tsukishiroku

　　　　　　　　　　　　　　――『ツキシロク、カゼキヨシ』――

　…あのひ、あのとき、あのばしょで。

　あなたのてのひらはなさなければ。

　あなたのいいつけまもらなければ。

　あなたのすがたをこのめにうつして。

　あのときあのままふりかえれば。

　――――…たとえ、ほんの少しでも。

　……だけど、今、このときよりは。

　……あなたの隣にいることが、許されましたか？

　それは、埒もない、下らない仮定で。

　ありえたはずの過去だけど、ありえてはいけなかった過去。

　…だけど。ねえ。

　今夜は月がとても綺麗だから。

　わたしの家の近所にしては、随分月が綺麗だから。

　…あの日の夜に見た、優しい半月ととても似ているから。

　だから。ねえ。

「会いたいなあ」

　こっそり呟いてみたくなる。

　勿論、答える声なんてないけど。知ってるけど。

『私はそなたの味方だから』

　……あなたの声が、どこかから聞こえるのではないかと。どこかで期待しているわたしがいる。

　もしかしたら、あの空の一部が欠けて、あの日の朝みたいに、白い竜の姿が……見えるんじゃないかって。

『千尋』

　……そんな埒もないことを期待してしまうこんな夜は、少し辛くて、少し嬉しい。

　……あのひ、あのとき、あのばしょで。

　――――そんな馬鹿げた仮定をしてしまいそうになることが辛くて。

　あなたのてのひらはなさなければ。

　――――でも、優しい思い出が胸を満たしていくことは、とても心地よくて。

　あなたのいいつけまもらなければ。

　――――そして、またおもう。……あのひのことを。……わたしが「隠された」あのまちのことを。

　あなたのすがたをこのめにうつして。

　――――優しい、優しい白い竜。……わたしが初めて、心の底から大切にしたいと願った、あのひとのことを。

　あのときあのままふりかえれば？

　………。

　……わたしは、頭がぐちゃぐちゃになりそうになりながら、半月を見つめてちょっと笑った。

　わたしが見上げている夜空と、あなたが見上げている夜空はきっと違う。

　とてもよく似ていて、でも、きっと少しだけ、大きく違う夜空なんだろう。

　……でも、きっと、あの夜空に浮かぶ月は同じだよね。

　……流れている時間も、同じだったものね。

　…………。あなたは、今何をしているのかな。

　こんな優しい半月の夜は、それしか考えられなくて、少し胸が苦しいよ。

「ハク」

　そっと、そっと、空気に溶けるくらい小さな声で名前を呼んでみる。

「………会えるって…言ったよね？」

　掌をつないで、わたしの目を見つめて、約束してくれたよね。

「……会えるって。……言ったよね」

　あなたは嘘をつくひとじゃないって知ってるよ。…だから、ずっと待ってるよ。

　……忘れないで、ずっと待ってるよ。

　……――――こんな優しい月夜には。

　少し寂しいような。なつかしいような。いとおしいような。

　そんな気持ちで、心が壊れそうになるときもあるけれど。

　あなたの言いつけを守って、振り返らなかったことを。

　手を離してしまったことを。

　…もどってしまったことを。

　時折、後悔してしまいそうになるけれど。

　…あのひ、あのとき、あのばしょで。

　あなたのてのひらはなさなければ。

　あなたのいいつけまもらなければ。

　あなたのすがたをこのめにうつして。

　あのときあのままふりかえれば。

　……そのたびに、あなたの言葉を思い出して。

　あの空に浮かぶ半月を見つめて。

　あなたが嘘をついたことなどないことを思い出して。

　あなたのことを疑ったことのない自分を思い出して。

「ハク」

　だから、今夜もわたしは笑えました。

　……あなたをおもって、微笑うことができました。

　――――あなたの夜空には、今月が見える？

　――――その月を見て、今のわたしと同じように、わたしのことを少しでも気にかけてくれていれば、なんて。

　――――ちょっと勝手かな。

「あのひあのときあのばしょで」

　わたしはそっと呟いて、月に向かって手をかざした。

「あなたのてのひらはなさなければ」

　左掌を静かに伸ばして、軽くたわめて。

（あなたのいいつけまもらなければ？）

　あなたのすがたをこのめにうつして。

（あのときあのままふりかえれば？）

　―――――……月の光が、わたしの掌を包んで。

　もう寝なさい、と、苦笑するように、あなたに似た優しさでわたしを照らす。

　後悔はいつだってしている。

　今夜も。そして、きっとまた次の半月の夜も。

　それでもわたしは。

　あなたに出会えて。あなたに再会できて。

　あなたの名前を知ることができたことだけは、後悔したりしないから。

「………会いたいね」

　今夜も月に向けてそっと囁く。

　…返事は今夜もない。

　――――でも、それでもいいの。

「……ハク」

　ああそういえば。

「…………ハク」

　あなたへのこのおもいの名前に、わたしが今更気づいたのは。

「…………ハク…」

　――――やっぱりこんな、月の綺麗な夜だった。

――ＥＮＤ．

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