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0240 : 2024年6月30日 主日礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/07/02(火) 20:43:59
ローマ8:12-17 タイトル「神の子どもの特権」

キリストの贖いによって罪許され、御霊を頂いた私たちには義務があるとパウロは言う。ここでの義務とは、返さなければならない負債のこと。まずパウロは肉に従う義務ではない、と伝える。生まれながらの性質に従うということは、私たちが「弱い罪ある人間だから仕方ない」と諦めて神に逆らう言い訳をすることに他ならない。そのような歩みには神の前に無価値な死の結末しかない。
では私たちの義務とは何か。キリストの贖いと御霊の内住は、私たちを神の子どもとするためであった。であれば、それにふさわしく生きることである。義務ということばにまつわる強制的なイメージは私たちの思い込みかもしれない。アバ(父ちゃん)!と叫びながら、神を父として安心し遠慮せず慕い交わること。それが求められている。
その時、私たちは神の子どもの身分を御霊によって保証し、奴隷には決して与えられないキリストとの共同相続人の特権を与えられる。人間の愛さえ、人を変える事ができる。ならば、神のこれほどの愛は、人を内側から必ず造りかえ、強いられてではなく主に感謝と献身をせずにいられない。御霊によって神の子どもとして喜び歩もう。
0239 : No Title 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/06/26(水) 17:47:49
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0238 : 2024年6月23日 主日礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/06/25(火) 19:22:12
ローマ8:5ー11 タイトル「肉の弱さと御霊のいのち」

7章において自らの肉の弱さをつづったパウロは、神の救いを宣言した後、御霊と肉を対比させて掘り下げていく。この場合「肉」とは生まれながらの私たちの有り様、「霊」は神の霊ということである。アダムの子孫としての肉は、自らが神となるという誘惑に対する弱さゆえに、自分の罪過を認める事ができない。むしろアダムとエバがそうだったように、他のせいにしてでも自分の正しさを主張しようとするのである。
しかし神は私たちに御霊を住まわせ、肉ではなく御霊のうちにおらせてくださった。ここでの「もし」は仮定ではなく当然の条件である。私たちが御霊のうちにおり御霊を持っている証拠は、キリストを主と告白するかどうか。自らを神としたい肉のうちにあるままでは、キリストを主と告白することができないのだから。
復活のキリストの御霊を持つ者は、キリストのいのちを持つことになる。自分のいのちを自分で保証しなければという焦りは必要ない。神がキリストの十字架とともに保証してくださるからである。このいのちが保証された平安は何にも替えがたい。弱い私たちは、自らの過ちを認め神と人の前に誠実に歩む真の強さを頂き今週の歩みに遣わされよう。
0237 : 2024年6月16日 主日礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/06/17(月) 01:50:08
ローマ8:1-4 「いのちの法則」

指輪の宝石の輝きにも例えられる8章に入る。これまでパウロは神の怒りを向けられる罪人が、どのようにして義と認められるのかを語ってきた。そこで大事なのは肉の絶望であり、キリストの死と復活にあずかる信仰こそ必要であった。そのようにキリストの中にある者に対しては、神が罪と定め怒りを向けられることはないのである。
いのちの御霊の律法は、法則・原理と考えるとよい。私たちはいのちについて知的にすべて理解できなくても、暴飲暴食は健康に良くない、など体験的に法則があることを知っている。しかし復活されたキリストのいのちは私たちの知っている法則とは別の法則があり、その法則は、キリストの中にある私たちの罪と死の法則を塗り替え、上書きする力を持つのである。
神の律法は、汚れた私たちをきよめ、神のみこころにかなう作品と作り上げることはできない。しかし神は御子を遣わし、十字架によって私たちの汚れをきよめ、さらにそれだけではなく、御霊に従う歩みへと導く。その時自分の肉のためではなく、純粋に神を愛し隣人を愛する実を結ぶ者としてくださり、結果として律法の要求を満たすのである。
0236 : 2024年6月9日 主日礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/06/10(月) 11:03:38
ローマ7:14-25 「罪の葛藤と絶望」

聖書は他人ごととして読む限り、退屈な書物ではないだろうか。今日の箇所に多出する「私」がだれを差すのかについては古来いろいろ議論があるが、いずれにしろこの私を読者である自分自身と重ね合わせて読むべきだろう。パウロは、律法はあくまで神から与えられたものであり、善を行えないのは自分の中にある罪のためであると告白する。
そればかりではない。パウロは積極的に悪を行う者であるとさえ告白する。善いことができない、というだけではないのである。パウロは律法に明確に違反した事はなかったかも知れないが、この自覚を私たちは持てるだろうか。さらに善を望む内なる人と悪を行う肉なる人の分裂状態にあると告白する。悪に統一されているほうが、すべて変わる可能性がある分まだましと言えるのではないだろうか。自分自身がそのみじめな人間であることの絶望を彼は覚えているのである。
けれども自分の知恵にも力にも行いにも自分を救うことはできない、というこの絶望に至ってこそ、イエス・キリストの福音の光が自分に照らされていることに目を留める事ができる。その恵みへの感謝とともに、安心して自分に絶望し主に頼るクリスチャンの歩みがここにある。
0235 : 2024年6月2日 主日聖餐礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/06/02(日) 20:37:05
ローマ7:7-13 「律法と罪」

たとえば7:5の「律法によって目覚めた罪の欲情」ということばをとらまえて、神のことばである律法を罪とするのかという批判があった。それを見据えてパウロは律法と罪について語る。たとえ十戒の残りすべてを守っていると主張できても、最後の「隣人のものを欲しがってはならない」を守れる人はいない。つまりすべての人がこの戒めによって律法を守れない罪を自覚せざるを得なくなるのである。
それだけではない。私たちは禁止されるとそれを破ることに魅力をさえ感じてしまう事がしばしばある。また、律法を与えた神に反発を覚えさえする。そのように、自分の中に死んでいた(眠っていた)罪を、律法は呼び起こしさえして、私たちを死に導くのである。律法は人を教育するために必ず必要なものであって、神から来る正しく良いものであるにもかかわらず。
つまり律法が悪なのではなく、私たちの罪が問題なのである。善悪の知識の木の実も良い必要な実なのに、私たちはそれを罪の言い訳にもしてしまう。しかしその罪がもたらす死も、福音の恵みの前では必要なものとも言える。今日の聖餐式においてそのことを体験しよう。
0234 : 2024年5月26日 主日礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/05/27(月) 10:16:07
ローマ7:1-6 「文字によらず御霊によって」

7章は特に律法を知っているユダヤ人に向けて記された内容である。冒頭、結婚についてのたとえが記されているが、この第1と第2の夫や妻が何をたとえているかを探るのは意味がないだろう。パウロの言いたい事は、律法は人が生きている間のみ効力があり、死によってその人は律法から解放されるという1点である。
ユダヤ人は、神から律法を与えられたということを誇りとしていた。律法を守ることによって自分たちはきよい民だと自負していた。しかし、我が罪のために死なれたイエスを信じ、その死にあずかるバプテスマを受けたのであれば、私たちは律法からは解かれているということになる。そもそも律法を守ることだけで愛を表すことはできない。愛はむしろ律法を超える所に表れるのではないだろうか。
律法は罪を指摘することはできても、守る力は与えない。それどころか罪ヘの誘惑さえ生む。ところがそうした古い文字ではなく、私たちの仕える御霊は私たちを新しく生まれさせ、キリストに似たものとし、喜びと自由をあたえ、主の喜ぶ実を実らせてくださる。自由に生き生きと今週も御霊に促され励まされ、神と人を愛し歩もう。
0233 : 2024年5月19日 ペンテコステ礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/05/21(火) 18:45:13
ローマ6:20-23 「聖霊がもたらすこと」

2000年前、主の復活から50日目に起きたペンテコステ以来聖霊が私たちのところに遣わされたのは、新生と聖化のためである。かつて私たちは、やめたくてもやるべきでないとわかっていてもやめられない罪の奴隷状態であった。義には無関係、無頓着であり、自分の欲望のためのみに生きる恥ずかしい実を得ていた者である。
しかし、御霊は私たちを新しく生まれさせてくださった。そしてイエス・キリストを主と告白させてくださったのである。聖霊はあたかも退職代行サービスのように、自分ではどうしようもできなかった罪の奴隷からの決別をなしてくださった。そればかりではなく義の(神の)奴隷となった私たちを新人教育係として教え、整え、とりなし、導いてくださるのである。そして私たちにみこころにかなう実を実らせてくださる。
罪と神に仕える奴隷の違いは何か。罪の奴隷は自らを第一として励み歩んでも、結果として受け取る報いは神から離れ空しく迎える死である。一方神の奴隷は新生も聖化も、そして過分にさえ思える永遠のいのちが、契約のゆえに恵みの賜物としてただで与えられる。新生と聖化を通してこの信仰に導く聖霊に満たされ歩もう。
0232 : 2024年5月5日 主日礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/05/07(火) 13:59:49
ローマ6:15-19 「義の奴隷として」

私たちはとかく縛られるのを嫌がり、自分の自由の確保を絶対目標としていないだろうか。そんな私たちは恵みの下にあるのだからどれほど罪を犯しても赦してもらえる、という自由に価値をおいてしまうかもしれない。しかしパウロはそれを否定する。まずは一般社会でも奴隷は二つ以上の仕え先を持てないのと同様、罪にも従順にも仕えることはできない。どちらか一つだけ、しかも結果は全く違うことを覚えよう。
また、罪の奴隷であるということは、究極的には自分を神とする誘惑に負けることである。結果神からの戒めも無視し自分の判断に頼るのは、自由に見えてその実は人同士の評価に翻弄される奴隷状態である。しかし神はその罪人を福音に渡され、私たちを義の奴隷とされた。しかもこれは最初から最後まで神のわざである。人間が神になる余地はない。
奴隷の生き死には、文字通りどの主人に仕えるかに大きく左右される。私たちは結局誰かの奴隷になるなら、私のために十字架にかかられた主の奴隷となりたい。その時神はおのずと私たちの五体を義のために用いて、私たちを幸いと平安に、そして本当の自由に導いてくださるだろう。今日与る聖餐式もそのためのよい出発となるように。
0231 : 今日のエフデ 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/05/02(木) 19:15:19
今日はゴールデンウィークの中日ということで、お弁当の工作を作りました。「ゴールデンウィークもうどこかに行った?これから行く?」「バーベキューした!」「遊園地今度行く!」みたいなやりとりから、どこかに行くならお弁当もって行くと楽しいよね、と話しかけ、まずはおにぎりをとりあえず作るところから始めました。おにぎりの他は好きなおかず自由に作ってみて、と材料を色々並べて作ってもらいました。タコさんウィンナー、"あえて"食欲をなくす水色のスパゲッティ、ビーズをあしらったゼリー、パプリカやお肉を爪楊枝に刺したバーベキュー、鮭の切り身など、次々出てくる子どもたちのアイデアに圧倒。ニュースで目にしたのか、デザートのオレンジが高いから値上げしないと、とお弁当の値段を高めに設定する子もいました。ともかく残りのゴールデンウィークも楽しい時になりますように。

0230 : 胎内9さんへ 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/04/24(水) 00:59:17
あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。 第1コリント10:13
0229 : No Title 名前:胎内9 投稿:24/04/22(月) 19:11:45
もう、駄目だ。周りの人から暴言等を吐かれ、見放され、永久に苦しみ、全て失うのが目に見えている。どうしよう。
0228 : 2024年4月21日 主日礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/04/21(日) 23:52:03
ローマ6:12-14 「罪にではなく神に」

やめたくても断ち切ることのできないという罪依存症に対し、私たちは何をすべきだろうか。まず洗礼を受けてなお罪との戦いがあるのは、私たちの霊的な死と肉体的な死の間にタイムラグがあるからだろうか。私たちはその死ぬべきからだを罪に支配させてはならないし、他者を自らの欲望のために奪う事があってはならない。
ではすべき行動はなんだろうか。そもそも私たちは、それぞれが罪を主人として五体がバラバラであること、これに疲れを覚えるのではないだろうか。それに対しては、私たちは五体の主人をただ一人の主とするほかない。それには、私たちの五体を神に献げることである。神に献げるとは、神のそばに立たせること。良いわざを行え、ではない。神のそばに自らを立たせるとき、神ご自身が私たちを良いわざの実に満たしてくださるのである。
私たちは、私たちよりも罪の方が強い、罪にいまだ支配されていると勘違いしていないか。そうではなく、私たちはもう罪の支配にない。支配することはできないのである。主のそばに自分を立たせるとき、主が私たちを義の道具にしてくださる。
0227 : 胎内90卒さんへ 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/04/19(金) 20:20:55
どうか慰めと平安がありますように。神さまが守ってくださいますように。
0226 : No Title 名前:胎内90卒 投稿:24/04/18(木) 18:17:33
こうして生きていられるのもあと僅かな時間。

人生あっという間だった。

人生退職の時。

現世卒業の時。

タオルがリングに投げ込まれる時。

長いようで短かった人生だった。
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