Word By 大竹野正典

演劇とコトバ

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「事件」を題材にするにあたって、一番気をつけねばならないのは先入観を持たない事だ。「家庭環境」だの「生い立ち」だの「遺伝体質」だの、確かにそういう事共は実際の犯罪者達に多大な影響を及ぼしているのだろうが、 その事件にインスピレーションを受け、ひとつの芝居に創り上げる際、僕達は細心の注意を払わなければならない。

「家庭環境」や「生い立ち」「遺伝」などに着目するのであれば、僕達はその「事件」を芝居にするに及ばない。そんな事共は僕達の現在を撃たないからだ。何故「事件」を芝居にするのかと問われたならば、それが僕達の現在の鏡であるはずだからだ。 ならばまず、登場する人物達は僕達と等身大だという処から始めるべきだろう。

そうしてあらゆる人間関係の中で、あるいは置かれた状況の中で、どういう具合に翻弄され、屈折し、その事件の渦中に埋没していかざるを得なくなるのかを辿るのが、僕達の仕事の全てだと云っても良い。 その為には、事件を多少捏造したって構わない。何故なら僕達の仕事は、「事件」を解説する事では無く、その「事件」から僕達の「現在」を読み取る事にあるからだ。

僕達の芝居には台本がある。そしてその台本を声にし、動く役者が居る。台本を小出しに提出し、その役者がどう喋り、どう動くのかに触発されながら、次の言葉を探す。 或いはまた、稽古後の飲み屋で役者達の登場人物に対する考察を聞きながら、次の言葉を探す。僕達は一丸となって「事件」を作ってゆく。 試行錯誤を何度も繰り返し、その「事件」は僕達にとって何だったのかを探ってゆく。答えはきっと出ないだろうが、「事件」の辿り着く果てが遠ければ遠いほどいい。 僕達の芝居の究極は、もう帰って来れない場所にまで観客を引き回す事だと思っているからだ。

「変身」や「審判」などカフカの不条理小説が、現実社会の鏡であったように、現代社会に浮遊する僕達が、実は世界で一番遠い場所に隣り合わせている事を味わわせてやりたい。 言葉に言葉を重ねていった果てに現出する世界が、つまり僕達の呼吸する世界が、どんなに不条理であり、その世界に呼吸する僕達が、どんなに不可解な生き物であるかをゴロンと転がしてみたいのだ。


精華演劇祭vol.2 総合チラシより