『誓言』
…抜けるような、美しい青空。
さんざめく日の光が、木々の間をすり抜けて優しい眼差しを注ぐ。
まるで夢のように美しい、…裂け谷の一角。
美しく保たれた中庭の大樹に寄りかかったまま、フロドはゆっくりと手のひらを開いた。
――何の変哲も無い、ごく平凡なホビットの手のひらだ。
ただ、少しばかり裕福な家で育ったせいもあって、その手のひらは畑仕事の手荒れもなく、とても綺麗に保たれている。
彼はその手のひらをしみじみと眺め、ため息をついた。
……ブリー村でストライダーと呼ばれていた高潔な剣士、アラゴルン。
彼がかつて冥王サウロンと剣を交えたという、王子イシルドゥアの末裔であると確かに知ったのは、この谷に着いてからのこと。
端麗なエルフ語を巧みに操り、その剣技は言うまでもなく達者で、人格も高潔なストライダー。何度となく命を救われたフロドは、実際、いくら感謝してもし足りないほどである。
「…傷だらけだったな。彼の手のひらは」
フロドは、そのまま手のひらを日の光に透かして……ふと思い出したように呟いた。
…戦いの中で負ったのだろう細かい傷は言うまでも無く。
幾度も幾度も剣を振るったのだろうと思われる手のひらの表面は、とても固くなっているようで。
畑で鍬を振るう農家の人々とはまた違う、手のひらの鍛えられ方。
剣を振るい、弱い者たちを守る人々。
――光を僅かに透かす色白で綺麗な手のひらを見つめ、フロドは小さく息をついた。
「何だか情けないなあ」
傷ついたことのない手のひら。
守られるばかりの手のひら。
それは何かの象徴のようで、何だかひどく切なくなってしまう。
『指輪を守るのだぞ、フロド』
そう、自分に告げたガンダルフの言葉を思い出す。
…確かに、フロドはこの裂け谷まで指輪を届けることが出来た。…しかし。
(もしもアラゴルンが助けてくれなかったら、…僕は決してこの谷まで指輪を届けることが出来なかっただろう)
……指輪の誘惑に負け、ナズグルの目前で指にはめてしまったあのとき。
ナズグルの剣で肩口を突き刺され、倒れてしまったとき。
あのときに、もしもアラゴルンがいなかったどうなっていただろうか?
考えるまでもないと、フロドは苦笑する。
……きっと自分はその場で、ナズグルたちと同様の指輪の幽鬼にされていたことだろう。
そして指輪は、かの冥王の手に渡り……世界は闇に包まれていたことだろう。
「……本当に僕でいいのかな?」
フロドはそう独りごちた。
…昨日に行われた会議の中で定められた、指輪を護衛し――モルドールの火口まで持っていかねばならない者。
それは紆余曲折の末、……フロドとなったのだが。
―――守られるばかりの手のひら。
―――守ることの出来ない手のひら。
「いいのかな…?」
…いいのかなも何も、もはや既に決まってしまったことだ。
それでもフロドはそう呟いてしまう自分を止められない。
人間。…大きいひとたち。
エルフ。…美しいひとたち。
ドワーフ。…器用なひとたち。
それぞれに強くて、賢いひとたちがこんなにもいるのに、何故こんなにちっぽけで頼りない自分が行く必要があるのか?
(…単に怖気づいているだけなのかしら)
徒然なるままに思考を続ける脳に苦笑し、フロドは手のひらを地面に下ろした。
「……どうかしたのか、フロド?」
そこへ、唐突に……低い声が耳元で響く。
フロドは思わずびくんっと跳び上がって、いつの間にか自分が寄りかかっていた木の真後ろに立っていた『大きいひと』…アラゴルンに目を見張る。
「い、一体いつからそこに!?」
驚きのあまり、素っ頓狂な声も飛び出してしまう。
アラゴルンはその声に苦笑し「どうやら驚かせてしまったようだな」と身を引きかけていたフロドの手のひらを軽く握った。
……そして、ふっと真面目な表情になると。
「君で、いいのだよ」
膝をつき――昨日の会議でもそうしたように、アラゴルンは立ち上がったフロドの手のひらをとって、真っ直ぐに彼を見つめた。
「…聞いてたんですね」
フロドは観念したように苦笑し、アラゴルンの真摯な眼差しに気圧されたように目を伏せる。
「ああ、聞いていた。…私は、あの席でなくとも……かの指輪を持ち、東の方の国まで届けることが出来るのは、君だけだったろうと考えている」
「…そんなことは」
フロドは戸惑いを隠せずに俯いた。
しかしアラゴルンの目はどこまでも真っ直ぐに、まるでフロドの心中をも見透かすように見つめてくる。
「君は、恐らく君自身がそう思っている以上に、強くて……高潔なひとだよ」
アラゴルンは、片時も視線を外さずにそう告げ…にこりと笑った。
「恐れることはない。…私は、私の力が及ぶ限り……この剣が及ぶ限り、君を守り続けよう。かの東の方、モルドールの火口まで君を送り届けよう」
「…アラゴルン」
フロドは目を伏せて、ひどく申し訳なさそうに眉を寄せる。
「僕は…貴方に守られてばかりで。それがとても……情けないのです」
「……」
アラゴルンは、そのフロドの言葉に、ふっと口元を和ませた。
「……それを気にしていたのか?」
「そりゃあ…気にしますよ…! ……命をかけて守るなんて言われたら、…尚更辛くもなります」
フロドは目を伏せたまま、顔を上げない。
アラゴルンは、その様子にそっと微笑み…、ゆっくりと立ち上がった。
小さなひとと、大きなひと。
その差は、立ち上がると実に如実に現れる。
大人と子供の差というくらいに、明らかな違いである。
「私は剣を振るうことが出来る。…そうして、君を守ることが出来る」
「…そう。アラゴルンの手のひらは、誰かを守ることの出来る手のひらです。僕のものとは違う」
アラゴルンは、フロドのその言葉に苦笑した。
「そんな言い方をするものではないよ、フロド」
「……すみません。…自分の無力さが……悔しくて」
フロドは俯いたまま、大きいひとが優しく頭に触れてくれる感触に身をゆだねる。
「…いや、君は決して無力ではないよ」
しかし、アラゴルンは静かにフロドの言葉を否定した。
「……」
フロドは戸惑ったようにアラゴルンを見つめ、自分の手のひらをちらりと見つめる。
「君の手のひらは、全てを受け止めてくれる手のひらなのだから」
アラゴルンはその視線に少し笑って……とても眩しそうに、フロドの手のひらを見つめて告げた。
「…全てを、……受け止める?」
フロドは、目を瞬かせて聞き返した。
「…ああ。君の手は、…まっさらな、何も知らない手のひらだ。…穢れのない、とでも言おうか」
「……それは少し言いすぎでしょう」
少しばかり居心地が悪そうに、フロドは俯く。しかし、アラゴルンはそれにかまわず続けた。
「私のように、何かを傷つけることしか出来ない手のひらのことも、サムのように何かを生み出すことの出来る手のひらのことも受け入れることが出来る。…誰かを優しく包み込むことができる、とても暖かい手のひらだよ」
「……」
フロドは頬を赤らめて、すっかり俯いてしまっている。アラゴルンはその様子にまた苦笑して…彼と目線を合わせるために、再び膝をついた。
そして、昨日と同じく……彼はそのまま騎士の誓いをするかの如く頭を垂れ、言葉を紡いだ。
「指輪を守り抜く使命を帯びた――小さき人よ。私は君を守るために、身命を賭すことすら辞さないと……改めて、今ここで、この剣に誓おう」
その、真摯な誓いに――フロドは、取られた手のひらに思わず力を込めた。
「僕も……」
そして、アラゴルンの誓いの言葉に胸をうたれたように目を閉じて、言葉を紡ぐ。
「僕も誓いましょう。…貴方の誓いに報いるために――、必ず、この指輪を葬ると。……この命を懸けて」
彼はそこで、ふと言葉を止めた。
だが、すぐにまた…言葉を紡ぎ直した。
「……貴方に、誓いましょう。……僕の手のひらが、全てを受け入れる手のひらだと言ってくれた貴方に。……僕を信じてくれた、貴方に」
アラゴルンはその言葉に驚いたように目を見張り……フロドは、そっとはにかんだように微笑んだ。
さやさやと木々が風に揺れ、さやかな葉擦れの音が響く午後。
忘れられし王の末裔と小さな指輪所持者は、密やかに誓いを交わす。
――――…どうか、世界が救えますように。
誓いの言葉を紡ぎながら、彼らは同時に祈りを紡いだ。
祈る先は、……自分自身とお互いのみ。
貴方が信じてくれた、私のことを信じて。
私が信じることの出来た、貴方のことを信じて。
彼らは祈りにも似た誓いを交わした。
何よりも強く……そして、清廉な。
――――誓いの言葉を。
END
また唐突に指輪です……;;
今度はわりと映画風味に。(ストライダーで、フロドが「僕」とか言ってるので…)
結構ありきたりのネタなので、もしかしたらかぶってるかもですが……そのときはそっと見逃してやってください…。
……い、一応……アラフロ……のはずです;;