『尽きせぬ、いとしさ』
―――冷たい壁に、押し付けて。
強張った唇に、触れる。
それを行うは難く、考えるは容易い。
「ただまあ。…滅茶苦茶面倒くさいけどな」
……眉を寄せて、唇を強張らせて。
こちらを絶望的に見上げる彼。
それをただ愉しげに見下ろして、笑った。
かける言葉はただ一言。
この上なく優しく、この上なく残酷に囁いて。
……それだけで、彼はただ沈黙する。
涙一つ流すことなく、絶望に顔を強張らせて、こちらを睨み上げる。
(貴方のことをただ心の底からいとおしいと想う)
(ただ、それだけなのに)
* * * * *
―――リュウはぼんやりと天井を見つめ、考えていた。
その心を悩ませているのは、彼のすぐ隣で眠りについている相棒のこと。
(……このまま)
このままどこまで行けるのだろうか、とリュウはそっと目を伏せる。
寝台の中。
……衣服一つ纏わずに、男同士ベッドに潜り込んでいる理由。
それを思って、リュウはまた重い溜め息をつく。
……ボッシュ=1/64と性的な関係を持ったのは、コンビを組んで仕事をするように命じられてすぐのことだった。
退屈に飽いたボッシュが、戯れにリュウを引き倒し、セックスの真似事を行った。
それが、ふたりの始まり。
そこには愛も恋も優しさもなく、ただの好奇心と無邪気に残酷な悪意があるばかりだった。
リュウは逆らわなかった。
逆らえなかった。
体格的には同等の筈なのに、腕力も体力も、段違いに違う。
彼はエリート。そして、もう一人の彼はD値の低い劣等能力者……ローディーだったのだから。
いたずらに体を重ねた彼らが、背徳の悦楽を覚えるまでに時間はかからなかった。
ボッシュは若い雄の欲求を宥めるため、街に降りて売春婦を探すよりも、リュウを抱くことを選んだ。
(……その方がお金もかからないし、時間もかからないから)
リュウは拒まなかった。
拒めなかった。あるいは、拒むだけの気概も気力も、失せていたのかもしれない。
流れに任せて、歩いていった方が生きるには楽だから。
その方がずっと、楽なのだから。
ただ。
計算外が一つ。
……どうしようもない。馬鹿げた計算外が、一つ。
リュウは隣の寝顔を眺め、目を閉じる。
(…そう。とんでもなく、馬鹿げた計算外)
目を開ける。
…彼はそのまま自嘲めいた表情で唇を歪め、布団からそっと腕を出した。
ひやりとした外気に、剥き出しの肩口が晒される。
それに一瞬肩をすくめてから、軽く……相棒の頬を指先でなぞった。
特に意味のある仕草では、ない。
……意味など、ある筈はない。
目元。鼻の付け根。唇。…顎先をそっと撫でる。
「……」
ふ、とボッシュが軽く眉を寄せ、息を吐き出した。
その吐息の掠める感触に、リュウはひく、と指先を小さく震わせた。
そして、顔をくしゃりと歪める。
(おれはきっと、馬鹿なんだ)
今にも泣き出してしまいそうに顔を歪め、震える指先を、そっと相棒の面から引き剥がす。
(おれはきっと、どうしようもなく愚かなんだ)
相棒は、目を覚まさない。
もう一度、小さく寝言とも寝息ともつかない呟きをもらして、リュウの方によりかかるように身じろぐ。
リュウは近づいてきた体に、歪めた顔を押し付けるようにして、目を閉じた。
そうして、決意した。
(…このまま)
そう、このままではきっと。
(おれたちは。…いや、彼は)
目を閉じたまま、リュウはボッシュの肩に頬を押し当てた。
(……どこにも行けなくなってしまうだろうから)
顔を歪めて、心を歪めて。……想いを静かに歪めて。
―――決意した。
……伝える言葉は、ただ一言でいい。
服装を丁寧に整えて。
……一言、ごく普通に、告げればいいのだ。
これからも連綿と続いていく、日常の通過点として。
ごく、当たり前に。
「おれたちさ。……普通に、戻ろうよ」
―――切り出せばいい。
「……」
ボッシュは訝しげに眉を寄せ「ハ?」と聞き返してきた。
億劫そうに剣を振るってディクの体液を落として「おまえ、何言ってんの」とリュウを眺める。
「…普通の相棒同士に、戻ろうって言ってるんだ」
乾いた唇を軽く舐めてから、リュウは剣を鞘に戻した。
ボッシュの目が、すう、と細められる。
それに怯むものを感じながらも、リュウは今まで思っていたことを懸命に口にした。
「…ねえ、ボッシュ。…こんな風に、あってはいけない関係を続けてたら……物凄く困ったことになると思う。おれたちの関係もしも上に知られたら、よく思われないことは当然だし……。何より、きっと出世にも、影響するんじゃないかな…」
「……」
右手、左手、とボッシュはジャグリングをするように剣を移動させながら「…で?」とリュウの言葉の続きを待つ。
「…あの、だからさ……。……もう、やめよう? ああいう、こと。ベッドだって、二個あるし。……部屋だって、望めば個室をもらえるって隊長も言ってたし」
リュウの唇から漏れた「隊長」の一言に、ボッシュの手が、ふと止まる。しかし、言葉を紡ぐことに集中しているリュウはそのことに気づかない。
「……おまえさ」
ボッシュの唇が、いやらしげに歪められた。
そして、嬲るように目が細められる。
「今更ベッド変えて。一人で、眠れるわけ? …カラダ疼いて、どうしようもなくなるんじゃないの」
「……」
リュウの肩が、ひくと震えた。
しかし彼は。
「…へいきだよ」
決然とボッシュを見つめ。
「続きは宿舎で話そう」
…あっさりと、身を翻した。
「……」
その背中を、ボッシュは無表情で見つめる。
何も窺うことが出来ない、無表情で眺める。
「…あっそ」
低く、呟いた。
その言葉が、リュウの耳に重く響き。
―――そして。
「……ッ…!」
リュウは肩を灼く、激しい痛みに、思わず膝をついた。
驚いて後ろを振り返れば、ボッシュがリュウの肩を貫いたまま、静かに佇んでいる。
「……ボッシュッ…なにをッ……!?」
信じられない思いでその名を呼び、反射的に剣を抜こうとする。しかし、ボッシュはその手を足でぐり、と踏みにじり。
「グッ……ゥッ…!」
が、と強くその腹部を蹴りつけ。
うずくまるリュウの首筋に、手刀を落とした。
……意識が、ぐらりと揺らぐ。
「…な…んで……?」
縋るように伸ばした掌を、ボッシュはきつく握った。
きつくきつくきつく。
……爪を立てるほど、きつく。
握り締めた。
―――その光景を最後に。
リュウの意識は、闇に沈んだ。
* * * * *
―――冷たい壁に、押し付けて。
強張った唇に、触れる。
それを行うは難く、考えるは容易い。
「どうして…こんなこと……」
手首足首に手錠をかけられ、後ろ手に、壁にくくりつけられ。
…どことも知れぬ倉庫の片隅。
冷笑を浮かべてこちらを見つめるボッシュを睨みつけ、リュウは吐き捨てるように呟く。
乱れた衣服と、首筋に残る赤い痣が、リュウがここで辱められたということを証しているようだ。
(どうしてはこっちのセリフ)
ボッシュは埒もなく胸中で呟いて、冷たく哂う。
冷たく哂って、リュウの細い首を、きつく掴み上げる。
「ぐっ…」
指をきつく食い込まされ、リュウは苦しげに喘いだ。
その顔を観察するように見つめながら、ボッシュは無表情に、告げる。
「俺から逃げ出そうなんて、百年早いよ。ローディー」
優しく、低く、囁くように。
事実だけを、告げてやる。
「…クッ……ゥウッ…!」
リュウは顎をそらして目を閉じ、喉を圧迫される苦痛に身じろいだ。
それを目を細めて見つめ、ボッシュは指先に力をこめる。
「面倒だから、しなかっただけで」
肩をすくめて、微笑んでみせれば、絶望的な色も濃く、リュウが見つめ返してきた。
「簡単なんだよ…リュウ。おまえの時間。いのち。こころ。…全部鎖に繋いで、飼うことなんて」
(どうして、俺から逃げようとしたの。ローディー)
暗い暗い声が、心の底から響く。
表に浮かばずに消える泡のように、ぱちりぱちと水中で消える囁き。
「……」
リュウの喉元からようやく指先を離してやると、彼は苦しげに息を吐き出して、ボッシュをきつく睨み上げた。
ひどく苦しげに、ひどく顔を歪めて、ボッシュを睨み上げた。
「……ここから出して」
ボッシュは笑った。
「…却下」
そして、その首筋に残った痕をひどく愛しげになぞり、微笑う。
…この上なく優しく、この上なく残酷に囁いて。
「……好きだよ」
リュウの顔に、ぴしりと亀裂が走る。
それほどに優しく、真摯な響きを帯びた囁きを落として。
……優しげに、哂う。
「だから、逃げようなんて。……するなよ?」
「ッ……つッ」
そのまま首筋に爪を立てれば、一筋血が流れた。
リュウが、泣きそうに顔を歪め、ボッシュを睨む。
「……ッ…」
そのまま、力なく、ばかだ、と呟いた。
(どうして、俺から逃げようとしたの。リュウ)
ばかはおまえ、と囁いて、ボッシュは肩の傷口に爪を立てた。
「大事にしてやるよ。…毎日毎日、丁寧に羽を剥ぎ取るみたいに」
―――リュウはゆっくりと眼差しを閉じ、その目から全ての光景を閉ざした。
(貴方のことをただ心の底からいとおしいと想う)
(ただ、それだけなのに)
誰にも告げない囁きを。
心の奥深く。
…そっと、沈めて。
END.
そういえばこんなのも書いたなあ…。