自ら『来い』と言ったにも関わらず、最後の仕事である非常口を覗く出入り口全ての戸締まりを確認した後で立ち寄った、薄くドアが開けられていた中嶋の部屋の中には明かりが無かった。その様子に、呆れたヒトイキ。ナンだ、人を呼びつけておきながら留守なのか。しかし次の瞬間に、ふと沸き上がって来た違和感に、思わず小さく捻る首。だが珍しいな、ああ見えて意外にも神経質なアイツは、無闇に他人に自室を覗かれたり立ち入られたりするコトを極端に嫌がる。だからソレが例え僅かな時間の外出であったとしても、常に部屋のドアはきっちりと閉め、時には鍵すら締めるコトもある程。なのに、どうして。そんなコトを思いつつ、手を掛けるドアノブ。でもまあ、アイツとて人間。たまにはこういう、ケアレスミスもあるのだろう。そう胸で零しつつ、くっと手前に引く扉。しかし、

「なっ!?」

どう言う訳か、扉を閉じようとノブを掴む手にチカラを掛けた瞬間、ぐんと素早く逆の方向へと引っ張られたドア。その余りに予想外だった動きに、思わずノブを掴む手を放すコトすら出来ずにそのままぐらりとバランスを崩し、前につんのめる様な体勢で部屋の中へと倒れ込む身体。マズい、このままじゃあ頭から床へと転ぶかもっ。そう思った刹那、傾いた身体にするりと絡み付いて来た二本のしっかりとした腕。その細く引き締まった感触とくん、と漂った苦い煙の香り。そして自分がいるこの場所がドコかと言うコトから、相手は容易に察しが付く。だからその腕で倒れ掛かった身体をぐいと抱き起こして来た後、コレだけの暗闇だと言うにも関わらず正確にこちらの口元を狙い、覆い被さろうとして来た細面をナンとか避けつつ、ちくりと零す私語(さざめ)き。

「・・・居留守か、相変わらず趣味が悪いなっ」

しかし相手は、そんなこちらの言葉など全く歯牙にも掛けぬと言った風情と薄い笑いで『そうじゃない』と、短い切り返し。そうじゃない、どんな顔をして待てば良いか判らなかったんだ。その言葉に、すっと持って行かれる意識。なん、だと?

「何せ今まで、誰かにプレゼントだなんてしたコトがナイからな」

故にどんな顔をしてお前を待てば良いか、判らなかった。言いながら、するりと頬を撫でて来る喧嘩慣れしているわりには関節が目立たない、すらりとした指を持つ手。次いで例の指先でふわりと俺の前髪を梳いた後、改めてしっかりとこちらの頬を頤(おとがい)を捉え迫って来る、アイツ特有の口の端だけを曲げて作るシニカルな笑みを浮かべた顔。歪めた唇から零す、甘い囁き。だから明かりを消して、お前が来るのを隠れて待っていた。どうだ、中々カワイイ話だろう?篠宮。言葉に、きょんと固まる身体と意識。つられて僅かに緩んだ、抵抗の気迫。しかし次の瞬間、こちらの動揺を見逃さずに再び迫って来た顔に思い出した様に強張る背筋。再び捩る、未だ捉えられた侭だった身体。そして今にも息が掛かりそうにまで近付いた顔に向かい、ぴしりと吐き付ける拒絶を含んだヒトコト二言。ば、馬鹿者っ。何が『カワイイ』だ、悪ふざけをっ。だがしかし、

「抗うな」

俺は今、実に機嫌が良いんだ。だからその良い気分を、つまらん駄々や小言で萎えさせるな。そんな囁きと共に振り上げた両手を器用に片手で押え込んで纏めた後、俺の頬に触れて来たのはアイツの唇ではなく頬。そしてそのまま、まるで幼い子供がするみたいに柔らかい動きで幾度も幾度も、重ねた皮膚を擦り合わせる仕草。きゅうっと締め上げる様なチカラを込めて来る、身体を抱いた片方の腕(かいな)。そんな、普段のあの冷静を通り越し『冷酷』や果ては『冷血』とまで言われている鋭く冷ややかな横顔とは全く違う様子、ソレからそうして頬を擦り合せる度にこちらの肌をくすぐる、本人はとても気にして嫌っている細くてしなやかな前髪の感触や、ソレとは全く対照的な堅くてひやりとした眼鏡のフレームの肌触りを感じつつ、胸で呟く低い独白。

ズルいコトを言う、本当にズルいコトを言い、そしてするヤツだ。普段はアレだけドライで冷徹で、人を傷付け貶めるコトだけにしか興味がナイ様な顔をしているクセに。なのに時々、こんなにも甘い囁きを零し、こんなにも柔らかい触れ合いを求めて来て。そんなコトを言われたら、こんなコトをされたらなら、こっちだって考えてしまう。口ではアレコレ言うけれども、でもだからと言って本音までそうだと言う訳ではナイ。そうだ、本当にアイツのコトを忌み嫌っているのならば、チョコレートなんて渡さない。こんな触れ合いだって、決して。ただこの手のコトにはてんで疎くて経験も浅い自分は未だに、こういう場合にどうしたら良いのかが全く以て判らない。素直になるのは心が赦さない、甘えるコトは身体が赦さない。故に取りあえず、口から吐き出すのは拒絶の言葉。本当はもっと上手なコトを言いたい、いや言っても良いのではナイかと思いつつも結局、俺が言うのは相変わらずな小言と文句。そんな自分を正直、時々疎ましいと思ったコトもある。しかしやっぱり、そういう自分をどうするコトも出来ない自分。そんなコトをぼおっと脳裏に巡らせながら(色々な意味で)、半ば諦めみたいな気持ちで続く穏やかな触れ合いに身を任せていた俺の唇を割る様にして押し当てられた、固い何か。その感触に、流れていた意識を引き戻し走らせる視線。するとソコにあったのは、暗がりでも良く判る程に鮮やかな色合いをした小さく細長い粒と、ソレをこちらの口の中へと押し込もうとしている薄い爪を貼付けたカタチの良い指先。この菓子のコトは俺自身、別に好きでも嫌いでもなかった。しかしこうして、まるで幼い子供の様にアイツの手ずから食べさせられると言う行為には、多少なりとも嫌悪と言うかナンとも言えない恥ずかしさがあった。だが指先を払い除けようにも、悔しいコトに未だ両手はアイツに押え込まれた侭。だからと言って口を付けた食べ物を無下に吐き出す様なコト、俺には出来ない。なのでせめてもの抵抗のつもりで押し付けられた菓子を唇に銜えたまま、がちっと噛み締めて侵入を拒んでみせる歯列。するとアイツは、ふっと言う息だけの笑いを零し眼鏡の奥の瞳をきゅうっと絞って細めて。

「だから、抗うなと言っている・・・」

言いながら、菓子に当ててた指をするりと横に退かした後、ぐっと深く強く重ねて来た唇。次いで滑り込ませた舌で器用に菓子を自分の方へと絡め取り口へ収め、そして改めて閉じた俺の前歯をその舌先でこじ開けようとする仕草。ソレと同時に、いつの間にか俺の両脚の間にと差し込んでいた膝で軽く突き上げ刺激する、箇所。そんな、しっかりとタイミングを合わせられた上下からの攻め立てに、思わず緩めてしまった噛み締めていた前歯。その隙間から洩らしてしまった、低い声。そして当然、そういう俺の隙を決して見逃しはしない硝子のレンズの奥の、聡い双瞳。開いた隙間にするりと忍び込む、いつもは愛飲の煙草の苦みを纏っているが今はアイツの口の中で溶けて来たせいだろうか、先程の菓子の甘い香りと味とを乗せた舌先。ソレが先ずは奥歯を数える様にゆっくりと擦り、次いで下顎の窪みを前歯の付け根をじりじりと探って進み、最後に上顎を手前から奥へと撫で上げ、送られるじっとりとした刺激に堪らず持ち上げてしまっていた俺の舌を根元からしっかりと絡め取り、音がしそうな勢いでキツく強く吸い上げる。そんな、相変わらずの慣れた仕草と何時にナイ鼻に付くあの菓子の甘い香りとに呆気無く崩れて流れ出る理性。代わりに水が満ちる様に込み上げて来る湿った疼き、重たい熱。こうなるともう、悔しいがこちらの勝ち目は皆無に近い。でも、ソレでもと息継ぎの為に僅かに離れた唇で何とか綴る、言葉。お前、甘いモノは嫌いじゃなかったのか。なのにこんな、砂糖の固まりなぞを口にして。すると返る、ようやく己の手元へと落ちて来た俺の様子を満足そうに見つめながらの短いヒトコト。

「ああ、嫌いだ」

だがソレは時と場合、ソレに相手によるらしい。言いながら、ゆっくりと離す重ねた唇。そしてようやく解放されたソコを大きく開きはあはあと荒い呼吸を零す俺の口の中へと再び落として来るのは、傍らのテーブルに置かれていた瓶の脇にあった新しい一粒。そして再び、素早い動きで触れて来る唇。しっかりと抱き竦められ、ベッドへと倒される身体。次いで投げ捨てる様な動きで掛けていた眼鏡を外した後、キスの唇は離さないままするりと滑らせて来た指先に性急な動きで緩められる胸のボタン、抜かれるネクタイ。ソレらの動きに、コレから先のコトをさっと想像して強張る背筋。かあっと走る、戸惑いの色。そんな俺の
耳元で三たび囁かれる、あの言葉。

「・・・抗うな」

良いコだから大人しくしていろ、俺は機嫌が良いんだ。言いながら頬に首筋にと繰り返す、啄むみたいな軽いキス。開かれたシャツの奥の胸に滑らせて来る、少し冷たく皮膚が薄い掌。その何時になく浅く柔らかい刺激に囁き、眼鏡を外した顔から直に送られて来る伏せた瞳からの濡れた視線にとうとう落ちた、俺の中のナケナシの理性を支えていた最後の箍(たが)。ソレを表すかの様に閉じる、両の瞼。ふっと緩める、全身の力。そんな俺の様子を満足そうに見つめて笑みを零した後、改めて覆い被さって来た身体。歯が当たる程の勢いで奥を求め、しっかりと重ねて来る唇。

機嫌が良い、そう言った中嶋の言葉に確かに嘘は無かった。だが愚かにもこの時の俺は、何時にないアイツの甘い言葉と行動とに完全に溺れ、肝心なコトをすっかりとキレイに忘れてしまっていた。



・・・そう、アイツの性根がドレだけ曲がって歪んでいるかと言う、決して忘れてはイケナイ重要で根本的なコトを。そしてそのコトを、俺はコレから嫌という程に体験し後悔する。