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第7日 国境への長い道−昆明から河口へ

 少々疲れもたまってきたが、今日はとにかくバスで雲南省最南端にしてもっとも標高の低い街河口までバスで突っ走る。所要時間は6時間とも10時間ともいう。そして、これからの3日間はとにかく移動である。旅に移動はつきものとはいえ、いささか無茶である。どういうことになるやら。
 もともと昆河線に乗ることが目的で来た旅行で、それが運休中なのだから無理して河口へ行かなくてもよかったのだが、せっかく苦労してベトナムのビザをとったこともあって、ベトナム側の鉄道は動いているという情報だったのでとにかく行くことにしたのである。

7.1. 長距離バスに乗る

朝、バスターミナル近くのホテルで朝食をとろうとするのだが、ロビーラウンジがイベントのため閉まっていて、よくわからずうろうろ。結局、20元も払って宿泊客用の朝食バイキングにまぜてもらう。
 バスターミナルに行くとバスはもう停まっているのだが、様子がおかしい。運転手が油まみれになってエンジンをいじっている。韓国大宇製の大型バスだが、クーラーがかかっていないので車内は蒸し風呂だ。30分もしたころにようやくエンジンがかかった。
 待っているうちにトイレに行きたくなり、ターミナルのトイレに走る。バスターミナルは全体として日本の古いバスターミナルとほとんど変わらない雰囲気で、待合室、乗車券売場、売店、乗車口などほんとうに懐かしいしろものだが、決定的に違うのがトイレだ。料金を払うのはむしろ衛生や安全面で安心だが、中は当然中国式で、個室にドアがなく、出したモノはいくつもの個室を貫いて流れている溝におち、上流(?)から流れてくる水で排出されるというもの。人目にさらされながら個室にいるのはいい気持ちではないが、郷にいれば郷に従えである。また、みんなそれを当然としてしゃがんでいるので、恥ずかしい気はあまりしない。
 トイレを観察していたら遅くなり、運転手がいらいらして待っていた。発車するところを妻があわてて止めてくれていたらしい。平謝りに謝る。
 バスは中年男性の運転手2人、車掌の若い女性の3人で運行されている。発車後、車掌がミネラルウォーターを配る。後には記念品のような小さなものもくれた。こういうのも運賃に入っているのは日本と同じで、鉄道のサービスが相対的に悪く見えてしまう原因の一つである。シートも狭いとはいえいちおう少しはリクライニングするし、結局最後まで道路状態がよかったので乗り心地自体は悪くなかった。クーラーが最後まで不調で、悪臭がするのと変に冷える割にべたべたするのは少々閉口したが、ひどく不満というものでもなかった。運賃は112元と安くはない。

 結局40分ほど遅れてターミナルを発車。以前天津から乗ったバスが着いた北京のターミナルもそうだったが、バスの車体幅ぎりぎりという感じの狭い通路から表通りへの出入りがあるのが不思議である。バスの大きさは昔とそんなに劇的には変わっていないと思うのだが。しかし、考えてみれば日本最大のバスターミナルである新宿西口もバスは裏通りの飲み屋街を通って入ってくるので、あまり変わらないともいえる。

7.2. 石林への道で昆河線を見る

 発車したバスは、昆明駅前をぬけて陸橋で線路をこえ、快適な高架高速公路を東へむかう。市街地をはずれたあたりでいきなり裏道に入り込むので驚くが、これは高速公路どうしの接続道路ができていないためのようで、すぐに別な高速公路に乗り入れる。 料金所をすぎたあたりから片側一車線になる。高速公路といっても、日本の高速道路のように自動車専用・片側2車線以上というものだけでなく、日本で言えば整備された国道という程度のものもあり、この場合は沿道に普通に建物が建っていて、歩行者もいるし、まれには信号もあるが、そうした区間にはいってきた。とたんに渋滞につかまる。いきなりほとんど動かなくなってしまったので何事かと思うが、実は過積載のトラックが上り坂や急な下り坂(下り坂のほうが危険なため、なお遅くなる)ではほとんど人が歩くようなスピードで走るため、後ろがふさがるのである。道幅が多少広いところや対向車がいないときに追い越していった車のぶんしか前へ進まない。ようやく2,30分も停滞したあと問題のトラックを追い越したが、旧型のトラックに山のように荷物を積んでいた。対向車線をみていても、こうしたトラックが実に多い。物流の整備が遅れているのに経済発展が急速に進んでいるのを、一人親方や家族営業のこうした非合法トラックが支えているのであろう。逆に、内陸のせいもあるだろうが海コン(海上輸送用の大型コンテナ)トレーラーなどはほとんどみかけない。

 問題のトラックをおいこしたあったりで数キロにわたる急な坂を下りきると、右側の車窓に湖面がみえ、有名な「でん(さんずいに真)池」かと思ったがこれは「陽宗海」であった。「でん池」は歴史上も有名な湖で、司馬遼太郎の「街道を行く 雲南への道」にも記述がある。南岸には明の時代に東アフリカまで踏査にでかけたといわれる鄭和の出身地もあるので、ちょっと眺めてみたい気もしていたのだが。「陽宗海」湖畔の街は昆明市民のリゾートになっているようで、「温泉」の看板をかけたホテルが多数あった。

 左の車窓に目を転じると、畑の向こうに線路が見え隠れする。北側の山すそに沿って長大な貨物列車が走っているのは であろう。しかし、より道路に近い低地をつかずはなれずしている線路は一見して狭軌であり、おそらく昆河線のものだろう。路盤はきちんと整備されていて、放棄されている様子はない。

 これは広軌線の橋

 湖岸を離れ、有名な石林へむかう山道にさしかかると、線路は今度は右側のきりたった崖っぷちをところどころトンネルをうがちながら進んでいる。そうはいっても道路を通すくらいの平地はある谷間なのに、なぜか困難なところに線路を敷いている。トンネルはうわさに聞く手堀りのものかどうかわからないが、岩盤をそのままうがったもののように見えるのは確かだ。と思うと、数量の工事用車両を連結したディーゼル機関車が向こうからやってきてバスとすれ違っていった。5日前に昆明北駅でみたものと同じような感じである。どうやら、なにか工事はしているようだ。とすれば運転再開の可能性もあるのだろうか。未練が残るところである。

 昆河線のトンネル

7.3. 高速公路をバスで飛ばす

 石林風景区がもう近いというところに交差点があり、我々のバスは右折し、昆河公路に入る。いよいよこれから河口まで一本道だ。直進すれば石林を通って広西方面へ向かう幹線道路である。交差点付近には野生動物料理の看板を掲げた店がいくつもあり、これがSARSの原因を疑われているものなのであろう。
 右折してからしばらくは人家もあったが、やがて道路が真新しい立派なものになると、逆に人家や田畑はほとんど視野に入らなくなる。赤土の台地に大きな石がごろごろする荒涼とした風景が数十kmも続く。それでも高速公路の下の旧道をタクシーが走っているのをみかけたから、どこかに人里があるのだろう。長い長い下り坂をバスは快調にとばしていく。
 やがて山が両側から迫り、カーブの多い急な下り坂となる。そして急に視界が開けると広い盆地に出た。田畑が広がり、所々に街がある。料金所をすぎた、一般道路との交差点付近でバスは道ばたのドライブインの駐車場に入ってとまり、乗客数名をおろした。昆明から実に4時間ぶりの「停車」である。おそらく弥勒(おかしな地名である)であろう。このあたりから、紅河哈尼(ハニ)族イ族自治州である。

 弥勒付近

 中国の都市間路線バスは、旧国営・公営企業が民営化された大手と、個人営業の小規模事業者が運行するものに大別される。いま我々が乗っているのはおそらく前者であり、大理から麗江まで乗ったのはおそらく後者である。いずれにせよ、一定規模の都市にはバスターミナルがあり、その街を発着するバスはそのバスターミナルに行けば乗ることができる(複数のバスターミナルがある場合、必ずしも方面別に分かれておらず、別なターミナルから同じ行く先のバスが発着することがあるので注意が必要である)。
 その街を発着しないバスで途中乗降する場合、またはそもそもバスターミナルがないような街はどうするのか。これが実は部外者にはよくわからない。昆明−石林間では道ばたにバス停らしい看板をかけて路肩を切ったところがあったが、このバスはそうしたところには停まらなかった。道ばたの適当なところで手をあげてとまってくれるバスを待つしかないようにも思えるが、今回や、大理から麗江まで乗ったバスが通った鶴慶などのようにある程度の規模がある町ではだいたい幹線のバスが停まる場所が決まっているようだ。なんの表示もでていないが、道ばたに人がたむろしていたり、タクシーやバイタクが待っているのでなんとなくそれらしいことがわかる、という位である。地元の人たちはもちろん知っているのだろうが・・・。
 なお、都市内の路線バスには日本でイメージできるようなバス停がある場合がある(少なくとも北京、天津、昆明、大理はそうだった。麗江は?)。

 広々とした盆地に広がる畑の中。天気は快晴。これで走りが順調なら快適なのだが、しばしば渋滞につかまる。並んでいる車に地元の人が果物を売りに来る。
 この周辺は 自治県である。同じ雲南とはいっても大理や麗江などの北西部とは家のつくり、地元の人々の服装なども違った雰囲気である。とうもろこし畑が多いのは同じだが、工場や鉱山関連の施設がしばしば目にはいるのは異なっている。

 さらに一つ峠を下り、午後4時近くなってから、これまでにない大きな町に近づく。この地域の中心都市開遠である。近くには古い炭坑もあり、工業都市でもある。鉄道・道路網の結節点で、昆河線最大の支線もここから伸びている。バスは市街地には入らず、町外れの大きな交差点に停まって数人を降ろす。ここでもバイタクが客待ちしているだけで、停留所らしきものはない。
 発車してすぐに、セメント工場の駐車場にバスは入り込む。道路に面した食堂でようやく昼食休憩だ。中国では、お昼をはさんで走るような長距離バスでは運賃に食事代が含まれていることが多いらしいが、このバスでも昼食が用意されている。開遠に近づく頃に交代運転手が携帯でどこかと盛んに連絡をとっていたのはどうやらこの件だったようで、食堂では温かい食事が準備されていた。
 食事は定食で、ごはん、肉野菜炒め風のおかず、揚げ物、漬け物、スープといったオーソドックスなもの。食器はメラミンやアルミの安物だし、味もおいしいとはいえないが、バスのクーラーに疲れていたこともあり、暑くてもも温かい食事はうれしい。ただお箸が包装されていないものなのがちょっと心配で、ミューズで拭いておく。

 ここのトイレはセメント工場のトイレを借りるのだが、露天にレンガの壁を作って、溝を掘っただけのものである。ただ、これでもトイレがあるだけましというのが80年代中国僻地をさんざん旅した妻の話である。

7.4. 開遠から蒙自へ

 日がやや傾きはじめたころ、40分ほどの休憩を終えて発車する。開遠からさきしばらくは比較的開けた地域で、広い盆地に点々と町がある。高速公路も、もう新設の自動車専用道路ではなく、普通の国道の雰囲気になり、いくつもの町中を抜けていく。人々の生活がかいま見えるのは楽しい。どこでも町中は人が多くにぎわっている。タクシーやバイタクも多いし、必ず電器店があってテレビやビデオを積み上げて売っている。北京からみれば辺境のこの地でも、工業地域やその周辺では生活水準が急速に向上しているのだろう。
 しばらく走ると、この自治州の州都である箇旧への分岐点に着く。箇旧方面に向かう人はここで降りなさいと車掌がアナウンスし、数名が降りる。タクシーかバイタクに乗り換えるのだろうか。昆明と開遠や箇旧を結ぶバスもあるのだが、このバスを途中まで利用する人も少なくない。それぞれ理由はあるのだろうが、一つには大型バスがやはり乗り心地がよいということがあるのではないだろうか。河口行きは他のターミナルを発車したとみられる別な大型バスも走っていて、時々抜きつ抜かれつしていたのだが、昆明−開遠などのバスは見かけた限りでは小型バス(我々が大理−麗江間で乗ったのと同じ南京IVECO製が多い)がほとんどであったので、そう感じる。ちなみに、よりローカルな区間を表示した、バス会社名も表示されていないような路線バスはかなり古い日本製マイクロバスなどが使われている。

 分岐点での停車のあと、ふたたび線路に出会う。地図で見る限りこれは昆河線ではなく、石屏方面へ向かう支線か、そのまた枝線であるとみられるが、ここも路盤はしっかり整備されていて、バラストも新しい。単に抜本的整備のための運休なのではないかという気もしてくる。
 というのも、開遠からその南の蒙自にかけては経済開発のため特別区に指定されており、工業化が進められている状況がある。蒙自でもバスは市街地には入らず郊外で停車したが、そこには真新しい巨大な建物が畑のまんなかにできており、なにかと思うと工科大学なのである。この昆明ー河口間の高速公路の整備も、こうした動きと無関係ではないと思われるが、工業原料や燃料などの大型貨物の大量輸送は道路だけでは限界があるのは確かで、世界的に見ても内陸工業地域は水運か鉄道が確保されていることが多い。この点で昆河線は中国の他地方とは軌間が違うので接続されていないが、ベトナムのハイフォン港とは直結されているのであり、廃止するのはあまりにもったいないといえよう。ただもちろん、旅客列車は別問題であるので、そちらの運行再開は未知数だが。
 ちなみに、高速公路と昆河線は大きく言えば並行しているが、 付近、開遠、 で同じ町を通るだけでほとんどルートは異なる。

 蒙自から山間部へ入ったあたり

7.5. だんだん山の中へ

 数名が乗車した(このバスを待っていたとしたら、いったい何時間待っていたのか?)蒙自をすぎると急に山が迫ってくる。蒙自市内線のバスと接続するらしい(あとですれ違った)ところでもう一回停車したあたりを最後に、町らしい町はなくなり、ごくたまに小さな集落をすぎるだけの険しい山道になる。地図をみても、それまでは数キロごとにあった町が、この先は18キロ、25キロ、31キロとあいだがあいている。
 ゆっくりと暮れていく夕暮れの山道を、バスはぐいぐいと上っていく。途中、路肩が広がっていてもとは売店くらいはあったらしいところで停車して休憩。日本の山の中にもあるような崩れかけたぼろぼろのトイレを使うが、周辺にはまったく人家もないのに、売店の廃墟のところに若い連中が数人たむろっているのが気になる。こんなところで強盗にでもあったらどうしようもないなあという不安もよぎる。対向車も非常にすくなくなってくるのだが、そんななか公安のパトカーが時々通るので、もしかしてぶっそうなのかという気もしてくる。すでに午後6時近く。本来とっくに河口についていてもよいはずの時間なのだが。
 峠を一つ越えると、小さな湖のほとりに出た。もう集落すらなく、ぽつん、ぽつんと小さな家がある。そんなところを学校帰りらしい子どもたち数人があるいていたり、農作業の荷物をしょった若い夫婦が歩いていたりする。若い二人はいったいどうやって結婚したのだろう。どのくらい歩いて家に帰るのだろう。何をつくっているのだろう。テレビは、いやラジオはあるのだろうか。夜、食事をしながらどんな話をするのだろう。毎日通っていくバスを、どんな思いで見つめているのだろう・・・。疲れてぼんやりした頭でそんなことを考えていた。
 いったん高度が下がり、昆河線も通る南渓河ぞいの町屏辺を通るのだが、このへんは寝ていて覚えていない。昆河線はこのまま南渓河ぞいに下っていくのだが、道路はもう一回西へ向けて峠をこえ、紅河ぞいの谷へ向かう。南渓河と紅河は河口で合流する。

7.6. 最大の難所で壮大な棚田を見る

 すでに暮れかかる最後の峠道は、この長い長いバスの旅のなかでも最後にして最大の難関であった。きちんと舗装はされているが、道幅も細くなり、大型車同士の離合は慎重を要するようになる。路肩はそのまま数百mもの深い谷底へむけて落ちている。ピークを越えてすぐ、見通しの悪いカーブをまがったとたんに、道路が土砂でうまっているところにつきあたった。それまで大胆かつ慎重な運転を続けてきた運転手が急ブレーキをひいて寸前で停車したが、そのまま乗り上げていれば谷底へ転落の危険もあった。道路は急な傾斜地を削ってつくっているのだが、法面を固めているわけではないので、雨が続いたりすれば崩れるのだろう。たまに四川省や雲南省の奥地でバスが転落というニュースを聞くが、まさにそうなりかねない現場にいきあたったわけである。
 対抗してきた5トン車くらいの旧型トラックがくずれた土砂のうえをそろそろと乗り越えてきたのを確認してからこちらのバスも乗り越えて通ったが、日本ならいったん乗客を降ろすところだと思われる。いささか肝を冷やした。
 とはいえ、それだけの難所である一方で、この区間の景色は忘れがたいものである。足下の谷はすでに日が暮れていて谷底はかすんでいる。しかし、その向こうにそびえたつ山並みには谷底から峰筋までびっしりと棚田がはりついており、そこにさんさんと西日があたっている。それは、能登の千枚田などとうてい比較にならない規模で、高低差はおそらく数百mに達するだろう。ところどころに小屋があるのはみえるが、まとまって人家がある様子はなく、道路もはっきりとはみえない。どうやって水を確保するのか、どうやって耕作するのか。いや、そんな疑問などよせつけない人間というものの営みの凄絶さが伝わってくる。麗江の古い町並みは確かに世界遺産に値する人間の営みの成果である。しかし、おそらく中国政府にとっても、いや地元の人々にとっても生活苦と発展の遅れの象徴でしかないであろうこのすさまじい棚田もまた、人間の営みの壮大かつ壮絶な記録であるはずだ。圧倒的な迫力を感じた。
 後に参照した雑誌の記事などによれば、この地域は高度差によって住んでいる民族も、生活や農耕の形態も大きく異なるらしい。一つは、谷底の川沿いは熱帯だが、高度が上がるにつれて亜熱帯あるいは温帯に近い気候となること、もう一つは歴史的に民族間の抗争の結果、標高の高いところにいわば追いやられた民族があるということが主な原因のようだ。この棚田も最近では注目されており、民俗学的な研究が進んでいるほか、写真家などがしばしば訪れているらしい。
 やがて道路は暮れなずむ山の中を紅河にむけて下り始める。こちらの道路沿いでも。峰筋のわずかな平地に小さな集落があり、畑がある。蒙自の近くを最後にドライブインやガソリンスタンドをみかけていないが、こうした集落にはしばしば家の壁などに「加油」「加水」とペンキで書いてあるところがあり、また果物などを屋台に並べているものもある。貧しい山間の農村でも現金収入を獲得しようとしているのだろう。

7.7. 真っ暗闇のドライブ

 山をくだっているあいだにとっぷりと日がくれた。長い長い下りをおえて、紅河とおぼしき大きな河をわたる頃はすでに午後8時。さすがに重い疲労感が車内に漂う。父親にここはどこ、あれはなに、向こうはどこの国とたくさん質問していた5歳くらいの坊やも寝入っている。父親が面倒がらずにひとつひとつ答えていたのは印象的だった。好奇心を殺されない坊やは、きっとかしこい少年に育つだろう。
 川をわたって 箇旧方面から来る道路と合流した。山の上のほうに比べて緑が濃く、闇が深い。はっきりは見えないが川の水面から数十m程度うえを道路は走っているようだ。本当に漆黒の闇のなか、バスのライトが照らす範囲だけが明るい。そんなところを歩いている人がいるので驚いていると、暗闇のなかに小さな集落があり、集落全体に裸電球がひとつあるかないか? と思える闇のなかで、道ばたの家の軒先の地べたに座り込んで食事をしている。男はみな上半身裸で、まるで野人のごとき雰囲気である。
 そうかと思うと、突如川の対岸に巨大な工場が登場し、煌々と明かりをともして煙突からもうもうと煙を吐き操業中である。川の両岸にはかつての日本の炭住(炭坑住宅)のような小さな長屋がびっしりと立ち並んでいる。通過するバスから眺めただけでははっきりしないが、施設はかなり乱雑に作られており、社会主義国らしい秩序が感じられない。本やサイトの情報では、雲南の奥地には錫などの鉱山がかなりあり、これらは地元の行政機関から採掘権を取得した個人や民間企業の経営するものが多いようである。そして、そうした鉱山ではかなりタコ部屋的な労働実態があるという噂もある。もしかすると、ここもそうしたものの一つかもしれない。

 川沿いの道路は、山から下りてくるまでほどではないが、それでもかなりの勢いで下っている。しかし、いつまでたっても河口につかない。午後9時をすぎ、再び紅河を渡るとここから「河口県」の看板。少し周辺が「山の中」から平地らしくなり、通過する集落でも近代的な建物をみかけるようになってくるのでぼつぼつかと思うが、なかなか到着とはならない。携帯で電話をしていた乗客が、小さな町のなんでもない場所で降りていく。ここにはバイタクもましてタクシーもいる気配がないから、おそらく迎えを頼んでいたのであろう。バス停が決まっていないというのはこういう融通がきくということでもある。

7.8. 深夜の河口に着く

 それでも、鉄道線路に三度出会い、「紅河川下り」の看板などが目立ち始めたあたりで、国境警備隊のチェックポイントにバスは停まった。ここから「国境地域」に入るのですべての車両が検問をうけるようだ。きっちりと制服を着た若い係官が乗ってきて、車内を見渡す。しらん顔をしていればよかったのだろうが、ついうっかり眼をあわせてしまったら「パスポートを」と言う。いささか心配だが、係官の雰囲気が毅然としているので信頼することにして渡すと、係官は道路脇の事務所にパスポートを持っていった。
 車内は「やれやれ」という雰囲気。誰もが一刻も早く着きたいのだから、我々はいわば迷惑な存在である。非番のほうの運転手に「再三迷惑かけてすまない」といったのだが、嫌みにとられたのか投げやりな口調で「いいってことよ」との返事。
 待っていると長く感じるが、数分で係官は帰ってきてパスポートを返してくれた。だらだらとはしておらず、職務をきちんと遂行している雰囲気があるのでその点では感じがよい。

 チェックポイントをすぎるとやがてバスは市街地に入っていく。もう夜9時をすぎているだがまだ通りには人通りもある。オレンジ色の街灯といい、建物といい、東南アジアのような雰囲気がある。市街地でも一、二カ所要求に応じて途中で乗客を降ろしながら、数百キロぶりにみかけた信号のある交差点をすぎ、バスは例によって狭い入り口をぬけて、河口のバスターミナルに到着した。だいたい午後10時。所要11時間強であった。

 バスを降りると、むっとする熱帯の空気に包まれた。十数名残っていた乗客は三々五々町に消えていき、いささか途方に暮れた我々が取り残される。紅河ぞいの大通りがにぎわっているので、それに沿って歩いていくとホテルが建ち並んでいるので、そのなかのあまり派手でないホテルの一つ「河口大酒店」に部屋をとる。後で見ると「歩き方」にもでているホテルだが、フロントで確認したときは「お湯は当然出る」と自信たっぷりに言っていたにも関わらずシャワーのお湯は「冷たくない」というだけであり、ベトナム人と思われる売春婦を連れ込んでいる中国人男性団体客もありで、居心地はいいとはいえない。部屋の内線電話にも売春婦からのお誘いと思われる電話が再三かかってきてうるさい。掃除はしてあるしシーツも洗ってあり、クーラーもちゃんときくので古いとはいえ別に不備はないのだが・・・。

 ホテルの隣の食堂で遅い夕食をとる。食堂はオープンで冷房もなく暑い。スープと麻婆豆腐などを食べる。さすがに疲れて、シャワーを浴びてすぐに寝る。すでに午前1時だった。

 シャワーキャップの袋

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