『夕焼幻想』


「明日、晴れるといいな」

 唐突に、太一が呟いた。
 …光子郎は横を見ることもせず、ただうずくまっている。
 いつからこうしていただろうか。
 ……呻くように、声を漏らして。
 ………悔しげに、地面を見つめて。
 腫れた頬だとか、血を流す膝小僧だとかを見つめていた時間が長すぎて。…光子郎にもよくわからなくなってしまった。

 喧嘩というほどのことじゃない。

 ただ、ひどく悔しくて。
 黙っていられなくて、つい、手を出してしまった。
 簡単に振り払われた手足。
 躊躇なく振り下ろされた拳。
 どれもこれも、呆気ないくらいに光子郎を痛めつけた。
 …勿論、相手にも幾つかの傷が残したけれど。
 頬に。腕に。足に。
 むき出しになっているところは、全て引っかいて。蹴り飛ばして。殴って。

 何がそんなに悔しかったのだろうかと。

 ふと、疑問に思う。

 …今更のように。唐突に。

 ただ、ひたすら悔しくて仕方がなかった。
 そんな感情のうねりは、はっきりと覚えているのに。

「…イテ」

 太一が小さく呟いた。
 …その声に、光子郎がぼんやり眼差しを移すと…戯れにか。太一が薄く切ってしまった傷口の皮を、ぺりりと剥がしているところだった。
 たちまち赤い血の粒が盛り上がり。…じわりと傷口から溢れ。流れていく。
 沈み始めた太陽の光ともあいまって、その色はひどく赤くて。…場違いに綺麗だった。
 すんなりとよく伸びた足。
 …このくらいの歳の子どもは、皆体を軋ませるようにして成長する。
 脱皮をしないニンゲンという生き物は、皮を破らないよう、それでも確実に大きくなるように出来ていて。
 ぎしぎしと骨を軋ませ、皮をゆっくりと広げるようにして、成長していくのだ。
 それを止めることは、誰にも出来ない。
 ……そう。神様にだって、きっと。
 
 動き始めた時間は、誰にも止められないのだ。

 転がりだしたボールを止めるのとは、わけが違う。
 全ての摂理を背負って動き出したものたちは、止まることを知らず。
 …崖に向かって行進を続けるという、あの鼠たちにも似て。
 全ては転がっていくのだ。
 ……光子郎になど、到底預かり知らぬところで。

「…太一さんは」

 漏れ出た声は、ひどく掠れていた。
 そういえば、喧嘩をしながら散々わめいた気がする。
 喉が、痛い。
 太一は「ん」と答えたきり、黙っている。
 その沈黙を破るため、光子郎は懸命に喉から声を絞り出した。

「太一さんは」

 名前を呼んだきり、何を問えばいいのか。
 …言葉がないわけではない。
 溢れすぎて、言葉にならない。
 渦巻く思いや、葛藤や、苦しさ、憤り、行き場のないものたちが出口を求めて彷徨っている。

「…太一さんは…」

 光子郎は喉をぎゅうときつく押さえた。…とても苦しい。
 どうしたらいいのかわからない。…それが苦しい。

「明日晴れたら。…どうするんですか…?」

 ――ようやく言葉になったそれは、自分でも良くわからないような。…埒の明かない言葉で。

「…サッカーする」

 太一がゆっくりと。…しかしはっきりとその言葉に答えたことが、何故か悔しかった。
 ―――このひとは誰にも頼ることがないのだ、と。
 どこか絶望的に、思う。

「……」

(そうだ)

 唐突に、光子郎は思い出す。
 確か喧嘩のきっかけも、それだった。
 誰にも頼ることのない人。
 悩んでいる素振りも見せず、一人で傷ついて、一人で立ち直ってしまう人。
 それに苛立って、食い下がった光子郎に返ってきたものは、残酷なくらいに簡潔な拒絶だった。

 貴方を助けたいのだ。
 一人で抱え込まないでほしいのだ。
 自分にも手助けをさせてほしいのだ。

 …そう訴える光子郎を簡単に突き放し、太一はまた一人で立ち上がる。
 その足にどれだけの負担がかかっても。その心にどれだけの負担が、かかっても。

 なんて嫌な人だろう。
 ……なんて、嫌な人だろう。
 光子郎はぎり、と奥歯を噛み締めて、立ち上がろうと膝に力を込めた。
 …太一が、それに手を貸す気配はない。
 光子郎の視界の外で、彼はただ黙っている。

 夕陽が沈んでいく。

 それを、死となぞらえて、不吉なものととらえたのは誰だっただろうか。
 美しくて、恐ろしいもの。
 …不吉で、美しくて。
 日々、時が巡るごとに、死と再生を繰り返すもの。
 遙か昔から変わらない自然の巡り。
 それを呪うように見つめ、光子郎は、やっと太一に眼差しを移す。
 一人で好きにすればいいと言ってやろうか。
 それとも、ただ、さようならと言って去ろうか。
 苛立ち、波打ち、哀しむ心を抱え、光子郎は太一を見つめた。

「……」

 …きっと、涼しげに。
 ……何事もなかったように。
 もしくは、意地になったような仏頂面でいるのだろうと。
 そう、思っていた、太一の表情は。

 光子郎の意に反して、ただ、ひどく頼りなげな目をしていた。

「………あ」

 何と言っていいのか分からず、言葉を失う光子郎に、太一はぼんやりと笑う。
 軽く唇を歪めてから、戸惑ったように頬を強張らせて。
 …ゆっくりと瞬きをして。

「……明日」

 その瞬間。太陽が気まぐれなきらめきを放って、光子郎の目を灼いた。
 そのせいで、見逃してしまった。
 ……見たこともないような、太一の惑ったような、表情。

「明日、晴れるといいな」

 太一はもう一度呟いて、光子郎の傍を通り過ぎると、彼の頭にぽんと掌を置いた。

「……はい…」

 光子郎はぼんやりと返事をして、太一の後姿を目で追う。
 …相変わらずその背中は、手助けだとか。労わりだとか。…そんな慰めを拒絶していて。
 しかし、それでも光子郎は。

「……」

 真っ直ぐ歩いて、太一の後をついていった。

 …引っかいて。蹴り飛ばして。殴って。
 言葉で伝えられないもどかしさと苛立ちを、訴えて。

 それで残ったものは何だろうかと、追いつけない背中を見つめながら、ふと思う。

「光子郎」

 立ち止まらず、振り返らず。
 …不意に、太一が光子郎の名を呼んだ。

「…はい」

 その背中を見つめるようにして光子郎が応じれば、太一は、いつもの落ち着いた声で。
 当たり前のように、彼に言う。

「明日、晴れたら、一緒にサッカーするぞ」

 しよう、でも、しようか、でもない。
 …太一らしい、決定済みの言葉。
 光子郎は、引きつれた頬でそっと笑った。

「…明日、晴れるといいですね」
「そうだな」

 距離にして、おおよそ三歩。

 光子郎はいつもの距離を置きながら、痛む頬を押さえて、軽くめくれた傷口に触れた。
 そして、その剥がれた薄い皮膚を(まるで先ほどの太一の仕草なぞるように)ぺりりと剥がす。
 …恐らく、血が滲んだのだろう。
 赤い雫が、彼の指を汚した。
 傷を負えば、血が流れる。
 そんな当たり前のことを思いながら、坂道を下って。
 また明日、と手を振って別れた。

 誰も知らないところで勝手に傷ついて、勝手に立ち直って、勝手に歩いていく、勝手な人。

(それを無理に暴いて、僕を頼ってくださいというのは。…ただの我侭ですか)

 手を振って、背中を見つめながら思う。
 …夕陽の中に消えた、頼りなげな一瞬の表情。
 それを支えて、手を引きたいと思うのは、下らない感傷でしかないのだろうか。

(…じゃあ、僕は我侭でかまいやしない)

 振っていた掌を下ろして、マンションの階段を上る。
 頬の血を流れるままに任して、高いところまで上っていく。

(貴方が勝手だというのなら、僕も我侭でいいじゃないか。…頼りたくないというのならそれでもいい)
(僕が勝手に傍にいる。僕が勝手に控えている。…我侭でかまいやしない。拒絶されたってかまうものか)

 階段の踊り場からは、空が見えた。
 赤くて、広い。…遠い空。
 沈む太陽。
 終わる世界が、そこに広がっている。

「仕方ないでしょう。…僕は、貴方が好きなんだから」

 おせっかいも、我侭も、勝手も。
 明日また陽が昇るように。
 そして、沈むように。
 ……光子郎の中の摂理として、組み込まれているのだから。
 
 光子郎は真っ直ぐに立って、歩いて、自宅のドアを開けた。


(明日晴れるといい)


 そのとき初めて、心底からそう思って。
 光子郎は、緩く首を振る。

 そうすれば、何の言い訳もなく。

 …あのひとに、会いに行くことが出来るのだから。


END















わけのわからない話です。
背景も何もあったもんじゃない…。
どうして光子郎と太一さんが喧嘩したのかも分かりませんね…。
正直私にもわかりません。(うわあ)
ただ、とにかく、太一さんに光子郎がむかーっとしている話が書きたくて。
でもって、懊悩している話が書きたくて?

…ここのところ、光太はリハビリ続いてます。

今回もわりと光→太?

………そして、これが御礼小説用に書いたネタだったなんて。
……言えやしない。…言えやしないよ…。くくく。(言いながら脱力)