視線をそらす。
 ボッシュは、ふん、と不満げに鼻を鳴らした。
「呼べよ」
「……は?」
 そうして言われた唐突な言葉に、リュウはそっと眉を寄せる。
 ボッシュはややきつめの眼光でリュウを睨み上げ、もう一度告げた。
「俺の名前、呼べって言ってんの」
「……。……何で」
 リュウは困惑して瞬き、ボッシュを見やる。
「俺はお前の名前を呼んだろ? …なのに、お前が俺の名前を呼ばないのはむかつく」
 彼は甚だ勝手な論理を掲げて、リュウを睨んだ。
「……呼べ」
 その、物慣れた命令口調。
 それに反発するものを感じながらも……これ以上問答することが面倒だったので、リュウは小さく吐息すると。
「わかったよ。…ボッシュ」
 肩をすくめて「これでいい?」と彼の名を呼んだ。
 ボッシュはそれににやり、と笑う。そしてそのままソファの背もたれから身を乗り出し、リュウの手首を軽々とつかまえると。
「……つっ…!」
 ぐいっと引き寄せ、たたらを踏むリュウをやすやすと腕の中に捕まえる。
 ちゅ、と額に軽く触れた感触は、先ほどあの因縁のペットショップで味合わされた彼の唇か。
「ッ…!」
 ばっ、と顔をあげ、ボッシュの手を振り払おうとするリュウ。その顎をつい、と指で持ち上げ、ボッシュは目を細める。
「そう目くじら立てるなよ。…軽いスキンシップだろ?」
「そんな不愉快になるようなスキンシップはお断りだ…!」
 リュウはきつく眉を寄せて体勢を立て直し、キッチンに向かった。
 その背中に向けて、ボッシュは更にからかうような言葉を投げた。
「残り一週間…。仲良くやろうぜ、相棒?」
 ……くつくつと。
 喉の奥で笑うような音を立てながら。

*     *     *     *      *

「どうですか? ボッシュは」
 笑顔で戻ってきた店員は、床に押し倒された挙句、おぞましいスキンシップを迫られているリュウを見て「おや」と首を傾げた。
「もうこんなに仲良くなって……!」
「違うッ!!」
 リュウは激しくその言葉を全否定し、ボッシュをぐいぐい押しのけて立ち上がろうとする。しかし、ボッシュはそんなリュウの抵抗をやすやすと押さえ込み、再び床へと押し倒す。
「だから無駄だって。…とっとと諦めろよ?」
 くつくつ笑いながら、店員の視線にも構わずリュウの身体を撫で回すボッシュ。
 この恐ろしく破廉恥な状況に、リュウは我も彼もなく絶叫してしまいそうになる。
「随分と懐かれましたね〜。…どうです、よければこの子を飼われては?」
「なっ…! 冗談ッ…! こんなセクハラ野郎、ゴメンだっ!」
「……セクハラって…」
 店員は暖かく微笑んで二人(というか一人と一匹)を見下ろした。
「スキンシップをとろうとしているだけですよ? ボッシュは貴方のことがとても気に入ったみたいですね。彼がこんなに人に懐くのを見るのは初めてですよ」
「スキンシップって…ッ!」
 リュウは思わず絶句した。
 彼はどこまで本気なのだろうか。
 ……彼にはどこまで、自分と同じものが見えているのだろうか?
 呆然としながら、リュウは腹の上でくつくつ笑うボッシュの気配を感じていた。
「……あの、お客様?」
 店員は「しょうがないな」とでも言いたげな優しい表情でリュウを眺めやる。
「なんでしたら、お試し期間……というのもあるんですが」
 ―――ボッシュは嫌がらせのように、リュウにしがみついたまま離れない。
 ―――店員はそんな彼らを、ただ微笑ましげに眺めるだけで救いは訪れそうにない。
(……打開策は……これだけ?)
 リュウは内心はらはらと涙を流しながら、最後の選択を行った。
「お試しって……どのくらいなんですか…?」
 リュウの力ない言葉に、にっこり笑って算盤を取り出す店員と、にやりと笑ってリュウの顎を持ち上げるボッシュ。
 ……ここは新手の美人局なんだろうか。
 とうとう敗北宣言をしてしまったリュウの脳裏に浮かぶことといえば……そんな、埒もないことばかりだった。

*     *     *     *      *

(うわぁっ…! 思い出しても……思い出しても不快感がッ……!!)
 リュウはだんだんだんとたくあんを輪切りにしていきながら、眉をきつくきつく寄せる。
 今日の夕飯は当初カレーライスにしようかと思っていたのだが、ボッシュのリクエスト「肉が食いたい」の一言であっさりそれは覆された。
 本日の夕飯はカツ丼だ。(お手軽肉料理ということで)
(……今日は新しいカレーのルーを試してみようかと思ってたのに……!)
 一人暮らしのささやかな楽しみというやつである。
 リュウは「こくまろカレー」のルーを泣く泣く台所の引き出しにしまい、切なさいっぱいになりながら、どうにか回収できた特売品の卵をかき混ぜる。
「メシ、まだ?」
 そこへ、ボッシュがぬっと唐突に顔を突き出し、そのままリュウの肩に顎を乗せた。
「ま…っ、まだだよ…!」
 頬にかかる息にびくっと首筋を震わせ、リュウは憮然と返答する。
「……遅い」
 ボッシュはぼそりと低音で呟き、リュウの腰をぐいっとかき抱いた。
「わっ…! ちょ、ボッシュ…!?」
 一体なんなんだ、こいつは!
 リュウは包丁を持ったままバランスを崩しかけ、どうにか留まる。
「……危ないだろ? やめてよ…」
 ぎゅう、と抱きしめられた体勢のまま、リュウは努めて冷静な口調で応じた。
 今日会ったばかりの、正体不明の青年。
 人だか、犬だか、それともそれ以外のモノなのか、それすらも分からない謎の人。
(でも、これだけは断言できる……!)
 リュウはわさわさと身体を撫で回されながら、確信した。
(こいつは……俺をからかって楽しんでやがるんだ……!)
 もう嫌だもう嫌だ。こいつホントすぐに返品したい。
 眉を寄せ、包丁を握りしめながらそんなことを考えているリュウ。
 そんなことは露知らず、ボッシュはさながら懐くという表現ぴったりにリュウの腰に腕を回し、肩に顎を乗せて手元を見下ろしてくる。
「なに、コレ」
「たくあん。…カツ丼といったら漬物だろ」
「肉は?」
「もう上の具は出来たよ。…だから、もう少し待ってて」
 ……リュウは、極力他人を家に上げないようにしている。
 家族と過ごした場所に立ち入ってもらいたくないとか、そんなセンチメンタルな理由では、きっとない。
 ただ単に、他者と長いこと同じ空間を共有することが苦手なのだ。
(神経質なのかも)
 リュウはなかなか離れてくれないボッシュに眉を寄せ、包丁をまな板に下ろす。
「いいから離れて。……居間で待っててってば」
(―――それでも、俺は寂しさには耐えられなかった)
 リュウは自嘲気味に目を細め、意味もなくたくあんを見下ろした。 
(神経質でも、一人が好きでも。…限度があるよ)
 抱きついたままのボッシュが、不審そうに「リュウ」と呼ぶ。
 誰もいない部屋の孤独。
 誰も迎えない家の孤独。
 ……ありえない飼い犬を、一週間だけという条件付で引き取ってしまったのは何故か。
 ……神経質で、人付き合いが嫌いな筈なのに、これだけ接触を許してしまっているのは何故なのか。
 ぎゅうと抱きしめられたぬくもりに、うかうかと縋ってしまいそうになる。
「……料理作れない。邪魔。……もういいだろ。…はなれて」
 リュウは自分の弱さに苦笑し、努めて冷ややかな物言いでボッシュに再度告げた。
 やっぱり明日、この犬(なのか何なのか。未だ不明)を店に返そう。そして、他のまともな犬を見せてもらおう。
 小さな犬でもいい。世話を焼いているうちに、きっと寂しさも紛れる。
 ……こんな、人の形をした『犬』では、切なさと虚しさが増すばかりだ。
「なに。…生意気にもお預け、とか言うつもりかよ」
 ボッシュは憮然とリュウの答に眉を寄せ、ぐいっとリュウの顎を掴んで自分の方へ向けた。
「お預けって…」
 彼の瞳は強い碧だ。
 …リュウは、その自分以外の誰かと、……この孤独に満ちた家の中で見詰め合っていることが耐えがたく、思わず目をそらした。
 ボッシュは目をそらしたリュウの顎を引き寄せ、そのまま軽く口付ける。
 リュウはびくりと身体を強張らせるが、もはや諦めかけているのか特別派手な反応は返さない。
「離れて、とか言いながらさ」
 ボッシュは、そんなリュウをまっすぐに見つめる。
 ……碧の、知性と悪意の混在した眼差しで、見つめる。
「お前、その言い方じゃ全然『離れて』って思ってるように聞こえないけど?」
 笑いながら、からかうようにリュウの口の端をなぞる。
「そんなの……。……なんで今日会ったばかりのあんたに……」
「…名前呼べって」
 かさり。
 ……少し乾いた唇の上を、ボッシュの指が這った。
 それにぞくんとしながら、リュウは「ボッシュに」と精一杯嫌味をこめて言い直し、ようやく碧の目と視線を合わせる。
「…どうして今日会ったばかりのボッシュに、分かるんだよ? 俺は邪魔だから、居間に戻ってって言ってるだけ。…離せよ。……それから、この際言っておくけど」
 そしてぐい、と腕を引き剥がし、瞳に力を込めてボッシュを睨んだ。
「俺はゲイじゃないから。あまり、変にべたべたしないでくれるかな?」
 それは、リュウの精一杯の虚勢だった。
 地面に線を引いて、その内側にこもる。
(どうかここから中に入ってこないで)
 そんな、幼く脆い虚勢。
(どうかこの先に気づかないで)
 それは、誰にも触れてほしくなかった、彼の寂しさ。
 ……もしも触れるものがあるとしたら。そう、何も知らぬ、分からぬような動物がいいと思った。
 餌を与えて、散歩に行って、排泄物の始末をして。
 ……喋らず、声を交わすことなく。自分以外の生き物として、リュウの孤独をただ癒すためのものとして。
「…さわらないで」
 ―――もしかしたら、声は震えてしまっていたかもしれない。
 リュウは拒絶の意思を示すように、彼と自身の間で、自分を守るように腕を組んだ。
「……あっち、いってくれよ」
 軽く視線は下へ。
 ただ、床を。そして地面を。ただただ地中を眺め、リュウは呟く。
 ……失うことを知ったから、得ることが恐ろしい。
 だから。
 いっそ無造作といってもよいほどに、そして多分に勝手な好意を押し付けるこの男は。
(……危険だ)
 そう。とても、危険なのだ。
(……今のうちに、離れて)
 もはや、この脆弱な心は、近しい者の喪失に耐えられない。
 ただただ日常をやり過ごすだけでは、とても――…耐えられない。
「……」
 ボッシュは軽く肩をすくめたようだった。
 俯いたままの視界にそれが入ってきて、リュウは軽く眉を寄せる。
「……話、聞いてないの? いいから出てって」
「ハァ? 何でだよ」
「…何でって」
 リュウはボッシュのあんまりな返答に、思わずちら、と顔を上げてしまった。
 ……ちらり、と目を上げたそこに、ボッシュの碧色の瞳がある。
「…何で、俺がお前の命令なんて聞かなきゃいけないの?」
 ボッシュは、いっそ優しいくらいの口ぶりでそう言った。そして、苦笑混じりにくすりと笑う。
「……何、そんなに怯えてんの?」
 そうして放たれた言葉と同時、彼はそのままやすやすとリュウの手首を掴んだ。
 そのまま彼の腕を身体から引き剥がし、彼とボッシュの間にあった壁を一枚取り外す。
「やっ…! な……いきなり、何を…」
 リュウが顔をしかめて小さく呻くが、ボッシュはおかまいなしにその手をねじって、背後の壁に押し付けた。
「……あの檻の中から、外を見てたらさ」
 だん、と強い音。
 その音とは裏腹に、とても優しい声音。
 ボッシュは笑ったまま、強張ったリュウの顔に顔を近づけ、追い詰めるようにして囁く。
「お前が、ドアを開けて入ってきた」
「……ッ…! だから……なんだって……?」
 きつく、力をこめられた手に抗おうとしても、なかなか振り解けない。
 彼と我との力の差を改めて思い知り、リュウは今更のように青ざめた。
 家には、当然二人しかいない。……どこにも、助けはないのだ。
 ボッシュはにやにやと続ける。
 ……まるで、肉食の獣が捕らえた獲物をねっとりと舐め上げ、嬲るかのように。
「俺にはさ。…お前が、檻に入って、俺のことを怯えた目で見てるように見えたんだよ?」
 微笑みながら、……とても優しい口調で。
 その言葉に、リュウの顔が強張る。
「……やけに綺麗な青い目、してさ。……喰らって、引きちぎってやりたくなるような、細い腕して」
 ―――頬をなぞる。
 ―――唇をなぞる。
 ―――耳に触れる。
 ……そしてゆっくりと肩に手を這わせ。

「アア、こいつは俺の獲物だって。……そう思ったんだよ」

 とても嬉しそうに目を細め。
 ―――残忍に、笑った。

 リュウの……、孤独も、不安も、戸惑いも。
 安らぎも、平穏も、何もかもを。
 全てを喰らいつくさんとするかの如き。
 残忍で、残酷で、……とてもとても強い笑み。

「……ボッシュ…?」

 リュウは怯えたように目を泳がせ、とられた掌を動かした。
 ……ボッシュはその頬をぺろりと舐め上げ、くつくつと笑う。

「もうお預けは飽きたよ、相棒?」

 さあ、どうか私の飢えを満たしておくれ、と。

 黒い首輪の彼は、至極楽しそうに笑って、リュウの唇を舐めた。
 そして、その舌をたっぷりと味わうために、唇を開けて……彼の飼い主の唇の中へと、己が舌を差し入れる。


 ――――そして、リュウの世界は反転した。

*     *     *     *      *

 ……とりあえず、この少年。リュウの、不可解で不条理な『出会い』の一日は、ここで終了することとなる。
 二人が食す筈だったカツ丼も、リュウが今夜見るはずだったドラマも、全ては翌日以降に持ち越しだ。

 次の日、リュウは大学を休んだ。

 そのわけを知っているのも、原因を作ったのも、この不可解と不条理の大元に存在する彼の人だったりするのだが。

(――…父さん、母さん。……俺はとんでもない犬を飼い始めてしまいました)

 そっと布団を涙で濡らして、リュウは仏壇と遺影を仰いだ。
 ……両親は、ただ暖かく微笑んでいるだけだった。

END






エロシーンはいつになったら書くんだ私。