昨日中降り続けた雪は、未明には止んだらしい。
灰色の襞をたくわえた緞帳のような空とは打って変わって、今日の空は平らな青さを取り戻していた。
昇る陽が照らす白い世界は過剰なまでに光を反射し、雪を踏み締め歩む足元を覚束なくさせる。この白い世界で唯一色を持っているのは、黒く細長いコートを翻す影と、その人物が持つ短く整えられた黒い髪だけだった。
鬱蒼と茂る木々の間を抜け、ヴァリアー敷地内の奥まった一角にひっそりと佇む建物にようやくたどり着く。この建物には、負傷者を収容する設備が整っているらしい。さほど大きくは無い建物の、その壁面を縦横に這う蔦にも例外なく雪は降り積もり、平易な同じ白さを作り出していた。
重たいエントランスを速足で潜り抜け、黒いコートを脱ぎながら二階へと続く突き当たりの階段を昇る。ふわふわした感覚のまま、ヴァリアーを束ねるザンザスから訊いた扉の番号を確かめそっと開けてみると、扉の向こうの白いカーテンが引かれた隙間から、零れた銀糸と硬質な色をした指が覗く。
病室内には装飾品や見舞いの品などあろう筈が無く、窓から差し込む光が殺風景な室内を殊更白々しく染め上げていた。
銀糸の持ち主の姿を隠すカーテンを慎重に曳くと、色を失った蒼白な顔が飛び込んできた。常から白い色をしているが、これほどまでに温度を感じぬ白さを見たのは、あの針の様に冷たい水糸降り注ぐ、アクアリオンでの一戦以来かもしれない。
白い寝巻きの隙間から覗く白い包帯。白い肌に白銀の髪。白、白。
何処を向いても飛び込んでくる白さに気が変になりそうだと思った時、白い世界に一点の紅さが灯った。
「う゛お゛ぉい…タケシか…どうしたぁ」
唇と目線だけ動かし早朝の侵入者に如何を問う。
「ハハ…そんだけ白くても口ん中は赤いんだな…なんか安心した……」
あ、質問の答えになってねーか…などと独りごちつつ、タケシと呼ばれた人物は壁に立てかけてあったパイプ椅子を引き寄せ、ベッドから垂れた、硬い体温を持たない手の近くに腰を下ろす。
「どーしたもこーしたもねぇよスクアーロ…昨日の晩仮眠しようと思って部屋に戻ったら
急に胸が痛くなっちまってさ、コレ虫の報せってやつなのかな?」
そう言いながらそっと、目の前の銀の髪を持ったスクアーロの、寝巻きと包帯に隠された左胸辺りに視線を投げる。
「何か嫌な予感してさ、ヴァリアーに連絡入れたら案の定…スクアーロが怪我したって」
眉根を寄せ告げるタケシに、苦虫を潰した顔でスクアーロは「あれほどタケシには言うなと……」と口の中で呟き飲み込んだ。
「でも、思ったより元気そうで良かった」
白い世界に色を見てようやく安堵したのか、タケシはほうっと息をついて、硬い材質で作られた義手の嵌った手を取り頬を寄せる。この仕草は、二人が所謂身体の関係になってからというもの、ひとしきりスクアーロがタケシを啼かせ身体の最奥に熱を与えた後にタケシが行う、甘えるような仕草と同じだ。
この行動がいつも、タケシの本意はさておき、スクアーロにとっては、己の熱の通わぬ手にタケシが熱を分け与えるかのようなそんな行為に思えていた。其処が失くした掌を想い疼く時、何故かタイミングよくタケシが熱を与え、その疼きを収めてくれるからだ。そして、その疼きが必ずタケシを抱いた時にだけ起こると、最近薄々とスクアーロは感じていた。
なのに今もまた、何故かその疼きを感じる。
「う゛お゛ぉい…泣くなぁ…タケシ」
「なっ……泣いてなんかねーって……」
僅かに歪ませた口で笑顔を模ったタケシの頬には、確かに透明な雫は零れていなかったが、スクアーロにはやはり泣いている様に思えた。
自惚れかもしれないが、スクアーロが僅かでも怪我をしたり危険な任務に赴いた時、タケシは判りきった顔で笑いながらも、何処か言いようのない闇に深く精神を摺り合わせた影を足元に落とす時があるのだ。
そんな夜は決まって、激しく抱いて欲しいと無言で訴えている様な気がして、その無意識の不安の根をタケシの心に巣くわせたのは己だという自覚があるからこそ、その感覚のまま殊更激しくタケシを抱いた。
だが、そうしても尚スクアーロには言いようの無い新たな焦燥が生まれる。それはタケシを抱けば抱くほどに強くなるのだ。それに比例して、無いはずの掌が疼きを増す。そんな時にタケシに義手を抱え込まれると、疼きは一旦収まるのだが、それもまた次にタケシを抱けばぶり返す。ずっとその繰り返しが続いていた。
「……おめーは…本当に甘すぎるぜぇ」
そう言ってスクアーロは悲鳴を上げる半身を宥め透かしながら起こし、まぁ自分も人の事は言えねぇなぁと、頭の片隅で思いながら、タケシの短く揃えられた黒髪を義手で掻き混ぜた。
「…つっ!!!」
「馬鹿っ!!まだ傷が塞がってないんだ無理すんなよ!!」
スクアーロのくぐもった声につられ、タケシが負傷したスクアーロの胸の辺りを見遣ると、先ほどまで白かった包帯が僅かに紅い滲みを作っている。
「違ぇぞぉ…こんなかすり傷が痛むんじゃねぇ……無い筈の…掌が痛ぇんだぁ……」
「えっ!?」
目の前の赤につられて、てっきりこの傷の痛みの所為で微かな呻きが聴こえたと思っていたのだが、思いもよらないスクアーロの答えにタケシは疑問の声を上げた。
「左の…掌が……?」
そう言いながら、自分の頭に置かれたままのその義手に、痛むというから極力優しく慎重にそっとタケシは手を伸ばしてみる。義手だから感覚は無い筈なのだが、タケシの柔らかな気遣いがその手に感じれた気がして、スクアーロはもう片方の熱も神経も通う右の掌で、タケシの優しく置かれた手を強く握り返してみた。先ほどはかすり傷だと言ってみせたが、身体を捩じるこの体勢は流石に傷に障る。だが、それよりもこの疼きの正体が今なら掴めそうな気がして、タケシの頭頂に置いてあった両の手を後頭部にずらし、抱え込んで引き寄せながら噛み付くように唇を合わせた。
「や…め……んんっ!!」
咎める声が、時折ずらす唇の端から、飲み込みきれなかった透明な雫と共に零れ落ちる。それを無視して、タケシの頬に両の手をずらし尚も唇を合わせ、逃げる舌を絡め取る。
深くなる口付けに、タケシの頬が熱を帯びてくるのを右の掌が感じ、それに比例して左の掌の疼きが拍動を増す。
「…あ゛ぁ……」
「んっ…!な…に?スク……」
そう何かに合点がいったかのように言葉を落としたスクアーロは、一度深くタケシに口付けると、タケシの頬を包み込んだままそっとその唇を離し、今度はその両の手をタケシの身体に廻し、傷を負った胸に抱きこんだ。
どんなに左の掌をタケシの背中に押し当てても、当然熱など感じはしない。
そんな事は判りきっているのに尚、この偽りの手にもタケシの熱を余す事無く感じたい、
タケシが不安な時はその不安を拭う温もりも分け与えたいと、無くした左の掌に対する理解し難い欲求が湧き上がっては渦巻き、感じるはずの無い痛みを模るのだ。
「…オレ…スクアーロのこの手…好きだぜ」
己の思考に意識を持っていかれそうになっていたものだから、スクアーロは不意に呟いたタケシの声にハッとした。
その言葉の真意は何だと、再びタケシの瞳の奥まで覗き込むように目の焦点を合わせる。
「ん…上手く言えねーけど、こっちの手は素直っつーか……」
「あ゛ぁ??」
タケシは常から、考えるより感覚でもって言葉を発すると判ってはいるものの、神経の通っていない手を捕まえて『素直』とは、感覚で話す事を前提に考えても全く意味が判らない。
「だってさ…何時だってオレに触れて来る時は左手が最初だし、
強く身体に押し当てて来んのもこっちの手だし……」
そう言いながら、再びスクアーロの義手をタケシは己の手で包み込み頬に柔らかく押し当てる。
「こっちの手…オレをすげー欲しがってくれてるみてぇで…嬉しいのな…」
「なっ……!!!」
剣帝という冠の為に斬り落とした手も、無い筈の手で得られぬ温もりを求める手も、生身であるか義手であるか、在る物を捨てるか無いものを欲するかの違いはあれど、確かにこのもどかしく不自由な左手だったのかもしれない。
そう思うと、潮が引くようにすっと、左手の疼きが消えた。
「…スクアーロ……顔赤い……?ははっ良かったのなー!
さっきは白すぎてホントに生きてるかどうかヒヤヒヤしたんだぜ?」
抱き込んだ胸の内、屈託の無い笑みを浮かべて己を見上げてくるタケシに、スクアーロは自分が随分とこの年下の天然小悪魔の言葉に翻弄され、身体が勝手に熱を持っている事にようやく気が付いた。
「リング戦の時みてぇな…あんな思いはもうゴメンだぜ…欲しがってくれてるって事は、その間は離れていかないって事だろ?だから、これからもオレをうーんと欲しがってな?」
「う゛お゛ぉい…てめぇこれだけ煽っておいて…判ってるんだろうなぁ?」
「んあ?あぁ!…えーと……怪我が治ったら…な?……そっちの手にオレの熱いのが移って火傷しちまうぐれー沢山…な?」
「この…ガキがぁ……煽るだけ煽りやがった上にお預け食らわすとはいい度胸じゃじゃねーかぁ」
治ったら覚悟しろよと長いため息混じりに吐き出したスクアーロの言葉に、くすくすと零れるタケシの笑い声と、陽の熱で溶けた雪が周りの木々から落ちる音が重なり、白い世界も徐々に温度と色を取り戻しつつあった。
その何気ない繰り返しはきっと、これから息吹く春へと繋がる道なのだ。
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自分の本物の左手が武に触れた事がないのが悔しい?ぐらい、貪欲にどこまでも武が欲しいんだよーというスクアーロなお話…のつもり?ん??
武は武で、もう、ぜってー自分の前でスクアーロを離したりしないのな!…な感じで…。
なんだか色々表現を誤ったというか、恥ずかしい台詞多いなとかこの文章全体が矛盾の固まりでありますが、
ぽちっと押してくださって、ここまで読んでくださって本当にありがとうございました。
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