『少年ボッシュの不摂生で不可思議な日常』
――――そこに立ち寄ったことに、特に意味はなかった。
ただ、毎日がひどく退屈でどうしようもなくて、ぶらぶらと街を歩いていたら。
ふと見つけた狭い横路地に、何となく潜り込んでみたら。
見るからに怪しげな裏通りに、能天気に飾り付けられた看板。
犬猫の愛らしいイラストに、ポップな文字が躍る。
<可愛いパートナー! 退屈な毎日を、可愛いペットと共に過ごしてみませんか?>
微妙に日本語のおかしな広告文句に、ボッシュは呆れて口の端を歪めた。
(まあ、暇つぶしにはなるかもな)
特に目的があるというわけでもない。
ボッシュは見るからに怪しいペットショップの前に立ち、自動ドアが開くのを待った。
* * * * *
「どのようなペットをお探しですか?」
見るからに優しげで、にこやかな笑顔。
こういう人畜無害そうな笑顔が、一番怪しい。
ボッシュは胡乱な目で、彼を迎える店員を見た。
「ペットっていうか…。何いんの。ここ」
あくまでも暇つぶし。肩をすくめてボッシュがそう問えば、店員はにこやかに「何でも揃っておりますよ」と奥を示す。
「可愛い子猫に、人懐っこい子犬。寂しがりやの兎に、はしっこいハムスター。愛嬌溢れる爬虫類も、かなりの種類取り扱ってますし」
「…ふーん」
愛嬌溢れる爬虫類、ね。
ボッシュは皮肉げに口の端を上げて、店内を軽く見回した。
何でも揃っているらしいこの店は、ついでに閑古鳥も飼っているようである。ボッシュ以外の客の姿が、全く見えない。
(こんな怪しげな裏通りにある店だしな。それも当然か)
ボッシュは、すたすたと店員が示した奥に向かって歩き出した。
「お客様は何をお求めですか?」
「別に、何も」
それを追いかけるようについてくる店員にすげなく返答して、ボッシュは彼が思うままに歩いていく。
店員は面倒な客だと思ったに違いないが、とりあえずにこやかな微笑みをたやさない。
「そうですね。…でしたら、一匹、お勧めの子がおりますが」
そうして、ボッシュの行く先に上手に割り込んで、ちゃり、と小さな鍵を取り出した。
「性質は従順。朝昼晩、きちんと食事さえとらせてあげれば、毎日お客様の心を慰めてくれることでしょう。…よろしければ、お見せ致しましょうか」
奇妙に薄暗い店内で、僅かな明かりを集めて鍵がきらりと反射した。
「……」
怪しい店。怪しい店員。そして、種類も知れない怪しいペット。
「……それ、何の動物?」
胡散臭げに問うたボッシュに、店員はあくまでもにこやかに応じた。
「兎ですよ。…先週入ったばかりの、新しい子です」
……鍵が、きらりと光を受けて。
また、小さく反射した。
ボッシュは軽く目を細めて、軽く頷く。
どんな兎だか知らないが、随分大仰な言い方をするものだと考えながら。
* * * * *
……檻の中。
彼は、体を小さく丸めるようにして眠っていた。
「……」
ボッシュはさすがに言葉を失って、軽く目を細める。
「…なに、あれ」
店員はその問いにも、ただひたすらにこやかだ。
優しげな微笑みをたたえて、かしゃりと鉛色の檻に触れる。
一昔前の漫画に出てくるような、四角形の檻。このままクレーンゲームで掴んで、そのまま何処かへ連れ去れそうな。そんな形だ。
ボッシュはその檻の中、目を閉じて体を胎児のように丸めている彼を見つめる。
「兎、ですよ。珍しいことに蒼い瞳を持った子でして。藍色兎、とでも申しましょうか?」
今は眠っているから、目は見られませんがね。
「……兎、ね」
ナルホド、ここはそういう店か。
ボッシュは軽く肩をすくめ……檻の中、どう見ても人間の若者にしか見えない『兎』を眺める。
細い体躯に纏うは、白い長袖のシャツに青いジーンズ。
年の頃は、ボッシュと同じくらいだろうか。十代後半、といった風情の華奢な体つきの若者は、その細い手首に鎖つきの輪をつけられている。
ジーンズから顔を出している形のいい足先は、何にも覆われていない。ただ手首同様、鎖つきの細い輪がつけられていたが。
(バニーガールならぬ、バニーボーイってか?)
これからあの若者を起こして、頭に兎の耳でもつけて踊ってもらおうとでも言うのだろうか。
ボッシュは面倒くさそうに眉を寄せて、つまらない見世物だと檻の中を眺めやる。
「どうでしょう。折角ですから、抱いてみては如何ですか」
「……」
店員はくすりと笑って、檻の鍵を開ける。
そして、先ほどの小さな鍵をボッシュに手渡して。
「これが、あの子の体につけられている鎖の鍵です。主となる方にお譲りするものですので」
よろしければ、しばらくお持ち下さい。
店員は相変わらず微笑ったまま、そう告げて。
「は? …何の冗談」
眉を寄せて押し返そうとするボッシュを残して、部屋を出て行ってしまった。
「折角のお勧めなんですから、よければ少し触れ合ってみてくださいませ」
……可愛い兎でしょう、と小さく笑い声を残しながら。
「……」
勝手なことばかり言ってドアの外に消えた店員を睨みつつ、ボッシュは面倒そうに檻の中……未だ静かに目を閉じている若者に目を移した。
『抱いてみては如何ですか』
「…額面通りにとっていい言葉なんだかな。それは」
店員の残した意味深な言葉。
それを思い起こして苦笑しながら、ボッシュは檻の中に足を踏み入れる。
勿論、こんなわけのわからない『兎』など、飼うつもりは毛頭ない。
ただ、折角の暇つぶしの材料を見て見ぬフリするのは、彼の流儀に反すると思ったのだ。
キイ…、と音を立てて開いた、小さな扉。
そこをくぐって、中に眠る若者の顔を見下ろすように軽く膝をつく。
膝を腕で抱くように、目を閉じている『兎』は、確かに端正な面差しをしていた。
特別派手だというわけではないが、その整った顔立ちはいかにも実直で従順そうではある。
睫毛は存外長く、ボッシュは面白半分にそっと瞼に指先を伸ばした。
すっと通った鼻筋を辿るように顔の輪郭をなぞって、少し乾いた唇に触れる。
「…白雪姫みたいな構図だな。コレじゃまるで」
ボッシュは皮肉るように小さく笑って、『兎』と呼ばれ、鎖でつながれている若者を眺めた。
御伽噺の姫君たちのラストは、いつもハッピィエンド。
しかし、残念ながら目の前の『兎姫』のラストはどう考えてもハッピィエンドでは、ありそうにない。
ボッシュは戯れに顔を近づけて、寝息も立てずに瞼を下ろし続ける若者の吐息を探る。
―――そして、軽く吸い付くように。
唇を、彼のそれへと押し当てた。
最初は軽く舐めるように。次第に段々と深く、奥深くまで支配するように。
無抵抗な若者の手首を握り、滑らかな舌に己が舌を絡め、深く口付けていく。
少し骨っぽくて痩せた若者の体は、意外なほどに抱き心地がよく、ボッシュは眠る若者を押し倒すようにして口付けを続けた。
御伽噺の姫君たちにこんな口付けをしたら、たちまち赤面して逃げ出されてしまいそうな。
……そんな、ふしだらなキスを。
「…ンッ……」
だから、最初に告げられる筈の姫君の言葉も。
起こしてくださってありがとう王子様、の可憐な声も。
「ンッ……ん、ンン…ッ」
こんな、くぐもったような声でしか、なかったのだけれど。
……それでも、確かに契約は行われた。
緩慢な瞬きと共に、ゆっくりと開けられた蒼い眼差し。
空の青よりも深く、海の青よりも遠い。
……不可思議な、蒼い眼差し。
ボッシュは、ゆっくりとこちらを見つめる若者の目を間近で見つめ、小さく笑った。
(もし、名前をつけるとしたら)
空を統べるほど強くなく、海を守るほど大きくもなく。
地と天を繋ぐ導にもなれないだろう。…そんな、どこかしら弱々しい風情。
けれど、空と海の色持つ、その遠い眼差し。
こちらを真っ直ぐに見つめようとする、意思の強さを思わせる眼差し。
その眼差しに囚われたと言えば、不愉快そうにきっと眉をしかめるだろうし。
一目惚れかと言えば、きっと馬鹿にしたように笑うだけだろう。
けれど、そのとき。
その蒼い眼差しが、彷徨うようにボッシュの碧色の眼差しを捕らえた瞬間。
確かに、ボッシュの気は変わったのだ。
……まるで気まぐれな風見鶏が、不意に東から北を向くような。
そんな、確証もない変化だったのだとしても。
「リュウ」
こちらを見返す若者に、にや、と笑いかけて、ボッシュはゆっくりとそう告げた。
若者の眼差しが、焦点を求めるように眇められ、自分の真上で笑う男の袖を軽く掴む。
「……それは、おれの名前?」
戸惑ったように呟かれる唇は、先ほどまでの口付けのせいで濡れて、柔らかく光る。
少し掠れた声はボッシュの耳に柔らかく響き、この鳴き声は悪くないと彼に思わせた。
「そ」
ボッシュは困ったように彼を見上げる『兎姫』の頬に触れ、首を傾げる。
「で、俺はボッシュ」
さて。これはどうしたことか。
―――飼うつもりなんて、毛頭なかった筈なのだけれど?
「おまえさ、俺んち、来る?」
さらさらした髪の毛を軽く撫でて、白いシャツを引っ張るように抱き起こしながら、ボッシュはくつりと笑った。
「……」
リュウと名づけられた蒼い眼差しの彼は、曖昧に小さく笑って。
「それが、ボッシュの望みなら」
従順の謳い文句通り、ボッシュの手を控えめに握る。
そして、困ったように眉を寄せ、確認するように呟いた。
「……でも、おれの名前、本当につけていいの。…名前をつけてしまったら、この契約、やり直しきかないんだよ?」
さあ、撤回するなら今ですよお客様。
本当に、この兎でいいんですか。
ボッシュは、その言葉にただ肩をすくめて。
手首の鎖を外して、足首の鎖を外し、輪だけ残して笑う。
「…上等。責任、とってやるよ」
飼い主としてな、とリュウの頬に、指先を伸ばして。
* * * * *
「ローンも受け付けておりますが」
裸足でぺたぺた歩くリュウを連れて奥から出てきたボッシュに、店員は全て分かっていましたよとばかりに微笑み、ボッシュの前で算盤を弾いてみせた。
「…高くないか。これ」
「……そりゃあ、とっておきの子でしたから」
よく目覚めてくれましたねえと店員は苦笑っぽく笑い「可愛がってあげてください」と付け加えた。
そして、からかうように小さく笑って。
「兎は、寂しいと死んでしまうのですから」
どうか、大切にしてあげてくださいねと。
気まぐれな若者と、従順な兎を交互に眺めるようにして告げたのだった。
* * * * *
――――そこに立ち寄ったことに、特に意味はなかった。
ただ、毎日がひどく退屈でどうしようもなくて、ぶらぶらと街を歩いていたら。
ふと見つけた狭い横路地に、何となく潜り込んでみたら。
見るからに怪しげな裏通りに、能天気に飾り付けられた看板。
犬猫の愛らしいイラストに、ポップな文字が躍る。
<可愛いパートナー! 退屈な日々を、可愛いペットで晴らしてみませんか?>
「……リュウ、おまえ字は読めるの」
「…ううん。読めない」
ボッシュに手を引かれて、ぺたぺたと歩きながらリュウは首を振る。
そして不安げに顔を見上げて「…読めないと、駄目かな」と訊ねた。
「ま、いいけど。必要になったら、俺が教えてやるよ」
このポップな広告文句も、あながちハズレではないのかもしれないと、ボッシュはリュウの掌を握りこんで考える。
…まずは靴だ。
それから、シャワーと、何処が自分の家で、誰が主なのかということ。
そこでふと、ボッシュは店員がもらしていた言葉を思い出す。
「おまえのこと、飼いたいって来た奴。他にもいたの」
「……」
リュウはその言葉に、蒼い眼差しを細めて、首を傾げる。
「さあ? おれ、ずっと寝てたから」
「…あっそ」
どうしようもなく寝汚いな、コイツ。
ボッシュは整った面差しの『兎』の間抜けた発言に眉を寄せ、つかつかと裏路地をくぐって、表通りに出た。
「…でもね」
手を引かれるままに歩きながら、リュウは小さく笑う。
「意地悪そうだけど。…おれ、ボッシュが選んでくれてよかったって思うよ?」
「……」
意地悪そうだとか、選んでくれてよかったとか。
ボッシュはわざとらしく大きく溜め息をついて「ソレ。根拠、何処にあんの?」とリュウを眺めた。
ふわりとした太陽の陽射しと、青い空の下、リュウは困ったように笑って。
「…何となく、だよ」
ボッシュの手を、柔らかく握り返した。
(確かに)
その柔らかさと、経験したことのない暖かさにボッシュは不可思議な違和感をおぼえながら。
(…退屈だけは、しないかもしれないな)
くつり、と、口の端を持ち上げた。
END.
ファイル名がうさぎひめだった。
…相当血迷ってんなこりゃ。