『海の時間』
ずっときみとこうしたかった。
寒い夜にベッドの中で。
頬と頬をくっつけあって。
雨の音を聴いているよ。
◇ ◇ ◇ ◇
「光子郎、悪いけど、今日部活遅くなりそうなんだ。先、帰ってていいぞ」
…珍しく太一が自分の教室に来てくれたことを喜んだのもつかの間だった。
光子郎は溜め息を漏らさないように努力しながら「そうですか」と頷く。
「じゃあ、待ってますよ。僕」
「え…。でも、マジで遅くなるんだぞ。いいって。先、帰ってろよ」
太一は一瞬嬉しそうな、照れたような表情になってからそう言って、弟か妹にするように光子郎の頭を軽くなでた。
光子郎はその仕種に苦笑する。そしてにこりと微笑むと、彼の頭から離れる太一の手を捕まえて、その中指に淡いキスを落とした。
「!」
太一はさっと顔を赤らめて手を引き戻し「だ、誰かが見てたらどうするんだよっ」と吐き捨てる。
「誰も見てませんよ」
光子郎はあっさりと応じて微笑みを保つ。
もし、誰かが見ていたとしてもかまうものか。
(いっそ、この人が僕のものだと宣言してしまいたい)
光子郎は顔を赤らめたままの愛しい恋人を見つめ、優しくもいとおしげで―――どこか物騒な笑みを見せた。
彼はおとなしげな外見のわりに、時折、こんな薄ら寒いような面を覗かせる。
太一は本能的な嫌な予感に身を震わせ「じ、じゃあ校門のところで待ってろよ。…一緒に帰るから!」とだけ告げると、小走りで光子郎の教室から立ち去った。光子郎はその背中を、狂おしいような不可思議な光をたたえた瞳で見つめ、小さく嘆息する。
「何を焦ってるんだろうな…僕は」
少し自嘲気味に呟かれたその言葉は、昼休み終了を告げるチャイムと周囲のざわめきに、たやすく飲み込まれた。
◇ ◇ ◇ ◇
「……光子郎の奴――…、ああいうことは、学校じゃするなって言ってんのに!」
太一は二年の教室がある階に向かいながら、まだ熱い頬を軽く指でこする。
『誰も見てませんよ』
しゃあしゃあと言った声が耳元によみがえった気がして、太一は耳元もこする。…そしてそっと中指を手の中に包んだ。
“別に見られてもかまわない”
光子郎の言葉は、そんな風にも聞こえた。
――――光子郎と『恋人同士』になってから、もう二週間が過ぎようとしている。
手もつなぐし、キスもした。デートと称して、その辺をぶらついたりもした。
一緒にいると楽しいし、嬉しいし、どきどきもする。―――けど。
抱きしめられて、キスされて―――それから。
その先が、まだ踏み出せずにいる。
『太一さん』
太一は、別に特別怯えているわけでも、嫌がっているわけでもない。
ただ……不安なのだ。
ついこの間まで、デジタルワールドを旅した特別な仲間ではあるものの……まだ年下の友達でしかなかった光子郎と一線を越える。それは、ひどく後ろめたい行為である気がした。
だからといって、太一がそれを望んでいないわけではない。人並みに思春期の少年である太一とて、興味はあるのだ。
「だからってなあ……はい、そうですかってカンタンに割り切れるもんじゃねぇだろ…」
太一は思わず足を止め、軽く髪をかきあげて途方にくれたような吐息を洩らす。
『誰も見てませんよ』
少し苛立ったような光子郎の声。焦がれるような視線。
(そんな目で見たってさ……んなもん、一朝一夕に決められることじゃねーよ)
太一はもう一度、今度は胸中でうめいて溜め息をつく。
(帰り……また何か言ってくんのかな、あいつ)
そう考えると気恥ずかしくて気が重くもなったが、同時に嬉しいような気もした。
――――俺も重症だな。
太一は再び熱くなってきた頬を押さえて、のろのろと歩みを進め始めた。
ひょっとしたら、自分は案外幸せなのかもしれない。ふと、そんなことを思った午後だった。
◇ ◇ ◇ ◇
「八神―っ! そっちに行ったぞーっ、パス回せーっ!」
「上がれ、上がれーッ」
……サッカー部の練習するグラウンドから聞こえる掛け声が、やけに遠くから聞こえる気がして、光子郎は軽くフェンスにもたれた。
部活のチームメイトに混じって笑う、太一の笑顔ですらどこか遠い気がする。
――――たかだか、フェンス一枚隔てただけなのに。
「僕は――…空回りしているんだろうか?」
光子郎はぽつりと、自嘲気味に呟いた。
想っていて――ずっと想っていて。それに太一が気づいて、両想いとなることが出来たのは、つい数週間前。
キスしたい。
抱きしめたい。
くっつきたい。
もっと、もっと、もっと、そばにいたい。
――――キスだけじゃ、もう足りない。
光子郎は熱っぽい息を吐いて、健康的な笑顔を見せている太一のことを見た。
――――キレイな、清潔(キレイ)な太一さん。
あの人は想像したことはないんだろうか。
……ひとつになるって、ことの意味を。
光子郎は少し寂しそうな笑顔で、溜め息をつく。
(僕は、また、知ってはいけないことを知りすぎたのかな?)
そばにいるだけじゃ足りなくて、そばにいるからこそ足りなくて。
ひどくもどかしい、この出来たばかりの『恋人』の距離。
……誰よりも愛しいヒトへの、もどかしい距離。
(――――ひとつになりたいのは……僕だけ?)
光子郎は、そっと苦笑を浮かべた。
太一の声すらも、どこか遠くから聞こえるようだった。
「光子郎―っ!」
太一は部活を終えて、校門のところで待っていた光子郎に駆け寄った。
「悪い! 本当に遅くなっちまった!」
「……いえ、そんなに気にしないでください。そんなに待ってませんから」
光子郎はにこりと笑うと、息を切らして走ってきたらしい太一は「ちょっと待ってくれ」と肩を大きく揺らして、校門に寄りかかった。
よく見ると本当に急いできたらしく、シャツのボタンも一つ掛け違えているし、額にも汗が滲んでいる。光子郎はそれをみとめて、ふわっと笑った。
ああ、なんて。
「…? ん? 光子郎…?」
光子郎は、校門にもたれて息をついていた太一の頬を優しく両手で包んで、そっと持ち上げる。
なんて、愛しいヒト。
―――光子郎は、気持ちの赴くままに太一の身体を校門の塀に押し付け、その唇を塞いだ。
「んっ……ん…う…」
突然のことに面食らった太一が、それでも反射的に目を閉じる。光子郎はその表情をしばらく愛しげに見つめてから、自分も目を閉じた。
柔らかい太一の唇を上唇と下唇ではさむようにし、舌先を口内に入れて、ゆっくりと太一の口内を貪る。
「ふ…ぅ…んっ…」
太一は頬を上気させて、強く光子郎の方を押した。光子郎はそれを、尚強く口内を貪ることで遮ってから、そっと太一の唇を解放する。
太一の唇と光子郎の唇の間に、銀色の糸が伝わり、どちらのものともつかない唾液が太一の唇からこぼれた。光子郎はそれを軽く指先で拭い、無防備な表情でぐったりと塀に身体を預ける太一の頬に、軽くキスをする。
「…太一さん? ……大丈夫ですか?」
そう甘く囁いて、薄く笑む光子郎を、太一はきつい目で睨みつけた。
その瞳にはうっすらと涙が滲んでおり、頬は赤く上気している。その唇は、まるで誘うように軽く開かれたままで――…。
(!)
どくん。
光子郎の中で、何かが大きく音をたてた。
太一の瞳太一の頬太一の唇。
太一さんの、カラダ。
―――それは、欲望の鼓動。
ココロの伴わない―――本能のみの衝動で…。
――――光子郎は慌てて目を逸らした。……さっと口を押さえて、きつく眉を寄せて。
「……光子郎?」
こんな人目につくところでこんなコトをしやがって、と文句を言うつもりだった太一だが、光子郎の態度に首を傾げ、そっと肘をつかむ。
意図しない太一の頼りなげな、幼い仕種に、また光子郎の中の雄≠ェ熱くなっていく。
――――今すぐこの人を組み敷いて。
――――身体中に自分だけのモノだというアトを散らせて。
――――欲望のままに、貫いて――……。
(違う!)
光子郎はそこで更にきつく眉を寄せた。
(僕は、この人を欲望のはけ口にしたいんじゃない……!)
どくん。どくん。どくん。……とくん。
(好きだから――スキだから、この距離を、このもどかしい距離をうめたいんだ)
手段と目的を、はきちがえてはいけない。
「…光子郎? どうしたんだよ…? 腹でも痛いのか?」
「―――いえ」
光子郎はゆっくりと息を吐き出して、どうにか笑ってみせた。
「なんでも、ないです」
「……。……ふうん?」
太一は訝しげに光子郎を見ていたが、結局追及は諦めて「帰ろうぜ」と先に立って歩き出す。
光子郎はその背中を見て、また溜め息をついた。
(―――何も、分かってないんですよね。太一さんは……)
清潔(キレイ)なヒト。いっそ、残酷なくらいに。
光子郎はそんな太一をとてもいとおしく想うような……あるいは、ひどく傷つけたいような、そんな理不尽な気分になりながら、太一の後に続いて歩き出し――――ふと、足を止めた。太一が足を止めたからだ。
「なあ、光子郎」
「…はい? ――なんですか?」
太一が足を止めたところから、ちょうど三歩。光子郎はその位置を保ったまま、太一に答える。
太一は前を向いたまま…心持ち俯いて「今日、さ」と呟く。
「はい?」
意味も分からず光子郎が先を促すと、太一はボソボソと不明瞭な声で何かを言った。しかし、ハッキリと聞こえないので光子郎が「もう一度言ってくれませんか?」と頼むと。
「〜〜っ! だから! 今週の土日は、ウチの家族出かけてて誰もいなくなるから! お前、泊まりに来ないかって言ってんだよ!」
太一は一気に顔を真っ赤にさせて振り返り、そうわめく。
光子郎は―――一瞬凄く間の抜けた表情になって。
それから―――何度も瞬きをして。
……ゆっくりと、一歩、距離を縮めた。
「太一さん…それって……」
「……。言うなよ。恥ずかしいんだからな。…ムチャクチャ」
太一もそう言いながら―――ちょっと周りを見回して、また一歩距離を縮める。
「……。誰も、見てないから――」
「うん…?」
「平気――ですよね?」
二人は、そっと半歩ずつ距離を縮めて。
「…うん。……今は、平気だ」
そう太一が囁くと同時に、光子郎はきつく太一を抱き寄せた。
太一も赤くなった頬を光子郎の肩にそっと押し付けて、目を閉じる。
「…少しだけだかんな」
「……はい」
「土日のこと、ちゃんと親に話しとけよ」
「……はい」
「それから、これからはこんな風に外でヘンなコトすんなよ」
「……はい」
「…それから―――」
「――太一さん。ちょっといいですか?」
「―――えっ、…ん…っ!」
光子郎は優しく、まだ何か無粋なことを言おうとする太一の唇を塞いだ。
――――ひとつになりたいって。
……そう思ってたのに、僕だけじゃないんだって。
………考えて、いいんですよね?
そう、尋ねかけるように、優しく。
◇ ◇ ◇ ◇
…きみの中指にキスをして。
きみの髪に顔をうずめて。
きみをほんとにダイスキだよ。
何度言っても言いたりない。
◇ ◇ ◇ ◇
―――ラジカセから、柔らかな女声の歌が流れてくる。
太一はどこか落ち着かなくて、ベッドサイドにおかれていたCDラジカセに手を伸ばした。
カチッ、と音を立ててテープを止め、テープのラベルを見る。
「うみの、じかん」
ぽそっと、今の曲の曲名を読み上げて――…太一は、またテープをラジカセの中に納めた。
かしゃん。……きゅるるる……。
巻き戻しボタンを押して……気まぐれにまた停止ボタンを押す。
かしゃん。
「…あ」
「――コレ、ヒカリさんのテープですか?」
太一は、せっかく止めたのにまた再生ボタンを押されて、やや非難するように光子郎を睨んだ。
「あいつが……オススメだから、聞けって」
「ふうん…。キレイな曲ですね」
「うん。……そうだけどさ――…でも……」
「でも?」
―――光子郎はくすりと笑って、陽に焼けた肩をさらしている太一の身体を腕の中に引き寄せた。
「ちょっ…はなせよ……光子郎っ…」
太一がセリフの内容ほど力のこもっていない口調で囁きながら、僅かに目のはしに赤い跡を残した目で彼を睨む。光子郎はその睨みに微笑みで応じ、労わるような口調で「すみません」と囁いた。
「何が――…?」
「―――泣かしてしまいましたね」
「! …い、いいから、別に!」
光子郎は太一を抱きしめたまま、彼の目のはしに残る涙の跡に唇を寄せる。
「――すみません。…優しくしたつもりだったんですが……」
「……。いいって……だから」
太一は頬を赤らめたまままま俯き、今度は光子郎のするままに任せた。
…揺れる海百合 三葉虫
ぼくときみの境目もなく
漂うだけ 無限の現在(いま)を
どんな言葉も ここにはない
「――…なんか、さ…」
――――日曜の朝。空気がやたら甘ったるいものであることに居心地が悪そうな様子で、太一はしきりと曲の歌詞を気にする。
「なんですか?」
光子郎はくすくすと笑いながら、太一の頬にじゃれるように唇を当て、わざとのように尋ねた。
…水が命を うみだすように
森が息をするように
星が生まれ 死んでいくように
僕たちは恋をする
「何か……少しエッチくさいじゃん。この歌」
太一はぽつんと呟いて、一気に真っ赤になる。光子郎はまるで今気づいたように「ああ」と笑って。
「そういえば、そうですね」
と、耳元で囁く。それから。
「―――でもね、太一さん。僕はこの歌好きですよ」
ふわりと笑って、優しく、太一の手の甲にキスをした。
「僕たちは―――こんな風に、別々のヒトとして生まれてきたのに」
――――まるで、ひとりのヒトのように、交わりあって。……こんなに、惹かれあって。
「……例え、カラダもココロも、ほんの一部だとしても――…貴方とひとつ≠ノなれた」
――――まるで、かつてヒト≠ェヒト≠ナなかった頃海≠ニいう一つの空間の中で漂っていた時のように。
「それこそ」
光子郎は、茶色っぽい瞳で、じっと自分を見つめている太一にゆっくりと口付けた。
太一もそれを静かに受け入れ、額と額とをこつんと合わせて小さく笑う。
「……うみの、じかん≠ノいたみたいに?」
「…ええ」
光子郎も幸せそうに小さく笑った。太一はくすくすと声を立ててまた笑って。
「お前、少し難しく言いすぎなんだよ」
笑んだまま、きゅっと光子郎の背中に腕を回して、彼を抱きしめると。
「俺はお前のことがスキで、お前は俺のことがスキで」
そっと頬を掌ではさんで、唇をもう一度重ねて。
「――――俺たちは、もっとお互いのことをダイスキになった。……それでいいだろ?」
甘く、強気に囁いて、笑う。
光子郎はその笑顔に、蕩けそうな愛しげな笑みで応えて。少しもどかしそうに、きつく太一を抱き寄せる。
「……すいません。僕…また、コトバだけじゃ足りなくなりました」
「……うん。俺も――…かな」
太一も微かに頬を赤らめて、光子郎の腕の中で呟いた。……光子郎はまたそれに微笑んで。
ずっと きみとこうしたかった
きみの髪に顔をうずめて
そう。これからが、また僕たちの。
きみをほんとにダイスキだよ
何度言っても言いたりない……
――――とても幸せな……海の時間=B
END
数年前の小説にコメントをつける、この恥ずかしさをどう表現していいのか分かりません…。
シアワセなようです。とてもシアワセなようです。とても甘くて泣きたくなりました。
……『海の時間』は、とてもいい歌です。