蒼氷−そうひ−



 キャンバスの絵は、色を塗りかけたまま放置されていた。
 ここまで描きあげるのは、いつも以上に早かった。
 なのに後少しで終わると言う所で、筆が止まってしまったのだ。
 違う……。何かが違う。
 絵を見つめれば見つめるほど、そう思う。なのに何が違うのか分からない。
 岩井卓人はキャンバスを見つめ続けた。


 「篠宮を……描きたいんだ」
 そう言ったのは二週間ほど前の、急に寒さが強くなった日の美術部の部室。
 卓人の言葉に驚きながらも、篠宮は笑いながら頷いてくれた。
「ああ、いいぞ。ただし、ちゃんと食事はすること。決まった時間には眠ること。それから風邪をひかないように、暖かくして描くこと。いいな」
 篠宮らしい言い様に、思わず卓人も笑った。
「だが、どういう風の吹き回しだ?急に俺を描きたいだなんて」
「それは……その。今のお前の姿を残しておきたくて……俺の手で」
「今の俺?」
 不思議そうに首を傾げる篠宮を、卓人は眩しそうに見つめた。
 いつも真っ直ぐで揺るぎない篠宮。人間としての正しさと、その正しさに支えられた強さが、卓人にはいつも眩しかった。
 迷い迷って、揺れ続ける自分とは、全く違う。
 その強さに卓人は惹かれた。
「篠宮」
 少し高い位置にある篠宮の唇を、そっと塞いだ。
 触れてすぐ離れる淡い口づけ。
 篠宮は眼を細めると、同じような淡い口づけを返した。
 今の篠宮の純粋であるが故の強さ、若さ故の清しさは、やがて形を変えるだろう。
 学園を卒業し、大学へ進学、そして社会に出れば、篠宮であっても純粋なだけではいられない。
 それでも篠宮の事。何があっても自分を見失うことなく、純粋さをどこかに残しながら、一段と逞しく強い大人の男になっていくに違いない。
 だからこそ、今の真っ直ぐで白そのものを感じさせる篠宮を、残しておきたかった。
「今のお前が……綺麗だから」
 何者にも染まっていない篠宮を、キャンバスの上に止めたかった。
 呆れたように微笑むと、篠宮は頷いた。
「分かった」
 その日の夜から、卓人は篠宮を描き始めた。

 
 美術部の部室に置かれたキャンバスには、篠宮の姿が描かれていた。
 弓道着を軽く肩に掛け、振り向く篠宮の姿。
 血色の良い滑らかな肌。引き締まった口元。意志の強そうな瞳に、凛々しい眉。癖が無く艶やかで黒い前髪が、流れ落ちる音まで聞こえそうなほど、篠宮の姿が忠実に、生き生きと映し出されていた。
 白い背景と、弓道着の白が、篠宮の清潔な印象を一段と引き立てている。
 なのに、卓人は違和感をぬぐえなかった。
 現実の篠宮とは何かが違う。それが何なのかは分からない。
 何度も篠宮に頼んで、何十枚もデッサンを重ねてみたが、全く分からない。
「卓人」
 絵を前にして考え続ける日々が続いている。
「卓人」
 突然肩を掴まれて、顔を起こされた。
「!……篠宮」
「もう帰るぞ。余り根を詰めるな」
「ああ……」
 椅子からは立ち上がったが、眼はまだキャンバスの篠宮を見つめている。
「実物よりもいいくらいだな」
 篠宮の言葉に、卓人ははっと顔を上げた。
「そんなことは無い」
 本物の篠宮の方が、こんな絵よりもずっといい。それでなくてもこの絵は、今の篠宮とどこかが違うのだ。
「なあ、卓人」
 篠宮が卓人の肩に手を置いた。
「暫くこの絵から離れてみたらどうだ?」
「えっ?」
「最近のお前を見ていると、なんだか痛々しい。この絵のせいなんだろう」
「……」
「俺にはよく分からないが、この絵に納得していないんだろう?」
「……そうだ……。どこが悪いのかも……俺には分からない。けれど……」
 俯く卓人を篠宮は、そっと抱きしめた。
「俺は絵に関しては門外漢だから何も言えないが、案外少し離れてみたら、何か見えてくるかもしれないぞ」
「そう……だろうか……」
 卓人の背中を篠宮が優しくさする。
「絵とは関係ないが……俺はそうだった」
「えっ?」
 想いもしない篠宮の答えに、卓人は慌てて篠宮から離れた。
「お前でも、迷う時があるのか?」
「ある。俺はそんなに強い人間ではない。いつも迷ってばかりだ」
 意外だった。篠宮はしっかりとした自分を持っていて、迷う事など無いと思っていた。
 絵に迷い、家族の事で迷い悩み、誰かが手を差しのべてくれるまで、そこから抜け出せなかった自分とは違うと思っていた。
「今も……迷っているのか?」
「今はそうでもない。なんとか自力で吹っ切った」
 自力で吹っ切った……。やはり篠宮だと思い、卓人は少し安心した。
「……それはまあ、いいから。今は少し休んでくれ。今のお前は見ていられない」
「……わかった……」
 篠宮の言う通り、考えるのは少しやめる事にした。
 それが得策だからと言うよりは、これ以上篠宮に心配を掛けたくなかったから……。


 その夜、卓人は篠宮の部屋で眠りについた。
 添い寝をしてくれる篠宮の体温が心地良く、色々と考えすぎて眠れなかったのが嘘のように寝入れた。
 夜半、不意に寒さを感じて卓人は眼を覚ました。傍らの篠宮が、寝床の上に起きあがっている。
 カーテンを引き忘れた窓から入る、青白い月の光。
 その中で篠宮は伏し目がちに俯いて、掛け布団の上に乗せた自分の手を見つめていた。
 いつもよりも細く見える輪郭の線。面に浮かぶ憂いの影。
 それはあまりにも儚くて、触れれば消えてしまいそうなほど脆そうで、卓人は目を離せなかった。
 不意に篠宮の顔から、危うさと儚さがかき消えた。しっかりと開かれた目には、強い意志の光。
 こちらに顔が向く。
「卓人」
「あ……ああ」
 思わず返事をしてしまった。
「起こしてしまったか?すまん」
 覗き込んでくる篠宮の顔は、穏やかな優しさに満ちていた。
「いや……。何をしていたんだ?」
「少し眠れなくてな。考え事をしていた」
「考え事?」
「大したことではない。卓人、もう一度寝ろ。体に触るぞ」
 それ以上聞いても、篠宮は何も答えないような気がして、卓人は早々に諦めて目を閉じた。
 ……深く眠れそうな気がした。あの絵に足りない物が、分かってきた。


 次の日、卓人は朝一番に美術部の部室に行くと、早速あの絵に向かった。
 絵の具を取り出し、色を作り始める。
 蒼を……。白に近いほど、淡く、薄い、研ぎ澄まされた蒼を。
 絵に出来上がった色を乗せる。
 それとは分からぬほど少しだけ。うっすらと……。
 
 ……絵は完成した。
 岩井の想像以上に、儚い蒼を纏った絵の篠宮は、鮮やかに迫ってきた。
 白が何よりも似合う男だと思っていたのに……ほんの少しの蒼が、篠宮をこんなに引き立てている。
 不思議な驚きだった。新しい篠宮を見つけた幸福感が、卓人を満たす。
「卓人」
 ドアの向こうから、ノックの音共に篠宮の声。
「いるぞ。入ってくれ」
 ドアが開き、篠宮が入ってくる。
「どうした?声が随分明るかったぞ」
「絵が、完成したんだ」
 絵ができあがった喜びが、我知らず声に出た事に苦笑する。
「そうか。よかった」
 そう言って、篠宮が絵を見つめた。
「少し、蒼を入れてみたんだ。影や背景に」
「そうか……俺にはよく分からないが」
「薄くだから」
 卓人の言葉に、篠宮が側に置かれたパレットと筆を見た。
「あの青は、卓人がよく使う色だな」
「えっ?」
「お前の絵によく使われているぞ。きつい色ではないのに印象的だから、俺も覚えている」
 ……よく使う青……。
「卓人の青だな」
 嬉しそうに言う篠宮とは裏腹に、卓人は顔を曇らせた。
 ……俺の……青。
 白が物足りない理由が、蒼が必要だった理由が、やっと分かった。
 惹かれて触れあい、心を交わすうちに、白そのものだった篠宮を、いつの間にか染めていたのだ。「岩井卓人の蒼」で薄く、淡く、それとは分からないほどに。
 だから白だけを纏う篠宮を、何か違うと感じた。
 あの夜見た憂いの影こそが、篠宮を染めた「岩井卓人の蒼」なのだ。 
「卓人、どうした?」
 呆然と立ちつくす卓人を、心配そうに見つめる篠宮の顔に浮かぶ、あの憂い。
「いや……何でもない」
 自分のような弱い人間の色が、篠宮の鮮烈で強い白を染めてしまう不思議を思う。
 それでも自分の蒼は、篠宮の本質までも染めることは出来ない。きっと篠宮はこれ以上は染まらない。岩井の感性がそう感じ取る。 
 絵の中の篠宮は、凍り付いた蒼を鮮やかに纏っている。この蒼はやがて、篠宮の強さにかき消されるかだろう。それでいいと、そうなって欲しいと、卓人は思った。
 自分の手元には、この蒼ざめた篠宮の絵が残ればいいと……。
 
 岩井は何にも染まっていない篠宮を描くことは出来なかった。その代わりに「岩井卓人の蒼」に染まる篠宮を、永遠に手に入れた。

 
終わり

こちらは、篠宮の会主催『篠宮生誕会』聖京様作のフリー創作ですv
とても素敵な岩井篠宮(私の中では名前の順番はこちらです・笑)に改めて、
岩篠っていいよな〜vvとしみじみ思ってしまいました!
いつか自分の蒼はかき消されると思いながらも、この絵が残れば自分の色に染まった
自分だけの篠宮を永遠に手に入れることになる・・・という、岩井ならではのエピソードに
鳥肌立つ位感動しましたvv本当に素敵過ぎます元締め様!
こ・・これからもたまに岩篠書いていただけたら嬉しいナ・・なんて、図々しい事を思ってしまったり(笑)

本当に素敵なお話しを有り難うございましたー!またもやフリー万歳!!