『食欲』


 ―――出会いは、怪しげなペットショップ。
 退屈な檻の中で座り込んでいるところに飛び込んできた、彼の獲物。 


 ああ、捕まえなくてはいけないと思った。

 ああ、爪を立てなくてはいけないと思った。

 ああ、牙を立てなくてはいけないと思った。


 何故ならば、あれは彼の獲物だからだ。
 …彼がとらえ、爪で地面に押さえつけ、牙を立ててその肉を屠るべき。
 脆弱な、けれど瑞々しい彼の糧。


(アレは、俺の獲物)

 ……今も。ほらすぐ目の前で。

(俺が見つけ、捕らえた獲物)

 ……無防備に、首筋を晒して。

(肉は暖かく、血は甘い)


 彼がやすやすと手を、爪を伸ばせる場所で。
 当たり前のように、座っている。


*     *     *     *      *

「…細い首」
「……ッ…!」
 ―――リュウは唐突にかけられた声と、伸ばされた指に首筋をなぞられ、背筋を強張らせた。
「…な、なに、一体…!」 
 引きつった顔でそのまま振り向けば、そこでは、彼の『飼い犬』がニヤニヤと笑っている。
「……別に? ただ、細い首だって」
 言っただけ。
 そう呟きながら、彼は。…ボッシュは、まだ楽しげにリュウの首筋に手を伸ばした。
「ちょっ…、は、はなしてくれってば。…別に普通の首だよ」
 リュウは困惑したように、良くわからないことを呟く。そして呟いてから(普通の首ってなんだろう)と自分で首を傾げた。
 その様子をボッシュは興味深げに見やり、ふっと小さく笑う。
 小馬鹿にしたようにとれなくもない、その笑い。
 リュウはむっと眦をつり上げて、ボッシュを軽く睨む。
「…なんだよ…。その笑い方」
「なにって。…つっかかるなよ」
 くく、と笑って、ボッシュは主人の体を抱き寄せた。
 甘えるようにとれなくもないその仕草は、まるで大型犬が主にじゃれつくかのようなそれ。
 リュウはそれを諦めたように受け入れながら、軽く目を彷徨わせた。
 その少し困ったような表情に、ボッシュは片頬を歪める。
 それから、その頬をちろりと赤い舌でなぞった。
「…ひゃッ…」
 突然の感触にリュウが素っ頓狂な声をあげる。…それが可笑しいのか、ボッシュはまたくつくつと笑った。
 そしていかにも嬉しそうにその首筋に指を伸ばして。

 ―――とくとくと震える、その喉元に。

 …ゆっくりと、爪先を這わせた。


*     *     *     *      *

(今、ほんの少しでも)

 この指先に、力を込めれば。

(ぽきりと)

 ひどく、簡単に摘んでしまえそうで。

 困ったような顔をして、とくとくと震える命の管を彼に預ける。
 …愚かしい、彼の可愛い獲物。
 彼は小さく笑った。
 ……彼の獲物がひどくいとおしく思えて、笑ったのだ。

「いいの?」
「…? 何が?」

 彼の問いかけに、獲物は首を傾げる。
 その疑問には応えず、彼はただ。…その眼差しを、見下ろすだけ。

(そんなカオしてると、喰っちゃうよ)

 そんなことを思いながら。…見下ろすだけ。

「…よくわかんないけど。…よくない」

 彼の獲物は顔をしかめて、そう呟いた。
 なんともいえない、微妙な顔つきで。
「よくわかんないくせに、否定すんの」
「…よくわかんないからだよ。…ねえ、手、離してよ。おれ、レポートの途中なんだけど」
 今度は憮然とした顔になった相手に、彼は今度こそはっきりと笑う。
 …愚かしい獲物を見下ろす目つきで、はっきりと笑う。
「そんなこと。やらなくたって、別に死なないだろ?」
 抱き寄せた腕に力を。
 …指先に、爪に、力を込めて。
「ちょ…。そんな…馬鹿みたいな極論に付き合ってられないって…ちょっと…!」
「駄目」
「だ、駄目じゃなッ…違う、おれが駄目…、ば、ばかっ! どこさわってッ…」

 ああ、なんて愚かな獲物。
 この爪に。牙に。腕に。…力を込めれば。
 逆らえる筈なんて、ないのに。

 彼はその首筋に舌を這わせ、肩の根元に、唇を押し当てた。

 とくとくと流れるのは、命の音。

 …狂おしく甘い、命の音。


*     *     *     *      *

「あんま逆らうと、さ」

 首筋に顔を埋めた飼い犬の囁きに、リュウはびくっと身を捩った。
 ボッシュは、相変わらずニヤニヤしているような。…そんな声の調子で、続ける。

「喰っちゃうよ。おまえ」

 いかにも楽しそうに、そう続けるのだ。

「……」

 リュウがまた困惑して押し黙ると、ボッシュは明るく、こうも付け加える。

「安心しろよ。ちゃんと骨も残さず、喰べてやるから」

 リュウは更に困惑して、恐る恐る、背中にへばりついている飼い犬を見つめた。
 ……碧色の、ボッシュの眼差しがこちらを見て、笑う。
 
「なに? …ゴシュジンサマ」

 からかうように、にいっと細められたその目に。
 …リュウは何故か、飢えた狼の前にでんと置かれた骨付き肉になったような心境で。

「…おれの家、一応仏教徒だからさ」

 困惑したまま、ことんとボッシュの腕に体をもたれさせると。

「………骨は残して、ちゃんと火葬にしてほしいな」

 ――――そんなことを呟いて、軽く目を閉じる。
 ……ボッシュは是とも否とも応えず、ただその体を絡めとるように、抱きしめた。


*     *     *     *      *

 ―――出会いは、怪しげなペットショップ。
 退屈な檻の中で座り込んでいるところに飛び込んできた、彼の獲物。 


 ああ、捕まえなくてはいけないと思った。

 ああ、爪を立てなくてはいけないと思った。

 ああ、牙を立てなくてはいけないと思った。


 何故ならば、あれは彼の獲物だからだ。
 …彼がとらえ、爪で地面に押さえつけ、牙を立ててその肉を屠るべき。
 脆弱な、けれど瑞々しい彼の糧。

(アレは、俺の獲物)

 ……今も。ほらすぐ目の前で。

(俺が見つけ、捕らえた獲物)

 ……無防備に、首筋を晒して。

(肉は暖かく、血は甘い)


 ―――彼の作った檻の中、ぼんやりと座っている。

 困ったような顔で。
 逃げなくてはならないことも知らないで。


(喰っちまおうか)


 細い首筋を片手で掴んで。 
 …彼は、ゆっくりと舌なめずりした。

END.











食欲。

食っちまえ。
そんなボッシュも好きだなあ。(リュウは)