『R-18  -DV-』


「・・・良いよ、出て行くって言うなら出て行けば良い」

そう言いながら横を向き、彼は銜えていた煙草に火を点けた。そしてじんわりと赤く染まりつつ腫れ始めた左頬を擦りながらふっと煙を吐いた後で、何時もと同じ柔らかい、でもやや下がり気味のラインを描く両の眼差しの奥の瞳だけはひやりと尖らせた笑みで、短くこう付け加える。別に俺、君のコト止めたりナンだりってコトはしないから。その言葉に、覚悟を決めて後ろに引く左足。でもまだ彼に完全に背を向けるだけの勇気はナイから、そのままじりじりと下がって行くドアの方。そんな僕の様子を、ふっと息で笑う彼。大丈夫だって、追っ掛けてって連れ戻したり、殴ったりなんてしない、だから安心して出て行きなよ。言いながら上を向き、再び長く吐き出す紫煙。そして漂った、暫しの沈黙の後。

「じゃあね、バイバイ」

半分程の長さになった紙巻きを指に挟んだ右手を軽く振りながら、変わらないあの少し鼻に掛かった声で短く囁く。そのヒトコトを耳の底に受けつつ素足にサンダル、辛うじて裾や胸元は整えたがでもまだドコか着乱れている気がする部屋着姿で、夜の街へと飛び出す僕。


--- Scene 1


今度こそ、今度こそはといつも思っていた。もう耐え切れない、我慢が出来ない。時々ヒドく底意地の悪いコトをするけれども、根は決して悪いヒトじゃあナイと言うコトも、少々気分屋でナニを考えているかイマイチ良く判りにくいけど、でも何時でも結局は僕のコトを誰よりも何よりもイチバンに想ってくれているコトも、本当はちゃんと全部判ってはいるけれども。でももう、良い加減にして欲しい。そう、ココ何日かは本当にそんなコトばかりを考えていた。そんな僕らの関係に決定的なヒビを入れた、先程の出来事。だから思わず『幾らナンでもこんなコトは嫌だ、出来ない』と強い口調で言い切った。しかし彼は、僕の言葉なんか聞く耳持たないと言った顔でそのまま行為を続行しようとして。だから更に言った、コレ以上こんなコトをするつもりならば出て行く、君とも別れると。すると彼は、

『・・・そう、んじゃあそうしよっか、俺達』

ソコまで嫌だって言うのを、ムリに引き止めちゃ悪いモンね。彼は冷めた表情でそう呟き、すっと僕から離れた。次いで脱ぎ捨てた上着のポケットから煙草を取り出しつつ立ち上がり、同じ様にして立ち上がりドアの方へと後ずさる僕を見つめて。

『良いよ、出て行くって言うなら出て行けば良い』

そしてハナシは冒頭に戻って、僕は今あの部屋から少し離れた公園のベンチでぼおっと空を見上げていた。確かに今年は日々、記録的な暖かさとは言え季節はまだまだ冬の最中。そんな時期に上は薄手のカットソーにフリース地のパーカー、下も同じ様な生地のパンツに素足と言う僕の格好には、夜の冷え込みは少々厳しかった。でもだからと言って今更、彼の元へは戻れない。いやソレどころか今の僕には、上着はおろか温かい缶コーヒー1本を買う為の小銭すらなく、持っているのは携帯だけ。バカだな、出て来るなら出て来るでもう少し何か持って来れば。いやせめて、コートの一枚でも羽織って来れば。そう、彼の煙草の匂いが染み付いたパーカーの袖をずるりと伸ばして凍る指先を隠しつつ、内心でぽつり。そんな僕の脳裏を再びふと走る、先程のやり取り。ソレを思い返し、考える。

どちらかと言えば、大らかで楽天的な彼とやや神経質で細かい僕。ケンカや小競り合いは、毎日とは言わないけれどもでも、最初から頻繁にあった。しかしそう言う場合は大概、彼が頭を下げるコトで幕は引かれていた。ゴメンごめん、ホントにもうしないから。だから許して、お願いします。などと言う、少々調子の良い言葉と例の笑顔の連発で、コトは丸く収まっていた。そして僕の方も、そうは言いつつも一向に改善の様子なんか見受けられずに繰り返される彼のワガママみたいなモノに、何時しかすっかりと慣れ切ってしまっていて。だからもう最近じゃあお互い、多少のコトでは動じなくなっていた僕達。彼の行動や言動に対し、半ば諦めの様なカンジでいちいち目くじらを立てなくなった僕。そんな僕に対し、いつしか頭を下げるコトも気を遣うコトもすっかりなくなった彼。しかし。

「驚いた、な・・・」

正直まさか、あんなコトを言われるとは思わなかった。そう、パーカーの袖に隠してもまだ冷たい指先にはあっと息を吹き掛けつつ、零す言葉。驚いた、本当に驚いた。だって彼は見た目はあんなにもドライで明るく見えるけれども、でもその中身は何時だって、そう例えば道ばたで誰にでも声を掛けるキャッチセールスに僕が声を掛けられただけでも気持ちをギリギリと尖らせ、後で凄まじいまでの嫉妬と執着の言葉を吐き付けて来る性格。携帯も手帳も、何度中身を見られたか判らない。ヒドい時は、財布の中のレシートにまでチェックを入れられた。しかもその目当ては使った金額などでは無く、例えば品物であればソレがどういう趣旨のモノで、その用途は自宅用かプレゼント用か。店であるならどんな店で、何時から何時まで何人でいたかを詳しくしっかりと確認する為。そしてソコに僅かでも不審、疑問な点が見つかれば烈火の如く感情を昂らせ、朝でも夜中でも構わず矢継ぎ早に厳しい詰問を始める。ヒドい傷や痕になる様なコトはなかったが、そうやって興奮した彼に理不尽な暴力を振るわれたコトもあった。そう、ソレくらいに僕に執心しているんだ、彼は。なのにそんな彼がまさか、こんなに簡単に僕を放り出す、手放すだなんて。最初に想いを囁いて来たのは彼、傍に寄り添って来たのも彼。そして、

『ゴメン』

本当にゴメン、でも好きなんだ。だから判って、お願いだから俺を赦して。そう言ってヒドく強引で力づくな行為で、僕のナカへと入って来た彼。ソレはハッキリ言って、精神的にも肉体的にもものスゴいショックだった。でもその時の彼の目にくっきりと滲んでいた不安そうな色や声の切なさ、今にも泣き崩れてしまいそうに痛々しい表情に結局は彼を受け入れ、赦してしまった僕。そしてその日から今までずっと続いている、彼と僕との関係。間違ったコトをしたとは思ってナイし、思いたくもナイ。でも最近の彼からの要求と言うか行為にはどうしても、少々常軌を逸していると言わざるを得ないカンジが否めない。僕のコトが好きだから、愛しているからこんなコトをする、してしまう。僕を信じていない訳ではナイけれども、でも利口じゃない自分は確認したくて堪らない。僕がドコまで自分を受け入れ、赦してくれているかを確かめたくて仕方がナイ。ソレを判って欲しいと、彼は言う。しかし僕には、そう言う彼の思考こそが判らない。僕を好きなら愛しているなら、確認なんか必要ナイ。静かに僕を信じてくれていれば、ソレで良い。そうじゃありませんか?違いますか?と、今まで何度も喉元まで込み上げつつ、でもどうしても言い出せなかった言葉をぼそりと呟きながら伸ばしていた袖をそっとずらし、ちらりと見遣る手首。ソコに残る真新しい擦り傷みたいな跡に肩で息を付いた刹那、丸めた背筋をさあっと吹き抜けた北風に大きく身震い。とにかく、このままココにいたんじゃ寒さにやられてしまう。ドコか早く、行き先を考えないと。そう思い、手に取る携帯。ソレを開き、本当はキチンとメモリに入れてあった筈なのに、いつの間にか消えていた番号を頭に思い出しつつ、押し込むボタン。

「・・・もしもし、遅くにスマナイ、梶本だけど」


--- Scene 2


幸い、連絡を入れた中学からの友達は然したる理由も聞かずに、快く僕を受け入れてくれる旨の返事をくれた。なので今夜はありがたく、その好意に甘えるコトにした僕。コレからのコトは、明日またゆっくりと考えよう。ソレに1日経てば、彼も少しくらいは色々と考えるだろうし。そんなコトを頭の隅で考えつつ、招かれた友人の部屋でアレコレと昔話や近況を語り合った後、

「じゃあ俺、ちょっと風呂入って来るから」

お前その間にコンビニでも行って、着替えとか色々買って来いよ。あ、金はそっから出して良いから。でもくれてやるんじゃナイから、後で返せよ。友人は明るい声でそう言い残し、ユニットバスへと消えて行った。なので残された僕も、彼の提案に従い彼の財布から数枚の紙幣とコートとを拝借した後に向かう、先程この部屋への行きがけに見かけたコンビニ。そして入った店内で手にしたカゴに適当に選んで放り込む、当座の生活に必要だと思われる日用品や、思えば朝からロクにナニも食べていなかったなと気付き、手に取る軽食やら飲み物。その時、

「あ・・・」

一通りの品物を物色し終えた後、レジに行く前にざっと計算した総額と借りた金との差額を確認しようと手を入れた、コートの中のパーカーのポケット。でもそうやって差し込んだ指先に触れた紙幣ではナイ別のモノの存在に、ぎくりと背筋を凍らせる僕。どうして、ナンでこんなモノがこんなトコロに。そう内心で呟きつつ、微妙な震えを纏った指で取り出すポケットの中身は、鮮やかなオレンジ色をしたゼリービーンズ。ソレはドコにでもある、ナンと言うコトはナイ平凡な味とカタチをした甘い一粒。でも、僕にとってはある意味で『トクベツ』な一粒。そして奇しくも、そうやって戸惑う視線を当てなく彷徨わせた僕の視界に入って来たのは、手にしたゼリービーンズと同じモノが目一杯に詰まった、青いロゴが良く目立つ緑色のパッケージ。ソレを見た瞬間、僕のナカに沸き上がって来たの腰の奥の方を甘く焦がす重たい熱と、その熱の出所となったつい今しがたの、彼との出来事。