『そばにいたよ』




 伸ばす掌は、届かない。
 何にも。

 つかめるものは何一つない。

 ただの暗がり。
 闇雲に手を伸ばして。
 それで何が持てるというのか。

 それで何が、得られるというのか。
 

「それでも君は手を伸ばすんだろうね」


 ぼんやりと見上げた先は、ひどく暗い。
 手を伸ばすことも恐ろしい。

 子どものときからの癖。
 眠るときは、ベッドから手を出すことが出来ない。
 うかうかと手を出したら、何か、恐ろしいものにとらえられてしまいそうで。

 …誰も。何も、そこにはいないのに。

 最近になって、闇の中に何かがいることが恐ろしいのではないと、やっと気づいた。

 何もないのが、恐ろしいのだ。

 気づかないうちは、夢を見ていられる。

 気づいてしまったらもう。

 
「じゃあ、おれは。もう、手を伸ばさないのかな」 


 自問と自答。

 闇に伸ばす掌は、まっすぐ暗がりにのまれて。

 そこには何もない。
 誰もいない。

 君の手もない。君の背中もない。


「……そうだね。違う」


 小さく笑う声は、さしこむ光にかき消された。

 闇が溶けて消える。もうそこには何もない。

 何もいない。

 
「それでもおれは、手を伸ばすんだ」


 ただの空白へ手を伸ばして、低く笑った。

 涙なんて、出ない。
 ない。

 君は、もういない。
 ない。

 暗闇には、何もない。
 ない。


 それでも。


 何一つ掴むものがなくても、手を伸ばさずにはいられない。
 
 それは愚かなことだ。
 そして哀しいことだ。


「もう。…君はいないのに。ね」

 
 呟いた言葉は、ひどく湿っていた。

 ああ、この言葉こそが涙だと唐突に思う。


 このことばこそ。


 …ああ。きみは、そばにいたのに。
 そしておれもそばにいたのに。


 それが今、ひどく切なくて。ひどく哀しくて。


 それでも、何一つ、後悔はしていないのだ。








2003/11/03 表日記にて
後悔と、哀しいということは別。再び過去に戻って選択を迫られれば、きっとリュウは同じものを選ぶ。それが少し哀しい。