「開祖日什大正師御生誕七百年」 2010年 檀信徒向け法話
顕本法華宗の開祖・日什正師の御生誕七百年まで、いよいよ後4年と迫りました。本日は、その日什正師が法華経と日蓮聖人の教えを正しく私達に相承するために、如何に御尽力されたかを、その御生涯や教えを交えて、短い時間ではありますけれども、掻い摘んでお話を致したいと思います。
時は1314年4月28日、日蓮聖人が亡くなられたのが1282年弘安5年のことですから、それから33年後に、日什正師は玉千代丸として会津若松に御生誕されます。会津藩の殿様の親類(お母様は城主の娘ですね)、そういうお家柄でございましたが、不幸にして15歳の時に御両親を亡くされて孤児となり、19歳の時には比叡山に登って、当時の天台宗の学僧・横川の慈遍僧正に就いて得度され、名を玄妙と名乗られました。この慈遍僧正とは、後に大僧正になられましたけれども、(僧正とか大僧正というのは今の時代の肩書きとは比べものにならない程偉いんですよ)、その慈遍僧正とは、あの徒然草で有名な吉田兼好の兄弟とされる方ですね。その慈遍僧正に十分な教育を与えられて、当時比叡山には約3千人近い坊さんが居ましたけれども、そこで玄妙は38歳にして学頭という、比叡山の学問を統括する所の職に就かれ、以来、学頭の職を継続すること二十年でございました。
日什正師が僧侶として御活躍されていた時代は、鎌倉幕府が滅びて足利尊氏が室町幕府を開き、所謂南北朝時代と言われて天皇家が南北2つに分裂して争っていた時代ですね。日什正師、すなわち玄妙は58歳で比叡山を辞すると会津の羽黒山東光寺に帰って、そこでまた多くの弟子達の教育をされるわけですけれども、66歳の時に弟子の一人が置いて行った日蓮聖人の「開目抄」と「如説修行抄」を読んで大いに感激せられると、嗚呼今までの人生は何のためであったのか、一体自分は何をして来たんだ、いや、どうしてもこの優れた法華経を日本の国に盛んにせねばならぬ、そう考えると居てもいられなくなってしまうんですね。そこで玄妙は日什と自ら名を改めて自戒改宗すると、最初は会津の富士門徒、(一部は今、日蓮正宗となって、創価学会と一緒で「釈迦も釈迦の法華経も役に立たぬ。顕本法華宗は邪宗だ。」なんて噸でもない馬鹿なことを言っていますけれども)、そこに日蓮聖人の教えを伺おうと尋ねていったのですけれども、天台宗の偉い坊さんが何しに来たかということで、彼等は非常に警戒して一切教えない。そこで日什正師は、なんと67歳の時に会津を出て、そして日蓮聖人の真筆の御遺文を研究されるために、会津から千葉は市川の真間弘法寺へと向かうわけです。
いいですか皆さん、67歳ですよ〜。もう今の時代だって、とっくに年金を貰って隠居しようかというような歳です。それが昔の時代の67歳の時に、また改めて勉強しよう、勉強しようというだけではなく、これから法華経のために命を懸けて大奮闘しようというのですから、まあ皆さんもお茶に饅頭で老いぼれているような場合ではございません。もうね、少しでも若返ってモテようと思ったら、(お父さん、違います)じゃなくて功徳を積もうと思ったらですよ、日蓮聖人の教えをしっかりやらきゃ駄目です。私も来年は50歳で孫もいますけど、法華経のお陰で、まだまだこれからでございます。まあ、そういうわけで、正しいことならば何事も果敢にチャレンジするという、法華経の信仰が、ちゃんと活かされているかどうかは、実は皆さんの姿を見ればすぐ分かるんですね。どれどれ(回りを見回して)、ふ〜ん、なるほど、なるほど。(あら、お母さん。私はこんなに若いって、そんなにアピールしなくても大丈夫ですよ!)
そこで、お話を本に戻しますけれども、日什正師、元々は法華経を中心とした天台宗の偉いお坊様ですから、日蓮聖人の御遺文を研鑽される一方で、請われて今度は真間弘法寺と中山法華経寺でも学頭として、天台宗と日蓮宗の教学を併せて講義されます。その上で鎌倉に出向いては、あるいは遠路京都に布教所を造っては、関白などの公家に三度、将軍家などの武家に三度の国家諌暁をして、我が国は法華経を中心として信仰せねばならぬと進言されるんです。その間にも各地に布教して、いいですか、汽車もなければ車もない、そういう時代に、静岡は湖西市吉美(きび)の妙立寺、品川の本光寺、千葉には本立寺と、あちらこちらに有力な信者を得て寺を建てられます。あぁ、そうそう、あの世界のトヨタ自動車の豊田家は、その吉美の妙立寺の御檀家さんだったんですね。で、初代社長の豊田佐吉さんは晩年に、顕本法華宗の、あの有名な本多日生猊下の教えに感激されて、本多日生上人を師として、日蓮聖人の教えを弘めるために大変に御奮闘された方なんです。それで豊田家は、今でも顕本法華宗の大法要には御参加されているんですね。いいですか、皆さんも、これからなんですよ、本番は・・。
そこで、話をまた本に戻しますけど、ところが、元々日蓮宗に居たちょっと偉そうな連中は、後から、それも余所から来た日什正師の活躍が妬ましくてしょうが無い。そこで、今度は日什正師の悪口を言っては邪魔を始める訳です。法華経の教えを弘めて仏教の乱れを正すこと、日蓮聖人の教えを弘めることこそが大事であるのに、まあ世の中、今も大して変わりません、政治の世界も坊さんの世界もですけど、大事なことは放っちらかして、俺こそがと屁理屈を言っては、権力争いに馬鹿な者は頭がいっぱいになるんですね。で、日什正師、こんなことに構っている暇はないと、遂に切れちゃいました。真間弘法寺で書いた帰伏状、帰伏状っていうのは「今後は皆さんの指導に従いますので、どうか皆様のお仲間にして下さい、宜しくお願いします」ってやつですね、その帰伏状なんかを破棄すると、「日什門徒等存知すべき事」として、「大聖人御門弟六門跡、並びに天目等の門流、皆方軌、仏法ともに大聖の化儀に背く所有るによって、同心せざる処也、直に日什は仰せを日蓮大聖人に帰する処也」と、ジャジャジャ〜ンと独立するわけです。そして79歳でお亡くなりになるまで、獅子奮闘の御活躍をされるわけです。いいですかぁ、正しきを守り、そして教えのためには堅固なる精神を持っていくというのが、日蓮聖人の精神を受け継いだ高潔なる日什正師、そしてそれが顕本法華宗のあるべき本来の姿なんです。
さて、その日什正師が我等に残された御主張とは、彼の「経巻相承、直授日蓮」でございます。兎にも角にも、日蓮聖人がお亡くなりになってからというもの、他の門流では法華経に書いていないことを勝手に言い出しては、自分たちこそが優れた仏教だなど言い出すわけですね。看板は一応法華宗、日蓮門下なんですけど、まあ、今流行の新興宗教みたいなものです。法華経の一番大事な教えとはですよ、お釈迦様が寿量品に「近しと雖もしかも見えざらしむ」「我此処に在って滅せず」と説かれた如く、お釈迦様は永遠の実在であって、常に私達を救わんと慈悲を以て導かれておられる、どうかお釈迦様と心の底から渇仰すれば、もう必ず私達の前に姿を現して教えを垂れて下さるということなんですね。
それで、その法華経を捨てて、私達娑婆世界のお釈迦様を捨てて、阿弥陀仏だとか大日如来だとか、余所の世界の仏を拝むなんていうのは怪しからんというのが、日蓮聖人の御主張だったはずなのですけれども、他の日蓮門下では、いや〜釈迦はもはや役に立たない、日蓮大聖人様こそ本家本元の本仏だとか、いや〜本仏とは宇宙の南無妙法蓮華経様のことで、実は釈迦も題目を唱えて仏になったのだとか、いや〜釈迦といっても大したもんじゃない、題目を唱えていれば人間は本来から仏、人間こそが本仏だとか、もう法華経に説かれたこととは全く違うことを言い出すんですね。そして果てには、日蓮聖人の偽書、偽の御遺文ですね、そういうものまで作って、これが我等にだけ伝わる日蓮聖人の奥義だ、口伝だとか秘伝だとか勝手なことを言い出すわけです。当の日蓮聖人はですよ、そういう馬鹿なことは許さんぞと、開目抄にも、お釈迦様は「私の説いた教えに依りなさい、人に依ってはならない」と言われた、天台大師も「経巻に書かれていないことは信じるな」、伝教大師も「口伝なんか信じてはならぬ」と言われているぞと、そう忠告しているにも拘わらずなんです。
そこでです。日什正師、顕本法華宗は「経巻相承、直授日蓮」を掲げているんですね。法華経はお釈迦様が説かれた通りに信仰する、そして日蓮聖人の教えも、偽書だとか誰が書いたか分からないものは除いて、日蓮聖人が本当に書かれたもの、書かれた通りの教えを直ちに授かる、これを私達の旗印にして教義を立てているわけなんです。で、明治以降は日蓮聖人の御遺文の研究も進んで、何が御真筆か、何が偽書かということも大分はっきりしてきましたから、益々顕本法華宗の言うことが、いよいよ正当であることが立証されてきたわけです。どうですか皆さん、日什正師こそ、顕本法華宗こそ、お釈迦様に純粋、法華経に純粋、日蓮聖人の教えに純粋であることは明確ではないでしょうか。日蓮聖人の直接のお弟子ではありませんでしたけれども、日什正師こそ、日蓮聖人の御精神を正しく受け継がれているのではないでしょうか。そして日什正師は「大聖人の御内証を垂れた給える御慈悲を頂戴して」と言って、お釈迦様から日蓮聖人に渡された法門を「塔中聴法の次第」として私達弟子に相承しておるわけでございます。まあ、この辺は一段立ち入った話で、少々難しいお話でもありますので、次回日を改めまして、またお話しできればと思います。
本日は、簡単な紹介でございましたが、御清聴、誠に有り難うございました。