0276 : 2025年1月26日 主日礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:25/01/28(火) 17:21:58
ローマ12:4-8 「一つとされるため」
分断の危機が叫ばれる現代に、私たちが一つとされる大事な意味を考えたい。前節まででパウロは、罪人だった私たちが神のあわれみによって救われ神の子どもとされたこと、その私たちにふさわしい礼拝は自らの全存在を献げること、そのために信仰による自己評価が重要と語った。実際傲慢も自己卑下も同じく一つになるためには邪魔なものである。
そして私たちのからだのそれぞれの器官は、どれ一つとして特別すぐれているものも、無用なものもない。むしろ互いに仕えることによって成り立っているように、教会も、イエス・キリストに救われた私たちが器官として属するキリストのからだなのである。多くの私たちがキリストの一つのからだであるという教えは、三位一体にも通ずる。
そのために私たちは異なった賜物をそれぞれ与えられている。預言、奉仕、教え、勧め、分け与え、指導、慈善といった賜物を用いて、互いが互いのために、そしてキリストに仕えるとき、教会は神の栄光を表すことになる。そしてその教会の姿を見た人々は、分断と争いとが渦巻くこの世の中にあって、平和と一致とをもって互いに仕え合う姿に福音のすばらしさを見る事になるのではないだろうか。
0275 : ぴちぱくキッチン開催2 名前:caiaphas@管理人 投稿:25/01/25(土) 19:37:10
自分たちで好みの具を入れてオリジナルのおにぎらず。おいしくないわけがないよね。
0274 : ぴちぱくキッチン開催 名前:caiaphas@管理人 投稿:25/01/25(土) 19:36:07
本日子ども食堂ぴちぱくキッチンを開催しました。地域のボランティアさんといっしょに小物入れをつくったり、おにぎらずを自分でアレンジして、いろんなおしゃべりをしながら食べたり。参加は小学校低学年のお友だちが多かったのですが、真剣に毛糸を編む姿に感動しました。
0273 : 2025年1月19日 主日礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:25/01/19(日) 20:49:27
ローマ12:3 「信仰の量りに応じて」
イエス・キリストの福音が恵みによって明らかにされて、時代・世代は変わった。しかし神の前に生きる私たち1人ひとりとしては旧約時代と生き方が全く変わってしまうわけではない。もう律法など無用だ、とはならず、同じように神のみこころにかなう生き方が命じられる。
その神のみこころにかなう生き方としてまずパウロが挙げるのは、「思い上がらない」こと。なにか肩透かしを食らう気もするかもしれない。しかし、人間の原罪が「被造物であるにも関わらず神になろうとすること」だとすれば、非常に重要な命令であろう。そしてむしろ恵みの時代に生きる私たちにとっては、神になろうとして自分の評価を上か下かで判断するような生き方から自由になり、神に愛された子どもとして平安ある生き方に招く命令ではないだろうか。
そして私たちは信仰の量りに応じて慎み深くあるようにと招かれる。信仰の量りとは、信仰の大きさ小ささではない。信仰はキリストに贖われた恵みを信じることただ一つである。その恵みに照らし自分を測るとき、神の命令を守る動機は恵みへの感謝からとなる。救いの確信によって、喜びと謙遜をもって今週も生きよう。
0272 : 2025年1月12日 主日礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:25/01/13(月) 14:38:39
ローマ12:2 「みこころにかなう道」
罪がゆるされ神の子どもとして愛された私たちは、まずこの世と調子を合わせてはならないとすすめられる。この場合のこの世とは、再臨以前の、救いの完成にまだ至っていない状態のこの時代のこと。そこに救われた自分を窮屈に合わせて、むりやり形を変えさせられてしまってはならない、とパウロはいうのである。
ではすべきふさわしいことは何か。それは古い生き方や価値観をリニューアルすること。期限が切れた免許証が何の効力も持たなくなるように、古い世にどっぷり浸かる生き方や、逆に古い世を敵対視する生き方にこだわる必要はない。私たちが神に愛された神の子どもであるという確信を日々心に刻みつけていくときに、自分の努力ではなく、神に変えていただけるのである。
私たちが変えられたならどうなるか。私たちはみこころは何かと迷いやすく、また決断した後も後悔しやすい。しかし、神の愛の確信を日々強めるときに私たちは自分の人間的成功という基準ではなく、神が喜ばれるかどうかの基準で見分けることができるようになる。ルールに縛られる生き方ではなく、神に愛される者にふさわしい道を生きよう。
0271 : 2025年1月5日 新年聖餐礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:25/01/06(月) 15:04:19
ローマ12:1 「ふさわしい礼拝」
ローマ書は12章から第二部に入る。1〜11章は緻密で論理的に福音を証し、罪人である私たちが神の子どもとされる恵みを感動をもって論じてきた。それを踏まえて救われたキリスト者の生き方が語られる。神のあわれみをいただいた私たちは、そのあわれみをもって、神のあわれみを証し、神の栄光を現すことを期待されているからである。
その生き方とは、私たちのからだを神へのささげものとして献げること。プラトンが提唱したような霊=善、肉=悪の二元論ではなく、からだをともなう生活の一切が神へのささげものになる、という考え方である。食べる事、眠る事、人と関わる事、仕事や勉強をする事などなどありとあらゆる生活の領域を含む。それらを神の傍らに置く、つまり自分の所有を主張するのではなく、もともとそうであったように神の前で、神のものとすること。
それが本来救われた者がささげるふさわしい礼拝であって、1週間の内日曜の1時間の事だけを言うのではない。そしてその生き方こそが私たちが信じている福音を人々に信頼できるものとして証する事ができるのではないだろうか。地の塩、世の光として今年を歩んでいきたい。
0270 : 2024年12月29日 主日礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/12/29(日) 23:45:56
黙示録22:16-21 「主イエスよ来たりませ」
この一年、終末についてともに考えてきた。その締めくくりに黙示録22章から分かち合いたい。この預言はあくまでイエス・キリストからの啓示である。キリストの名を騙る偽預言者のあらわれも終わりの日のしるしだが、この幻を啓示した御使いと同様、ヨハネ自身もまた神のしもべのひとりにすぎない。その謙遜さは、キリストの啓示の真実さを証しするものだろう。
夜明け前の暗闇に、私たちに訪れるのは渇きである。その渇きをいやす水を受け取るには、教会が御霊のとりなしとともに主よ来てくださいと言うこと。そしてその声とともに一人ひとりが主に来てくださいと言うこと。そして、まず来てくださった主に、水を求めに行くこと。その時に主はただで豊かな恵みをくださるのである。
この約束の証しのことばに、余計なものを付け加えても、また自己判断で取り除いてもならない。それはいのち取りになるからである。迫害の中信仰を持って「主よ来てください」と祈る者には希望がある。一見ちっとも来ない、と見えたとしても。この希望に生かされる恵みに満たされ、今年を感謝し締めくくり、新年に信仰をもって進み行こう。
0269 : 2024年12月22日 クリスマス聖餐礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/12/22(日) 17:33:19
黙示録21:1-8 「インマヌエルの神、ともに」
迫害激しい時代にあってヨハネは、牧師として伝道者としてどのような思いだっただろうか。自分はまだしも兄姉に福音を伝えたことにも迷いが生じてもおかしくなかったのではないか。しかし主がヨハネに見せた幻は、これまでと全く違う、古びもしない新しい天と地だった。混沌と死、神の敵の住む海もない。
エルサレムも新しくされる。地上のエルサレムは神を礼拝する神殿はあったものの、多くの血が流された場所だった。しかし新しいエルサレムは神が幕屋とともに人々とともにおられるのである。 へりくだられた飼い葉おけの主がインマヌエルと呼ばれるのと同じである。主はこれまでの私たちの涙を知り、ぬぐってくださる。他でもないヨハネ自身がこの幻によって涙をぬぐわれただろう。
このみことばに信頼すべきである。人は以前は神になろうと満たされない欲望をもって生き、神に造られた天地を毀損してしまった。しかし、はじめであり終わりである方が、私たちの神となり、私たちに子としての平安をくださる。勝利は最後に決まる。この希望を握りしめ、勝利を待ち望んで信仰の歩みを続けていこう。
0268 : 2024年12月15日 待降節第三礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/12/16(月) 18:01:13
黙示録7:9-17 「なつめ椰子の枝を手に」
激しい迫害下で記され諸教会に届けられた黙示録。この箇所では主に贖われ、主の勝利を賛美する大群衆の礼拝の幻が記録されている。また御使いも神と子羊の前で 7 つのことばをもって礼拝を献げる。蛇のエデンの園での誘惑以来、神と人の境界線をあいまいにしてしまうこの世で、礼拝を受けるべき方はまことの神であることを覚えたい。
続けて長老の一人とヨハネの会話が記される。ここで答えを知っているはずの長老があえてヨハネに質問するのは、当時の教育の方法。長老は、主を礼拝する群衆は、大きな患難を経て来た人たちで、子羊の血で衣を白くした人々だという。つまり主の贖いによって患難を通ることができたのである。罪の完全なゆるしが彼らを勝利を確信させ、絶望から守ったとも言えよう。
彼らは神の前で神のために仕える。労働の呪いから解放され、主に仕えることには飢えや渇きがともなわない。また、詩篇 23 編のイメージが語られるが、彼らを牧するのは子羊である。この方こそ私たちの勝利を約束し、涙をぬぐってくださる方である。みどりごとしてこの世に来られた主イエスを希望としてアドベントを過ごそう。
0267 : 2024年12月8日 待降節第二礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/12/09(月) 15:51:31
黙示録3:14-22 「主を迎える備え」
今手にしているものをなくせば永久に手に入らないと思うと自然と真剣さ、熱さに影響するだろう。ラオディキアという今のトルコにある町は非常に裕福で発展した町だった。エパフラスによって開拓された教会は、大きく「成長」したことだろう。
ところが主イエスはラオディキアの教会を見て、熱くもなく冷たくもなくぬるい、と伝えるのである。この「熱い」「冷たい」とはどんな状態だろうか。さまざまな解釈や解説があるが、一つの可能性として「神の愛を激しく感じる熱さ」「自分の罪を冷酷に見つめる冷たさ」と考えてはどうだろうか。主を信じる信仰にはいずれも必要である。そしてどちらかを極めれば必ずもう片方も中途半端でいられなくなる。そしてどちらも中途半端な状態を「ぬるい」と主は言われ、嘔吐するほどに忌み嫌われるのではないだろうか。
だから主は愛するがゆえの悔い改めを迫る。ほどほどの自己満足ではなく本当の宝である主を外に追い出している現実を見るべきだった。しかし主はなお外で声をかけ続け、待ち続けられる。メシアを飼い葉おけに追いやることなく、自分自身の中に主を迎え入れよう。
0266 : クリスマスコンサート 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/12/07(土) 20:34:04
青空が広がり12月にしてはだいぶ穏やかな気候の中、Ensemble iftf(アンサンブル イフトゥフ)をお迎えして開催したクリスマスコンサート、とてもたくさんの方に集まっていただき盛況のうちに終了しました。初めて教会に見えた方もいらして、とても感謝でした。
iftfの澄み渡りしかも力ある演奏に感動しました。もしご興味のある方はYouTubeでアーカイブが残っておりますので、ご覧ください。(当然の事ながら音は生で聴くすばらしさよりもかなり残念になってしまいましたが)
ご奉仕くださったiftfの方々、お越しくださった地域の皆さま、本当にありがとうございました。
0265 : クリスマスコンサート 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/12/05(木) 00:47:08
今年、ソプラノ・ピアノ・クラリネットのアンサンブル「iftf」をお迎えしてクリスマスコンサートを開きます。日時は12月7日(土)13:30から。場所は櫛形キリスト教会会堂です。
どなたでもクリスマスの調べをぜひお聞きください。無料です。
0264 : 2024年12月1日 待降節第一礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/12/02(月) 14:56:45
黙示録1:1-8 「主は来られる」
ローマ書をいったんお休みし、黙示録から味わうアドベントを過ごしたい。クリスマスは主イエスの単なる誕生祝いというより、主の初臨を覚えることで、再臨の約束の確かさを覚える機会だからである。
黙示録が著された紀元90年頃は、ローマ皇帝ドミティアヌスのクリスチャンに対する迫害は苛烈を極めた。その時代にヨハネはパトモス島で幻を示される。黙示(アポカリプシス)とは、幕が取り除かれること。取り除かれる前の幕だけ見て失望しないようにと招かれている。
その招きは、地上に立つ教会に向けてのものである。コロナ禍を経てネットの利便性は高まったが、黙示録の励ましと希望はあくまで地上の教会に向けてであった。迫害下に忍耐をもって集まり礼拝をし、奉仕しとりなし励ましあう一人ひとりに黙示録の祝祷と頌栄は力を持つ。
再臨のとき、主を拒む者の嘆きが語られる。しかしこの箇所でくりかえし強調されているのは、主が来られる、ということである。確実に、いまそこに来られている。時が近づいていると言われているのもそのため。シメオンとアンナの希望が報いられる祝福も忍耐をもって待ち続けた信仰のゆえだろう。私たちもこの期間その信仰に生きよう。
0263 : 胎内90卒さま 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/12/01(日) 00:31:17
どうぞ本当の解決が与えられますように
0262 : 胎内90卒さま 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/11/30(土) 16:43:45
書き込みありがとうございました。どうぞ神さまからの慰めと支えがありますように。