『utopia』




 月にも。星にも手が届かない。

 戯れに手を伸ばして、いかにも掴んだように遠き闇夜を握り締め。
 自分でも握った心地のしない掌を眺めるしかない。

 だから彼は、月か星かに似ていると思うのだ。

 太陽ではあんまり眩しすぎるし、何よりも彼に合わない。
 彼には静謐な闇夜が似合うのだ。
 それはもしかしたら、悲しいことなのかもしれない。あるいは、とても失礼なことなのかもしれない。
 それでもそう思うのだから、仕方ない。
 そして、その静謐に憧れる自分もいることを知っているから、尚更仕方ないと思う。

「あれ。こんなとこで何してんの?」
「あー。…うん。ちょっと」

 夜中、ぼけっと夜空を見上げていた僕を、不思議そうに眺めるのは、姉だ。本当は姉ではないのだけど、本人が姉だと言い張るから、そういうことにしている。

「寒くない? 風邪ひかない? 中から毛布持ってこようか?」
「ううん。いい。すぐ中に戻るから、平気だよ」
「そう?」

 平気だと言っているのに、彼女はそのまま隣に座り込む。

「寒いよ」
「リューイがすぐ戻るんだったら平気でしょ」
「…うーん」
「なによ、そのうーんって」

 むくれたようにこちらを見る姉に、ああ、こんなときあのひとだったらどうするんだろうと考えた。
 そう。まず、きっとあのひとだったら、とても上手ににこりと笑って。
 ぽんぽん、と姉の頭に軽く手を。それこそ、触れるか触れないかといった上品な触り方をしてから。
 じゃあ、戻ろうかなんて、あっさり言うのだろう。
 ひらりと掌を差し出して、冷えるからねなんてさらりと言って。

「……かっこいいなあ…」
「…? いきなり何言ってんの?」

 ああ、僕もそんな風になってみたい。
 全部が全部そういう風には出来ないだろうけど、たまに。そう、一年の内の一日くらいは、そういう日があってもいいんじゃないだろうか?

「…こんなとこに座って、何考えてたの? リューイは」
「ん?」

 不意に、姉が言った。
 子どもじみた仕草で膝を抱える。
 きっと帰ってくるよね。ジョウイは帰ってくるよね。
 あのときも、彼女はこうしていただろうか。
 そんな唐突な過去の映像が、一瞬僕の目前をよぎり。
 そして消えていく。
 今が夕焼けでなくてよかった。暗い夜でよかった。
 だからこうして、すぐに映像は消えたんだ。

「…月か、星みたいなひとのことを考えてた」
「月か、星?」

 姉は一瞬首を傾げてから「そっか、よかった」とにこりと笑った。
 姉はどんなに小さく笑っても、顔全体で笑うような印象がある。
 にじみ出るような笑顔とは、こんな感じなのだろう。顔全体で幸せそうにする、そんな彼女の笑顔のことをあのひとも好きだと言っていた。

「よかった。うん。よかった。リューイ、もっと大変なこと考えてるのかと思ったの。それならよかった」
「うん。…今はちょっと忘れてたんだ。実は」
「そう。それならもっとよかった」

 本当は違う。
 いつだって、大変なことは忘れられない。
 いつだって心のどこかに染み付いている。
 それはたとえばひとの悲鳴だとか、ひとの声だとか、傍らにいてくれない分かたれた親友の声だとか。
 姉の「よかった」の声が痛かった。
 でも、そう安心してくれて「よかった」と思う。

「私、あのひとは水か風にも似てると思うな。さらさら、するするっと通り抜けちゃうの」
「ああ、うん、そうかも」

 姉のたとえに、僕はちょっと笑った。
 そう、掴んだかと思ったら通り過ぎていく。

【君が握り締めているものは、そういうものだよ】

 つかの間の勝利に安堵し、手に入れられなかった平和に落胆し、それでも戦い続けて。
 それでも走り続けて。
 そうしてやっと手にいれたもののことを、あのひとはそう言った。

【すぐに通り過ぎていく。いつまでも握り締めてはいられない。砂か、水のように指の間からすり抜けていくんだ】

 それじゃあ、あんまりじゃないですか。

 記憶の中で、僕がそう訴える。
 すると、あのひとは困ったように目尻を下げて笑うのだ。

【そうだね。だから、大切なんだ】

 すぐにすり抜けてしまうからこそ、大切なんだ。

 ……。
 僕が記憶の中に沈みこむのに気づいたのか、それとも当初の目的を思い出したのか、やがて不意に姉がすっくと立ち上がった。

「寒いよ、リューイ。部屋にはいろ!」
「…うん」

 手を引こうとするから、子どもみたいだと振り払った。生意気だと頭を叩かれた。

「月も星も、綺麗だよね」
「……うん」
「風も水も、綺麗だよね」
「…うん?」

 姉の手が背中を押す。
 そうして部屋の中に押し込まれながら、彼女の声を聞いていた。

「いつも気がついたら傍にいるみたいな感じで。遠いけど、近くにいる感じで。私、好きだなあ。とても好き」

 きっと、いつもみたいなにじみ出るような笑顔で言ったのだろう。

 僕はその言葉に、何故か泣きたくなるような気持ちで頷いた。

 この手からすり抜けていくような幸せ。
 それだから大切なのだと、あのひとは言う。

 この手には届かないような美しいもの。
 それでもとても近くにあるような心地がして、嬉しいと彼女は言う。

 僕はそんないとおしいものを感じて、遠ざかってしまったひかりや、元々遠くにあるひかりを見つめ、口をつぐむ。

 月も、星も遠い。
 それでも、そうして見つめているのだ。









2004/01/13 表日記にて
タイトル読みは「ユートピア」。意味はどこにもない場所。届かなくて、ありえない場所。それでもひとはそれを求め、あがくのだ。