『止まらない水』
――深夜。理由もなく目が覚めた。
照明のつかない部屋は、何処までも暗い。
…照明のない世界の、まことの暗さ。
それを抱きかかえるように、彼は片膝を折って、それを抱えた。
何故だか、ひどく虚しかった。
……わけもなく、理由もなく、目を閉じた。
世界は何処までも暗く、狭く、彼を追い詰めるものでしかないような気がした。
下らないと、いつものように笑えばいい。
馬鹿馬鹿しい感傷だと、切り捨てればいい。
彼は口元を歪めて笑おうとしたが、うまくいかなかった。
不愉快だった。
そして、その不愉快さがまた。
……彼の中の気鬱に、拍車をかけていく。
―――少し離れた寝台で、静かに眠る役立たずの相棒。
その安らかな寝息が、ひどく苛々するようで。…それでいて、何か必要なようで。
彼は、寝台の上。
片膝折って抱え、眉を寄せる。
目を眇め、闇を射抜くように目を凝らす。
彼を追い詰める闇を、射抜くように。…どこまでも、目を凝らす。
(暗い部屋。赤い色。憂鬱。気だるさ。苛立ち。……焦燥?)
目を閉じて、心の中に浮かぶ単語に笑う。
声にも出さず、いつものスタイルで、口の端に笑みを刻んだ。
笑みを刻んで。…口の端を歪めて。
(―――焦燥。……戸惑い。…焦り)
さあ、下らない感傷だと笑え。
いつものように悠然と、他の誰も立てない高みに立って笑えばいい。
自分は確かに、この高みに立つことを許された人間であると。
相応しい人間であると。
笑って、見下ろすがいい。
それが、いい。
……全てを。
全てを見下ろして、笑えばいい。
彼はくつくつと喉を震わせた。
暗い暗い部屋の中、蹲るようにして、笑った。
下らない気鬱は消えない。
どこまでも彼を追い詰めるように、消えない。
……消え、ない。
(下らない)
そう思って舌打ちをするのに、喉がまたひくりと震えて、笑いが唇から零れた。
くくく、と立てた片膝に顔を埋めるようにして笑う。…笑う。
……その声で、目が覚めたのだろうか。
隣の寝台から、もぞ、と相棒が顔を出した。
…まだ少し寝惚けた顔が、彼を見て不思議そうに。…訝しげに、しかめられる。
「なにしてるの…ボッシュ…?」
「……」
別に何も、と彼は顔を上げて、に、と唇を歪めた。
いつもの笑いの、延長線上にあるようなものだ。
……しかし、相棒は見慣れた筈の彼の笑みに、何故か目を見張り、言葉を噤んだ。
そして、寝台から足を下ろし、ぱちりと小さな照明を灯して。
ぺたぺたと彼の間近まで近づき。――…その頬に、そっと触れる。
(冷たい)
おまえの手、濡れてて気持ち悪いと、彼は顔を上げた。
相棒は眉を寄せて彼を見下ろし、そっと指先についた水滴を。
……ぽたりと、彼の眼前で軽く振り切って。
「…どうして、泣いているの。ボッシュ…?」
もう一度、彼の目元に。
…そこから生まれている水滴を拭う為に、指先を伸ばした。
彼は大きく目を見張った。
(何、言ってんのおまえ)
そう言って、笑おうとした。
…口を開けた。
けれど、その唇から漏れたものは。
……嗚咽じみた、くぐもった呻きだけで。
相棒は痛ましげに彼を見下ろした。
……一体何があったのと優しく訊ねるように、彼を見下ろした。
頬をまた、水滴が伝う。
しかしそれ以上に。
…彼の胸中を、激しい不快感が駆け巡った。
* * * * *
―――乾いた、音。
リュウはその音と同時に、顔に走った痛みに。
…ああ、またボッシュに打たれたのか、と眉を寄せる。
目の前で、冷ややかに自分を見据える碧の眼差し。
その縁はひどく赤く、一体いつから泣いていたのかとリュウにかんぐらせた。
「……余計なお世話」
ややあってから紡がれた言葉は、ひどくひび割れていた。
こちらを真っ直ぐに見つめる眼差しは、力と強さと。怒りが溢れているくせに。
その眼差しから、零れる水滴は。さながら、痛々しい子どものようで。
リュウはそっと眉を寄せ、打たれた頬を押さえた。
(まるで、癇癪を起こした子どもだ)
そう思って、何処か切なくなる。
「…」
ボッシュはそれを不快そうに見つめる。
消えろと言わんばかりの、不愉快そうな眼差し。
おまえのようなローディーに慰められる覚えはないと、こちらを冷ややかに見下す眼差し。
リュウは暫くその眼差しをぼんやりと見つめていたが…。やがて、小さく嘆息すると。
打たれて赤くなった頬から手を離し、すっとボッシュの目の前から離れる。
そして、すたすたと。
…物も言わず、部屋から出て行ってしまった。
かしゅ、と閉まる扉。……それをボッシュは目を眇めて見やり、ぐい、と掌で目元を拭う。
(目から出る、水)
涙だとかどうとか。確か。そんな名前の体液だ。
「…馬鹿馬鹿しい」
ひくと僅かに震える喉で言葉を紡ぎ、ボッシュは小さく笑った。
…笑った拍子に、また水が零れ落ちた。
「……。…なんで、止まらねえのかな。コレ」
頬を伝う水を指先で拭い、ボッシュは顔をしかめる。
―――いっそ目を抉り取ってしまえば、涙はもう流れないだろうか。
そんな埒もない考えを真剣に考慮し、世にも下らないニンゲンの機能に笑った。
(こんなもの必要ないのに)
笑って、また涙を零した。
…止まらない、水。
流れ続ける体液。
(こんなもの、必要ないのに)
溢れる、水。
伝っていく体液。
そして、それを哀れむように見つめるローディー。
(……必要、ないのに)
全てが鬱陶しくて、仕方なかった。
先ほど頬に触れた、柔らかいリュウの指先も。…慰めるように動く、その指先も。
……全てが。
―――そう。心底、から。
鬱陶しくて、仕方ない。
ボッシュは低く息をついて、寝台にもぐりこんだ。
どうせなら、あの鬱陶しいローディーが戻ってくる前に寝てしまおう。
明日も、また早い。
睡眠時間は多くとっておくに越したことはない。
目を閉じて、枕に頭をつけた。
ふと思い出して、目元を拭った。
…少しだけ、目尻が腫れているようで、擦ったところが痛かった。
* * * * *
かしゅ、と扉が開いた。
彼は寝台にもぐりこんだらしい相棒を一瞥し、小さく吐息する。
もう眠ったのならばそれでいいと思う。
…今度こそ、安らかな眠りが彼に訪れるよう。
彼は、きっと彼の相棒が知ったならば、また冷ややかに剣を向けられること請け合いのことを考えて、声も立てずに苦笑した。
…出来る限り静かに。
音を立てないよう。
彼は足音を殺すようにして相棒の寝台に近づき、ちっぽけなベッドサイドテーブルに小さなカップを置いた。
軽く湯気を立てたそれは、食堂から少々失敬してきた代物。
粉状のミルクを溶かし、砂糖を入れて。
きっとボッシュが好むであろう甘い味に整えて、持ってきた飲み物。
(馬鹿にするなって、怒るかな…?)
今夜の相棒は、どこか余裕がないようだったから。
…きっと、彼がこう考えてると知ったならば、また相棒は自分のことを打とうとするのだろう。
彼はぼんやりとそんなことを考え、寝台に戻ろうと踵を返す。
……しかし、ふと思い立って。
僅かに逡巡した後、ポケットに押し込んでいた小さな布切れを取り出す。
確かこれは、包帯の残った切れ端。
彼は柔らかい布質のそれを、恐る恐る、相棒の目元に当てがう。
しかし寸前ではたと動きを止め、きょろきょろと辺りを見渡した挙句…そっと、カップから一滴だけ、ミルクを布切れに落として。
…軽く指先で温度を確かめてから。
彼の相棒の、赤く腫れた目元をそっと拭った。
(ミルクだから、余計目やにとか…くっついちゃうかな)
あてがってからそんなことを思ったが、もうつけてしまったものは仕方ない。
リュウは何処か開き直ったような心持で相棒の目元をなぞり、涙の跡を拭った。
―――…周囲の気配に敏感な筈の彼は、何故か目を開けなかった。
「…おやすみ」
寝台に戻って、目を閉じる直前。
彼は小さく呟いて、枕に横顔を押し付けた。
当然のことながら。
…返事など、あろうはずもなかった。
* * * * *
翌朝、カップは空になっていた。
彼はそれでいいと思ってそれを片付けた。
眠たそうに目やにのついた目尻を擦る彼には、何も言わなかった。
返事も、何もなくていいと思った。
返事も、何もする必要がないと思った。
「リュウ。今日の任務、先に聞いてきて」
「…うん…。わかった」
彼らは二人して、何もなかったような顔をして。
―――また、心を切り捨てる日常に戻っていく。
書いてて楽しかったです。
でも末尾が気に入らないなこれ。