『掌』




 血の匂いってヤツは、なかなかとれてくれない。

 一生懸命ゴシゴシ擦って、川の水で流して、何度も擦って、ゴシゴシ擦って。

 それでも、何故か鼻につくように感じる、血の匂い。

 ああ、何でなんだろう。
 何でまだ、消えてない気がするんだろう。

 おまえは気づくだろうか。
 おれの掌が、冷たく熱い血にまみれていたということに、気づくだろうか。

 おれの掌が、つい先刻人を殺したということに。


 ……気づくだろうか。


*     *     *     *      *

「よ。…何。朝から景気悪い顔しちゃって、マア」
「景気悪いっていうか…」
 藤吉郎は、井戸から汲み上げたばかりの水で手と顔を丁寧に洗いつつ、背後から声をかけてきた知り合いに返事をした。
「単なる寝不足だよ…。…昨日、全然、寝つけなくてさ…」
 言いながら、ふぁあと小さく欠伸。
 ふうんそりゃあ災難だなあ、と笑いながら、五右衛門は冷たい井戸の水に掌を浸す藤吉郎を、じつと見つめる。
 背を向けている藤吉郎には分からないところで、彼をただ、じつと見つめる。
「…なに? 五右衛門こそ、どうしたんだよ?」
 その視線に居心地の悪いものでも感じたのだろうか。
 藤吉郎が、振り向かないままにそう訊ねた。
 ばしゃりと、また水を顔にかけながら。
「んーんん。別に。…何となく」
 五右衛門はいつもの軽い調子で笑いかけてから、ふとやめて。
 指先だけを、そっと、藤吉郎が掌を浸している水に、触れさせる。
「…何となく、さ」
 続く言葉はない。
 曖昧に濁すように、五右衛門は苦笑した。
 藤吉郎はその指先を、水の中で軽くつかまえる。
「…何となくかあ」
「そ。何となく」
「じゃあ、このまま何となく朝食でも食べてく? 蜂須賀のとこと比べると、粗末なものしか出せないだろうけど」
 つかまえた指先を確かめるようにそっと撫でつつ、藤吉郎は軽く笑った。
「ま、妥協されてやるよ。腹が減ったときは何食っても美味いし。贅沢なんて言ってられません」
「うわ、そういうこと言うんだ。おれの料理ってそんななにひどい?」
「そんなにひどくはないけど、よくもないよなあ」
「微妙だねえ」
「そうそう。とっても微妙なの」
 じゃれるみたいに言葉をかわして、指先が痺れるくらい、冷たい水の中。
 そっと、二人で手を繋いで。


 生まれた時代を悔やんでいるわけではない。

 選んだ生業を悔やんでいるわけでもない。


 ただ、時折こういった時間が必要なのは、確かなことで。


 五右衛門は「何となく」ともう一度呟いて、ことんと額を藤吉郎の薄い背中に押し付けた。
 藤吉郎は何も言わず、つかまえた五右衛門の指先をきつく掴んで、桶の中に深く引きずり込んだ。


 血の匂いは、きっとまだ消えてないだろうのだと思う。

 皮が破れるほどに擦り、洗った掌から、未だ立ち上る鉄の匂い。

 人の命の、名残。


 そんなものを体に残したまま、早朝に訪れる忍びを。
 …腑抜けたようにぼんやりしている忍びを。
 黙って許容してくれる、彼。
 

「そろそろ、朝食の支度をしようか」


 冷たい水桶から掌を一緒に引き出して、笑う藤吉郎。
 ゆっくりと振り返って、そのままくい、と掌を引く。


「手伝ってよ、五右衛門」


 その言葉に忍びはただ笑って、応よと小さく呟いた。


*     *     *     *      *

 血の匂いは、消えただろうか。

 おまえは、おれが人を殺してきたということに気づいただろうか。


 気づいてしまってもいいし、気づかないでくれてるのなら、気づかないでいてほしい気もする。

 それでもおれは、きっとまた来てしまうのだろう。

 仕事帰りに、ぐるりと遠回りして。

 何も問わないおまえのとこで。

 人を殺した掌で、箸を持って。食事をする。


 …まだ血の匂い、する?


 聞きたくても訊けない言葉を、そっと胸奥に押し込んで。










2003/07/01(Tue) 01:41 裏掲示板にて
これもけーすけ様に。(いいかげんに) 五右衛門好きなんだー。ごえひよラブ。