0269 : 2024年12月22日 クリスマス聖餐礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/12/24(火) 17:33:19
黙示録21:1-8 「インマヌエルの神、ともに」
迫害激しい時代にあってヨハネは、牧師として伝道者としてどのような思いだっただろうか。自分はまだしも兄姉に福音を伝えたことにも迷いが生じてもおかしくなかったのではないか。しかし主がヨハネに見せた幻は、これまでと全く違う、古びもしない新しい天と地だった。混沌と死、神の敵の住む海もない。
エルサレムも新しくされる。地上のエルサレムは神を礼拝する神殿はあったものの、多くの血が流された場所だった。しかし新しいエルサレムは神が幕屋とともに人々とともにおられるのである。 へりくだられた飼い葉おけの主がインマヌエルと呼ばれるのと同じである。主はこれまでの私たちの涙を知り、ぬぐってくださる。他でもないヨハネ自身がこの幻によって涙をぬぐわれただろう。
このみことばに信頼すべきである。人は以前は神になろうと満たされない欲望をもって生き、神に造られた天地を毀損してしまった。しかし、はじめであり終わりである方が、私たちの神となり、私たちに子としての平安をくださる。勝利は最後に決まる。この希望を握りしめ、勝利を待ち望んで信仰の歩みを続けていこう。
0268 : 2024年12月15日 待降節第三礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/12/20(金) 18:01:13
黙示録7:9-17 「なつめ椰子の枝を手に」
激しい迫害下で記され諸教会に届けられた黙示録。この箇所では主に贖われ、主の勝利を賛美する大群衆の礼拝の幻が記録されている。また御使いも神と子羊の前で 7 つのことばをもって礼拝を献げる。蛇のエデンの園での誘惑以来、神と人の境界線をあいまいにしてしまうこの世で、礼拝を受けるべき方はまことの神であることを覚えたい。
続けて長老の一人とヨハネの会話が記される。ここで答えを知っているはずの長老があえてヨハネに質問するのは、当時の教育の方法。長老は、主を礼拝する群衆は、大きな患難を経て来た人たちで、子羊の血で衣を白くした人々だという。つまり主の贖いによって患難を通ることができたのである。罪の完全なゆるしが彼らを勝利を確信させ、絶望から守ったとも言えよう。
彼らは神の前で神のために仕える。労働の呪いから解放され、主に仕えることには飢えや渇きがともなわない。また、詩篇 23 編のイメージが語られるが、彼らを牧するのは子羊である。この方こそ私たちの勝利を約束し、涙をぬぐってくださる方である。みどりごとしてこの世に来られた主イエスを希望としてアドベントを過ごそう。
0267 : 2024年12月8日 待降節第二礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/12/09(月) 15:51:31
黙示録3:14-22 「主を迎える備え」
今手にしているものをなくせば永久に手に入らないと思うと自然と真剣さ、熱さに影響するだろう。ラオディキアという今のトルコにある町は非常に裕福で発展した町だった。エパフラスによって開拓された教会は、大きく「成長」したことだろう。
ところが主イエスはラオディキアの教会を見て、熱くもなく冷たくもなくぬるい、と伝えるのである。この「熱い」「冷たい」とはどんな状態だろうか。さまざまな解釈や解説があるが、一つの可能性として「神の愛を激しく感じる熱さ」「自分の罪を冷酷に見つめる冷たさ」と考えてはどうだろうか。主を信じる信仰にはいずれも必要である。そしてどちらかを極めれば必ずもう片方も中途半端でいられなくなる。そしてどちらも中途半端な状態を「ぬるい」と主は言われ、嘔吐するほどに忌み嫌われるのではないだろうか。
だから主は愛するがゆえの悔い改めを迫る。ほどほどの自己満足ではなく本当の宝である主を外に追い出している現実を見るべきだった。しかし主はなお外で声をかけ続け、待ち続けられる。メシアを飼い葉おけに追いやることなく、自分自身の中に主を迎え入れよう。
0266 : クリスマスコンサート 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/12/07(土) 20:34:04
青空が広がり12月にしてはだいぶ穏やかな気候の中、Ensemble iftf(アンサンブル イフトゥフ)をお迎えして開催したクリスマスコンサート、とてもたくさんの方に集まっていただき盛況のうちに終了しました。初めて教会に見えた方もいらして、とても感謝でした。
iftfの澄み渡りしかも力ある演奏に感動しました。もしご興味のある方はYouTubeでアーカイブが残っておりますので、ご覧ください。(当然の事ながら音は生で聴くすばらしさよりもかなり残念になってしまいましたが)
ご奉仕くださったiftfの方々、お越しくださった地域の皆さま、本当にありがとうございました。
0265 : クリスマスコンサート 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/12/05(木) 00:47:08
今年、ソプラノ・ピアノ・クラリネットのアンサンブル「iftf」をお迎えしてクリスマスコンサートを開きます。日時は12月7日(土)13:30から。場所は櫛形キリスト教会会堂です。
どなたでもクリスマスの調べをぜひお聞きください。無料です。
0264 : 2024年12月1日 待降節第一礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/12/02(月) 14:56:45
黙示録1:1-8 「主は来られる」
ローマ書をいったんお休みし、黙示録から味わうアドベントを過ごしたい。クリスマスは主イエスの単なる誕生祝いというより、主の初臨を覚えることで、再臨の約束の確かさを覚える機会だからである。
黙示録が著された紀元90年頃は、ローマ皇帝ドミティアヌスのクリスチャンに対する迫害は苛烈を極めた。その時代にヨハネはパトモス島で幻を示される。黙示(アポカリプシス)とは、幕が取り除かれること。取り除かれる前の幕だけ見て失望しないようにと招かれている。
その招きは、地上に立つ教会に向けてのものである。コロナ禍を経てネットの利便性は高まったが、黙示録の励ましと希望はあくまで地上の教会に向けてであった。迫害下に忍耐をもって集まり礼拝をし、奉仕しとりなし励ましあう一人ひとりに黙示録の祝祷と頌栄は力を持つ。
再臨のとき、主を拒む者の嘆きが語られる。しかしこの箇所でくりかえし強調されているのは、主が来られる、ということである。確実に、いまそこに来られている。時が近づいていると言われているのもそのため。シメオンとアンナの希望が報いられる祝福も忍耐をもって待ち続けた信仰のゆえだろう。私たちもこの期間その信仰に生きよう。
0263 : 胎内90卒さま 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/12/01(日) 00:31:17
どうぞ本当の解決が与えられますように
0262 : 胎内90卒さま 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/11/30(土) 16:43:45
書き込みありがとうございました。どうぞ神さまからの慰めと支えがありますように。
0261 : 2024年11月24日 主日礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/11/24(日) 23:19:50
ローマ11:33-36 「神に栄光」
神に選ばれ祝福を約束されたはずのイスラエル人が救われていない問題について語ってきたパウロは、その締めくくりで神の知恵と知識の深さは測りがたいと記す。これまで神の計画と奥義を書き記してきたにも関わらず。しかしだからこそパウロの、みことばに対する誠実さを感じる。小さな人間が神のみこころを知り尽くすことなど不可能とへりくだり、神の偉大さを証しているのである。
旧約聖書の証しも同じである。イザヤは神のことばを預かる預言者であるにもかかわらず主の心は人間には計り知れず、また助言者として計画に携わることもできないと語る。また苦難にあったヨブにエリフや神が語ったことばも、答えをしりたいという欲求に応える義理は神にはないことが語られる。分からないことはある。しかし、神が人を愛し約束を破らないことだけは確実な事実なのだ。
パウロはそれを思い頭を垂れて、神の栄光を見上げ賛美する。イギリスの詩人ジョン・キーツは「ネガティブ・ケイパビリティ」と語った。不可解で答えがすぐ出ないことがあっても立ち続ける力。神にへりくだり隣人に寄り添うために大事な力ではないだろうか。
0260 : 2024年11月17日 主日礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/11/17(日) 19:08:05
ローマ11:25-32 「賜物と召命」
私たちクリスチャンが持つ、この世界には神がおられるという世界観とはどういうものだろうか。イスラエルの救いというテーマは異邦人にとっても神の約束の成就という意味で大事なテーマである。パウロがこれまで述べてきた異邦人とイスラエルの救いについての奥義を皆に知ってほしいという。イエス・キリストによる選びの民イスラエル人の救いは旧約でも預言され、必ず成就するものである。
イスラエルは神に敵対したが、なお神に愛されている。この緊張関係は、人をへりくだらせる。まさしく人間の理解を超えた奥義である。それゆえ私たちは目の前で起きることに絶望せず、決めつけず、希望を持つものでありたい。神からのあわれみのギフト、絶えず人を招くコーリングは常に注がれるのだから。
異邦人はかつては神に不従順だった。しかしイスラエルの不従順により異邦人に救いがもたらされ、神のあわれみがあらわれた。同じように今のイスラエルの不従順にも、神のあわれみによって救いを手にする約束が成就するに違いない。神のあわれみの計画が今も進んでいることを世界で起こるさまざまな出来事の背後に見つめていこう。
0259 : 2024年11月10日 子ども祝福礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/11/10(日) 19:48:21
ローマ11:16-24 「神の民に接がれる」
聖書においては、初穂を神の前に献げることは、その他のすべても神の聖なるものとなるという考え方がある。アブラハム、イサク、ヤコブを始祖として広がるイスラエルの民も、全体が神のものという意味で、聖なる民である。
ここでパウロはオリーブの木の接ぎ木というたとえを用いて、イスラエルと異邦人の関係を語る。聖なるオリーブの木の枝が不信仰によって折られ、そこに野生種オリーブの枝である異邦人クリスチャンがあわれみによって接がれた。確かに不信仰なイスラエルの枝が折られたことで、信仰をもった異邦人クリスチャンが木に接がれたのである。だとしても、決して高ぶってはならない。むしろ神のきびしさといつくしみを恐れ、へりくだるべきである。元の聖なる木の枝を惜しまず折ったとすれば、接がれた野生種を折ることは神にとって容易なことだから。
逆に一度折られた枝を元の木に接ぎ木をすることは神にとってたやすいこと。そう考えると小さい頃からみことばを聞いて教会で育った子どもたちの存在はなんと貴重なことか。私たちはこの分断と争い多い世の中で、この子どもたちのためにとりなし、心から守りと祝福を祈ろう。
0258 : 胎内90卒さま 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/11/09(土) 20:09:08
どうぞ心の平安が守られますように祈っています。
(投稿していただいた内容は特定の方への非難の内容でしたので削除させていただきました)
0257 : 2024年11月3日 主日聖餐礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/11/4(月) 11:19:39
ローマ11:11-15 「ねたみを通して」
サタンがねたみによって堕落したように、ねたみにはネガティブなイメージがつきまとう。しかしパウロは、神はイスラエルが救われるために異邦人が救われることでねたみを起こさせた、という。たしかにイスラエルのつまずきによって福音は異邦人のほうに伝わっていった。しかしイスラエルのつまずきは、救いの獲得に絶望するためのものではなかったのである。
事実、イスラエルのつまずきがなければ十字架はなかったかも知れない。十字架のゆえに世界、異邦人にすばらしい富がもたらされたなら、約束通りにイスラエルが救われるときに現される神の愛はどれほどのものだろうか。だからパウロは、イスラエル、異邦人、どちらかが救われればよいとは考えない。自分たちより異邦人が神の愛にあずかっていることがねたみとなり、福音に心をひらく人が起きるようにと祈る。
イスラエルが神の救いにあずかることは、一度死なれた主がよみがえられる奇跡になぞらえられる。神は約束を決して違えず、その約束を果たす時に神に不可能はない。私たちは救われた者として(周りから妬まれるほど)感謝と喜びに生きることが大事なのではないか。
0256 : 2024年10月27日 宗教改革記念礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/10/27(日) 20:53:19
ローマ11:1-10 「残された者」
神は常に約束の民でありご自身の民であるイスラエルに手を差し伸ばし、救いをもたらそうと福音を届けていたが、イスラエルは反抗していた。にもかかわらず、神が約束の民を退けられたのではなかった。なぜならこの福音によって救われたパウロ自身が、ほかでもないイスラエルの民だからである。確かに日本でクリスチャンは圧倒的少数だが、私たちもこの点で励まされたい。
またパウロは、バアルの預言者との対決の後、アハブ王とイゼベル夫妻に殺害を予告されたエリヤのことばを引用する。私たった一人残されました、と怯え、恐れ、心細くなるエリヤに神は、わたしのためにバアルに膝をかがめなかった7000人を残している、と言われた。エリヤは一人ではなかったのである。ただただ恵みによって神は、イスラエルを決して退けられない。私たちも状況を見て失望してはならない。
まったく同じ福音が語られても受け取り方によって頑なさを自らに招く者もいる。神の祝福がすべてにとって喜びとなるとは限らない。しかし、私たちはその恵みを知らされている。ルターもそうだったように私たちは一人ではない。主の恵みの選びにあずかり励まされ歩もう。
0255 : 2024年10月20日 主日礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/10/21(月) 12:32:19
ローマ10:16-21 「信仰は聞くことから」
キリストにある勝利の知らせである福音をなぜイスラエルは信じないのか。しかしイザヤは、見栄えのしない苦難のしもべこそ救い主であるという預言を最初から信じる者はまれだった、と述べていた。だから信仰は見ることよりも聞くことから始まるのである。自分の価値観や経験をまず脇に置いて、まず神が発するキリストについて語られることばに耳をかたむけることが信仰の原点である。
しかし、イスラエルが救われていない責任を神のことばが語られなかったと神に問うことはできない。事実語られていたからである。また聞いても難しすぎたというわけでもない。イスラエル人が愚かな民だと見下していた異邦人が救いを得たのだから。要は、彼らは語られていた福音を聞こうとしなかった、いや聞きたくなかったのである。
けれども神が異邦人にご自分を現したのは、そんなイスラエルを捨ててしまわれたからではない。そのことによって妬みを起こさせ、自らの間違いに気付かせ、神のもとに戻ってくるのを望んでおられるのである。放蕩息子を待つ父のように、神はなお両手を差し伸べ待っておられる。私たちもこの恵みにあずかった者として主の勝利を証していこう。