『笑って、さよなら』
「引っ越すことになった」
―――朝、会って。……開口一番、ソレだった。
「……え?」
だからリュウも、思わずきょとんと手を止めて。
「―――…え?」
十数年来の幼馴染の顔を、呆然と見つめたのだった。
* * * * *
―――初めて会ったのは、小学校に入る直前。
お隣の大きなお屋敷に引っ越してきたのが、ボッシュだった。
隣近所に他に年の近い子どもはおらず、二人は必然的に一緒に遊ぶことになる。
そして、必然的にリュウはボッシュの子分のような扱いになっていた。
何をやるにもボッシュが先で、リュウが後。
どこに行くにもリュウを従えて、小学校でもいつも一緒。
二人は仲がいいのねと先生にも言われ、少しぼんやりしたところのあったリュウはきょとんとしたものだ。
(これって仲良しっていうのかなあ…)
ぼんやりとそんな疑問を浮かべたが、それ以上考える暇もなく、またボッシュにぐいぐい掌を引っ張られる。
あっち行くぞ。ここにいろよ。
そっち行くな。僕のそばにいろ。
ワガママ三昧のお坊ちゃんに引きずりまわされるようにして、リュウの小学校時代は通り過ぎていった。
二人はお友達なのねと先生に言われ、少し無口なところのあったリュウは困惑したものだ。
(……これってともだちっていうのかなあ…)
ぼくは友達だと思ってます、とリュウはぼんやり考え、こくんと頷いた。
手を繋ぐというよりも、手を引っ張られて。
一緒に歩くというよりも、後について歩かされるように。
リュウはいつも、ボッシュと一緒だった。
「おまえは、僕のだからな」
リュウの手を握り、引きずるようにして歩きながら、ボッシュはよくそう口にした。
そうなのかなあ、と思いながら、リュウも「うん」と頷いて歩いていた。
ボッシュはとても頭が良くて、運動神経も良かったから、きっと彼が言うことに間違いはないのだろうと。
そうなのかなあ、と思いつつも、リュウはいつも「うん、わかった」と頷いていた。
「おまえは、俺のだからな」
中学校に入っても、ボッシュは相変わらず気まぐれにリュウを振り回した。
口癖も相変わらず。リュウはボッシュにそう言われるたびに「うん、わかった」と頷く。
きっとボッシュがそう言うのなら正しいのだろう、と考えながら、ボッシュに手を引かれるままに歩いていた。
「おまえは、俺のだからな」
少しだけ差がついた、身長差。大きく差がついた、バレンタインのチョコの数。
それでも、ボッシュの口癖は相変わらず。
高校に上がってからも、リュウは相変わらずボッシュの「もの」だった。
随分女の子に騒がれるようになった綺麗な顔と、意地悪で冷たい性格。
いつもつまらなさそうに冷たく笑うその顔が、リュウと接するときだけ、ほんの僅かに崩れる。
それが少し嬉しいなんて、リュウもこっそりと思っていた。
口に出してボッシュに言ったりしたら、何を言われるか分かったものじゃないから。
いつもいつも、こっそりと思っていた。
(おれは、いつまでボッシュのものなんだろう)
そんなことをようやく考えるようになった、高校二年の春。
―――リュウはボッシュにファーストキスを奪われた。
* * * * *
「引っ越すことになったって…」
リュウは抱えていたゴミ袋を玄関にどさどさと落として、目を丸くする。
「…汚い。さっさと捨ててこいよ」
ボッシュはそんなリュウに顔をしかめて、ゴミを避けるようにして外を示した。
「う、うん……。ちょっと待ってて」
…今日は生ゴミの日。
数年前から海外勤務となった両親のおかげで、すっかり板についてしまったリュウの主婦業。
「ストップ」
そのままぱたぱたと小走りにサンダルをつっかけて、玄関から抜け出すリュウの腕を、ボッシュはむんずと掴んで引き戻す。
「え」
どさどさと、また落ちるゴミ袋。ゴミ袋が引っかかって、緩く開いた玄関のドアの向こうに見える、平和な朝の風景。
(引っ越すって)
それを視界の端にとらえ、リュウはまたぼんやりと先ほどの言葉を心中で復唱する。
その顎を、冷たいボッシュの指先がとらえて。
「……ん」
「ッ……ふ…」
軽く歯をかち合わせるみたいにして、唇を塞がれる。
「やッ……だ、だめ……外から…みえ……ンッ…」
くちゅ、ちゅ、といやらしく舌を絡められ、リュウの息が上がった。そんなリュウをからかうように、ボッシュの舌は散々彼の口内を愉しんだ挙句。
「続きは、後でな」
ぺろ、とリュウの唇を舐め上げ、彼の体を玄関から押し出す。
「……か、勝手ッ…!」
リュウはなすがままに押されて呻きながら、ゴミ袋を憤然と掴み上げた。
(…引っ越すって)
ずかずかと大股でゴミ捨て場まで歩いて、どさどさとゴミ袋をおろす。
からかうようなキスの名残に翻弄される自分を感じながら、リュウは溜め息も一つ、ゴミ捨て場に落とした。
(いつも突然で、いつも勝手で)
心の中で呟きながら、ふと立ち止まって、お隣さんを見上げた。
いつも立派で綺麗なお屋敷は、今日もやっぱり立派で綺麗だ。
「……ボッシュは、いつもそうだ」
小さく呟いても、返事はない。
……初めてキスされたときも。
…………初めて、押し倒されたときも。
(いつだって勝手で、突然で)
リュウは顔を歪めて、シャツの裾をぎゅうと握った。
(大事なことは、何一つ言ってくれない)
* * * * *
「何。そのカオ」
…高校二年の春。
初めて、ラブレターなるものをもらって。
……初めて、告白された。
「え……あ、うん。……うん…」
ちょっと考えさせてもらえますか、こういうの初めてなんでとロボットみたいにかちかちになって答えて、教室に帰ると。
「理由は的確、かつ簡潔に言えよ」
面倒くさそうに足を組んで、ボッシュがリュウの机に座っていた。
「……あ、あの…さ」
ちょっと、可愛い子だった、とリュウはおろおろしながら、ボッシュにたどたどしく説明した。
しょっちゅう女の子に呼び出される(そしてしょっちゅう女の子を泣かせて帰ってくる)ボッシュなら、きっとこういう事態に慣れているものだと思ったからだ。
どうしようどうしようとうろたえるリュウを、何だかボッシュはとても冷たい眼差しで眺め。
「別に。…どうもしないんじゃん?」
リュウのうろたえる掌を捕まえて、壁の間にリュウを囲い込んで。
「え」
目を見張るリュウの唇を、塞いた。……彼の、唇で。
「……ん……ん、ふ…ん、ン、ンンッ…!?」
目を見張って、呆然として。
足ががくがくと震えて、顔が熱くなって。
……ただ、やけにボッシュの手が熱いとか。
押し当てられた体の鼓動が、早いとか。
そんなことばかり、ずっと考えていた。……ラブレターのことも、ちょっと可愛いかった女の子のことも、考えられず。
「おまえは、俺のだからな」
だから、どうもしない。
……そう低く呟いて。
ボッシュは、捕まえたリュウの掌にキスして、苦笑ともとれなくない具合で、唇を歪めた。
「あんなに、何度も言ってたのに」
おまえ、知らなかったのと。
* * * * *
「メシ」
ゴミを捨てて、手を洗って居間に向かうと、ボッシュが当然のような顔でソファに腰かけている。
「…うん」
新聞をがさがさと広げて熱心に経済欄を読んでいるボッシュに、もしかしたらさっきの引越し宣言は冗談だったのだろうかと考えながら、リュウは食パンを二枚トースターに押し込んだ。
「……」
先ほどのキスの名残など何一つとどめない冷静な顔で、ボッシュはリュウの方を見ようともしない。
「……引っ越すって、どこ?」
その前によく焼いたトーストを置けば「ジャム塗って。いちごの」と命令が返ってきた。リュウは「引っ越すって」ともう一度辛抱強く訊ねながら、冷蔵庫からいちごジャムを取り出す。
かりかりのトーストに甘ったるいジャムをたっぷり塗って渡して、ぬるめのコーヒーを置いた。
そして自分のには何もつけずに、リュウはそのままかり、と口に含む。
「…B−7地区。ここからだと、電車で3時間くらいか」
ようやく時間差で返ってきた言葉に、リュウはこくん、とパンの欠片を飲み下す。
「……結構、遠いね」
そして、ようやくそう呟けば「かもな」と平然とした声が返ってくる。
(……平然と?)
その声にリュウは軽く瞬きをして、目を伏せた。
(……ボッシュは、平気なんだ?)
かぷ、とパンに噛み付いて、よく焼けたトーストをかじる。
添えた飲み物はブラックのコーヒー。
両親が海外に赴任してからは、こうやってボッシュと毎日朝食を食べるのがお決まりのメニュー。
手間は一緒だろ、と弁当も作らせ、当然のようにソファを陣取る。
「…引っ越すの、いつ?」
もそもそと味気なくトーストを飲み下し、ぱんぱんとパンの粉を払って尋ねた。
「明後日」
今度はあっさりと答が返ってきて、リュウは再び絶句する。
「……、……随分、急だね」
「ま。親父の仕事の都合もあるしな」
「……あの屋敷は、どうするの?」
「もう売りに出した。…買い手がつくまで、しばらくかかるかもしんないけど」
「…口元、ジャムついてる」
「とって」
「……うん」
濡れた布巾でそっとボッシュの口元を拭ってやりながら、リュウは言葉を探して黙り込んだ。
ボッシュの目は、相変わらず株価の変化を追っている。
「……」
「……」
リュウはぱたり、と布巾をテーブルに置いて、小さく嘆息した。
その吐息を聞きつけて、ボッシュが顔を上げる。
……そして、にやり、と笑ってみせた。
「なに。…寂しい?」
そうして、泣いてもいいよ、なんて。
……からかうように、笑ってみせるのだ。
「……」
リュウは唇を軽く噛んで、ボッシュを睨んだ。
それから、小さく絶望した。
(……ボッシュは、平気なんだ)
延々と、引きずり回された十数年。
…3時間の距離は、遠い。今までのようには、もう会えない。
……今までのようにからかうようにキスされたり、抱きしめられたり。
恋人の真似事をしたりも、出来はしない。
「明後日、見送り、いる?」
リュウは声を事務的に抑えて、ソファから立ち上がった。
「おれその日、バイトあるんだ。朝からの、順番だから。ちょっと見送りに行けないかもしれないんだけど」
「……」
ボッシュは軽く肩をすくめ「あっそ」と呟く。
「んじゃ、いらない」
新聞の上からちょっとだけ顔を出して、リュウをちろりと見やって。
「別に子どもじゃあるまいし。…わざわざ見送りなんていらないって」
「……うん」
その声に、リュウは胃の底がひやりと冷たくなるのを感じながら。
「じゃあ、行かない」
きっぱりとそう答えると。
……ソファの背もたれに、軽く腕をついて、ボッシュに小さく笑ってみせる。
「元気でね」
「……」
平気な顔をして、笑ってみせる。…何一つ不自然なところなどないように、優しく笑ってみせる。
「…ボッシュのことだから、どこに行っても元気だろうけど?」
からかうようにそんな言葉を付け加えてみたりして、平然と笑ってみせる。
(…せめて、平気な顔をしよう)
心が小さく軋むのなんて、きっと気のせいだと笑って。
(……こんな勝手な男に、泣いてなんかやるものか)
おれだって平気なんだと、当たり前のように笑って。
「……」
ボッシュはそんなリュウに、目を細めると。
「あ、そ」
―――…腕をぐい、と引っ張って、ソファの上に引き摺り下ろした。
「わッ…!」
そのまま、きつく腕をつかまれ、起き上がろうとしたところを押さえつけられる。
そして、仕草ばかり甘えるようにのしかかられて、ちっとも笑っていない冷たい目で、リュウをじろ、と見下ろして。
「…しようぜ」
くつ、と笑って、リュウの上着を剥ぎ取った。
「ヤッ……あ…やだッ…こんな……朝からッ……ンッ!」
悲鳴を吸い取られ、ソファに沈められ。
「んッ……ンーッ…!」
―――食卓の上を片付けないまま、朝から腰の立たないオアソビになだれ込む。
(……笑ってサヨナラって、手を振ってやる)
崩れ落ちそうになる膝をこらえて、首筋に噛みつかれ、声をあげながら。
(ボッシュが平気だっていうんだったら、おれだって平気だ)
深く深く貫かれ、リュウはほろりと涙を一粒こぼした。
* * * * *
男同士なんだよおれたち。
幼馴染なんだよおれたち。
好きだなんて、一言も言われてないんだよ。
好きだなんて、一言も言ってないんだよ。
……だからきっと、いつか。
初めてキスされて。
初めてセックスして。
二人だけの夜、二人だけの朝。
二人だけの秘密を抱えて、リュウは覚悟を決めたのだ。
………きっといつか、サヨナラが来るから。
俺のものだとしか言わない傲慢な男にキスをして、小さく笑ってみせた。
ちょっとだけ、可愛いかった女の子。
名前もよく知らないような、遠い女の子。
彼女にキスをしても、同じように切なくなっただろうかと考えながら、そっと目を眇める。
嫌悪感は不思議となく、相変わらずリュウの中には戸惑いばかりが残った。
おれはボッシュのものなのだろうかと、ぼんやり考えた。
(それでも、ボッシュはおれのものじゃない)
そのことは、思った以上にリュウの心を締め付ける。
ひどく切なくて切なくて、ぎゅうと心を締め付ける。
………きっといつか、簡単にサヨナラが来るから。
リュウはその戸惑いにそう言い聞かせて、軽く指先で、唇の端を上げた。
(そのときはきっと、笑ってさよなら、しよう)
当たり前のように笑って。
ボッシュの前でなんて、決して泣かないように。
……当たり前のように、笑ってあげようと。
* * * * *
二日後の朝は、呆気なく訪れた。
アルバイトに行く前、欠伸を噛み殺しながらお隣を眺めると、忙しく引っ越し業者が何人も出入りしている。
(ああ、そういえばボッシュに合鍵預けたままだ)
当然のような顔をしてリュウの家に出入りするボッシュに根負けして、合鍵を預けたのは数年前。
これでは本当に恋人を持ったようだと困惑する心を抑えて、ボッシュに手渡した合鍵。
彼はキーホルダー一つつけず、ポケットに放り込んだ。
さんきゅ、と呟いて、無造作に放り込んだ。
(いつものことだけど。…ボッシュってホント)
そこまで考えてから、リュウは軽く首を振って心の中の言葉を押し殺した。
(もういい。……ボッシュとは、もうこれで金輪際会わないんだから)
それでいい、と首を振って、リュウはアルバイトに向かった。
振り向かないように前を向いて、歩いていった。
「…さよなら、だね」
誰にも聞こえないように小さく呟いて、まるでこれでは少女漫画だと苦笑いながら。
……仕事をしていれば、時間なんてあっという間に過ぎる。
折角だからアルバイトを増やしてしまおうかと考えながら、家のドアに鍵を差し込んだ。
(いつもだったら、ボッシュが勝手に鍵を開けて中に入ってるんだけど)
かちりと手ごたえ。
さあ、中で遅めの昼食をとろうとドアノブを回す。
……しかし。
「……?」
がち、がち、と何度回してもドアは開かない。
「……」
そんなバカなことがあるわけないと、リュウはドアノブを回し続ける。
……お隣は、すっかりもう片付けられていて。
そんなバカなことがあるわけないと、リュウにまた認識させるのに。
からり、と、すぐ横の窓が開いた。
(……そんな馬鹿なことがあるわけない)
リュウは呆然と、窓を見上げる。
「泣いて縋ったら、種明かししてやろうと思ってたのに」
相変わらず勝手な男は。
……そんなことをほざいて、当たり前のような顔で、そこで笑っていた。
「…………。……忘れ物でもとりにきたの…?」
リュウが呆然としたまま訊ねれば「ばか」と苦笑する。
「何でおまえを置いて、どっか行かなきゃなんないの」
その声は、相変わらず面倒くさそうな声音だったけれど。
「……今開けるから、待ってろよ」
面倒くさそうな、そんな調子だったけれど。
「……」
リュウはぺた、とドアの前でしゃがみこむようにしながら、頭を抱えた。
「………」
その目の前で、ドアが大きく開く。
「……。……引っ越したのは、家と俺の家族だけ。俺、今日からこっちに住むわ」
勝手なことをぬかしながら、勝手な男が、これからもおまえを振り回すと宣言した。
「……」
リュウは手を引かれるようにして中に入りながら、思わず、大きく溜め息をついて。
「何。その溜め息」
「……知るもんか」
拗ねたようにそっぽを向いて、泣き笑いじみた歪んだ表情を、隠した。
END.
ことばたらず。
この小説に限らず、私の話は伝えたいことばかり先走って色々空回りしている傾向がつよいですね。