「臨終正念と霊山浄土」


皆様、こんにちは。ただ今 御紹介に預かりました顕本法華宗の土屋信裕で御座います。皆様、すでに御存知のように、仏教と申しますのは、いかがわしい宗教などが宣伝するように、仏や神、或いは霊能者などにすがって現世の御利益を期待したり、天国や極楽に生まれ変わろうという目的のものでは御座いません。

仏教における正しい教えとは、けっしてそういうものではない、お釈迦様の真実の教えでなければならないもので御座います。そして、その真実の教えに於いて最も肝心であることは、煩悩や苦悩に惑わされて人生を拙く生きる私たち凡夫には、なかなか覚りがたい事でありますけれども、一切衆生の主であり、師であり、親である本仏・釈迦牟尼仏が永遠の実在であって、常に私たちを導かんとして教えを説かれている事実なので御座います。

その事実を明かされたのが、法華経本門の寿量品であり、そして日蓮聖人は曼陀羅本尊にその事実を顕わし、その信心を保つように私たちに受け渡されたので御座います。この御本尊に、「南無妙法蓮華経」と唱えて、その信心を奮い起こすならば、実在なるお釈迦様は、必ずや私たちの迷妄なる心を照らして、仏の智慧を授け、我が人生に於いても、或いは社会においても、その理想の実現の為に、私たち自らが臨むべき道を示して下さるので御座います。そしてそこに、諸天善神の御加護もあるので御座います。

本日は、哲学的な或いは心理学的な面から、それらの詳細についてお話することは、時間の都合上からも許しませんが、大変有り難いことに、こうして日蓮聖人の教えに御縁のある方々にお集まり頂きました。今回は自己紹介を兼ねまして、「臨終正念と霊山浄土」について、少しばかりお話をさせて頂きたく考えております。

お年を召した方もいらっしゃる、或いはこれからを考える若い方もいらしゃる皆様の前で、「臨終」とか「浄土」などとは、こりゃまた縁起でもないと思われるやも知れませんが、日蓮聖人は、仏法を学ぶ際には「先づ臨終の事を習うて後に他事を習うべし。」と仰られております。

顕本法華宗の修法の唱え言葉には「臨終を期して霊山に往詣し」と御座いますが、これは日蓮門下にとっては、とても大事な教義の一つで御座います。この機会を逃さずに是非ともお話しておきたいことなので御座います。すでに、過去の御訓話の中から、同じ様なお話を伺ったこともあるやもしれませんが、最後の最後まで尊い信心を皆様に受持して頂くために、お聞き願えれば有り難く存じ上げます。

日蓮聖人ならびにその弟子・信者と申しますのは、法華経を受持するがための迫害や、或いは法華経の精神を貫いて生きるがための苦難の中におきまして、本仏釈尊の導きと諸天善神の御加護の信念を益々確信し、法悦を以て人生に臨むもので御座います。従いまして、臨終正念と申しますのも、臨終の時にだけ、念仏や題目を唱えて、あわよくば浄土などに救われようと言うものでは御座いません。

四恩抄に「法華経の故に かかる身となりて候へば、行住坐臥に法華経を読み行ずるにてこそ候へ。人間に生を受けて是れ程の悦は何事か候べき。」と、日蓮聖人は仰っておられます。即ち、法華経の正しき教えと共に、我が人生を、生きて生きて生き抜いて、そして臨終の際には、その証を得ることが臨終正念で御座います。

日蓮聖人、身延入山後の弘安二年、熱原法難という法華信仰のお百姓さんが「南無妙法蓮華経」と唱えるのを止めなかったため、役人によって斬殺されるという事件が御座いました。 その報せを受けた日蓮聖人が、御返事を出された「変毒為御書」と言うのが御座います。この中で日蓮聖人は、この迫害を捉えて「釈迦多宝十方の諸仏・梵天等、五々百歳の法華経の行者を守護せんとする御誓いとは、是なり。」と言う一見厳しいことを涙ながらに述べられております。題目を唱え続けたために、お百姓さん等が斬殺されたにも係わらず、日蓮聖人はこれが仏の御守護の現れだと仰っているので御座います。

これがどういう意味かと申しますと、法華経の精神によって「立正安国」の実現に、不自借身命の、自らの命を惜しむことなき布教をされ、度重なる迫害を受けた日蓮聖人は、「撰時抄」において御自身の生涯を振り返り、「ただ偏に釈迦如来の御魂(みたましい)我が身に入りかわせ給いけるや。我が身ながらも身にあまる。一念三千と申す大事の法門はこれなり。」と述べられ、日蓮聖人の法華経を弘める生涯というのは、お釈迦様の魂が我が心に在って、そのお釈迦様の魂のお働きによるものだと仰られているので御座います。そして、お釈迦様の直弟子であるとの自覚の法悦を述べられているので御座います。

題目を唱えると言うこと、即ち「妙法蓮華経」への信念を止めなければ、八つ裂きにするぞと脅かされても、これに怯むことなく題目を唱え続けることは、普通に考えるならば常人の出来ることでは御座いません。つまり、先のお百姓さんが自らの死に直面しながらも怖れることなく、題目を唱え続けたと言うことは、これは実はお百姓さん自身が唱えているのではなく、法華経の受持者をお護りしていることを、お釈迦様ならびに諸天善神が、お百姓さんの心にあって唱えさせているものだと日蓮聖人は仰っているので御座います。

即ち、法華経の受持者、法華経の行者を、お釈迦様ならびに諸天善神が、死という極限に於いても、確かに守護されている事実というものを信仰の上から明かすものなので御座います。たとえ、今生の命が絶えようとも、来世に繋ぐ命、永遠に続く法華経の受持者・法華経の行者、即ち釈尊の御弟子、釈尊の愛子である魂を、本仏・釈迦如来ならびに諸天善神が、見守り保証して下さっている証なので御座います。

皆様、既に御存知かも知れませんが、日什門流である顕本法華宗には不自借身命の折伏布教で有名な日経上人がおられます。日経上人は「曼陀羅に向かって題目を唱え天竺の霊山に参るべし。」と「臨終正念」を強く唱えられた方であります。日経上人が迫害を受けたのが、日蓮門下に於いて有名な江戸時代初期の慶長法難で御座います。慶長法難とは、日経上人の布教における御活躍に業を煮やした徳川幕府の陰謀により、浄土門との法論が命ぜられたので御座いますが、法論とは名ばかりで、当日の朝に幕府の役人衆が押し掛けて、日経上人を半死半生の身とした上、瀕死の日経上人を戸板に運んで法論をさせたので御座います。


日経上人は当然の事ながら、一言も答えることを叶えずして、幕府は念仏側の勝利としました。そして、日経上人ならびに五人の弟子に折伏布教を止めるように拷問を加え、挙げ句の果てに洛中引き回しの上、全員を耳削ぎ、鼻削ぎの刑に処した法難で御座います。その場で、殉教された御弟子も御座いました。

その日経上人は、曼陀羅本尊の授与は「現世安穏より臨終正念、没後善処」の為と云われ、「曼陀羅に向かい題目を唱ふることは、一歩もすごさずして天竺の霊山へ常々参ることであるというのが、日蓮聖人の御書の心なり。」と仰られ、迫害にも退転することなく、晩年に至るまで布教に御尽力されたので御座います。

これは日蓮聖人が、その御書「最蓮房御返事」などに「我等が弟子檀那とならん人は一歩を行かずして天竺の霊山を見、本有の寂光土へ昼夜に往復し給う事うれしとも申すばかりなり。」と仰られているからで御座います。

日蓮聖人は、立正安国の願を立て、自分の命は捨てても、今度は正義を一貫すべしと御決心され、遂には極寒の佐渡の流され、塚原三昧堂という死人を焼くところの田舎の墓場にある、あばら屋に放り込まれたので御座います。板が置いてあるだけの屋根は腐って雪が降り込み、四方は筵(むしろ)の破れたのを下げてあるだけで、風を凌ぐことも出来ない有り様で御座いました。

野垂れ死ねばよいという状況の中にあって、日蓮聖人は信心の力によって霊山浄土へ参り、お釈迦様にお逢いになられ、そしてお釈迦様の直弟子であることを覚られ、「我等が如く悦び身に余りたる者よもあらじ。」とその心中を示されたので御座います。そして、日蓮が弟子檀那として法華経を修行する人は、如何なる人如何なる所でも一歩も歩むことは要せぬ、信仰に目覚めたる時は、釈尊の法を説き給へる天竺の霊山を目前に見ることが出来る、実在の浄土へ昼夜に往復することが出来るのだと、弟子・信者たちに仰られているので御座います。

法華経の法師品に「この人、大信力及び志願力・諸善根力あらん、当に知るべし。この人は如来と共に宿するなり、如来の手にその頭を摩でられん。」と御座います。日蓮聖人は、観心本尊抄副状において「師弟共に、霊山浄土に詣でて三仏の顔貌を拝見し奉らん。」と仰っておられます。今ここに、日蓮聖人の法門に正しく入られ、法華経の真髄を護らんと今日まで努められてきた皆さんの功徳というものは、それを本当に可能とする大変有り難いものなので御座います。

法華経の信仰と共に、この尊き人生を生きるならば、臨終に際しても、必ずや皆様は「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」と唱えることで御座いましょう。その時に、お釈迦様は皆様の前に必ずや尊い姿を以てお立ちになり、「善き哉、善き哉」と皆様の頭を摩で、「汝、私は常に汝とともに在るのだよ。」とその実在をお顕わしになるので御座います。これは、嘘や迷信では御座いません。僧侶が嘘や迷信を言えば、お釈迦様の弟子なんぞでは御座いません、詐欺師で御座います。

御門下の素晴らしき先達の方々は、皆、実際に体験されていることなので御座います。日蓮聖人の導きによって、法華経の真髄、お釈迦様の実在を信じ務めてきた皆様は、必ずや臨終に際して、実在なるお釈迦様のお姿に触れることが出来るので御座います。

そしてその時、お釈迦様のお姿は空中に舞い昇り、目の前に観る世界は、お釈迦様が法華経を説かれた虚空会の霊鷲山へと一気に開けて、天には神々の奏でる音楽が満たされ、諸天善神の賞讃に皆様は包まれるので御座います。皆様の傍らには、日蓮聖人を始め、過去世において皆様を導かれてきた方々が、その人生を労うようにお立ちになり、皆様の後方には、数、数え切れない程のお釈迦様の弟子、地涌の菩薩が連なり、皆様と共に「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」と唱題して下さっているので御座います。

ここに至って皆様は、我が人生というものを、本当に悟ることが出来るので御座います。これまで皆様がお釈迦様の御弟子であると信じていたことが、実は本当の真実であることを自らが悟るので御座います。久遠常住なる、即ち永遠に我等を導いて下さるお釈迦様が、本当に永遠不滅であり、そして私たちが永遠なるお釈迦様の永遠なる御弟子であって、永遠なる命を以て、この娑婆世界に繰り返し命を受けていることを悟るので御座います。

我が精神の絶対なるもの顕れる時、即ち本仏・釈尊並びに仏界の霊山浄土顕れる時、私たちは、一切の真実を悟るので御座います。このために日蓮聖人は、妙法尼御前御返事においても「最後臨終に南無妙法蓮華経ととなへさせ給ひしかば、一生乃至無始の悪業変じて仏の種となり給ふ。煩悩即菩提、生死即涅槃、即身成仏と申す法門なり」と述べられているので御座います。

これまでの人生を思い起こすならば、楽しかったことは束の間であり、辛かったこと、苦しかったことの連続であったとも言えましょう。しかしながら、その様な中にあっても、皆様は善き方へ善き方へと、実は導かれてきたので御座います。

あの時も、そう言えばあの時もと思い当たる自らの経験が、実はすべて、お釈迦様が私たちを仏にしようとお計らいになって、功徳を積ませていたので御座います。そして、それを諸天善神が御加護されていたので御座います。私たちは常に、お釈迦様の慈悲に包まれて導かれているのであると、一切の我が人生に感謝の念を以て認めることが出来る瞬間でも御座います。

その感激に噎ぶ法悦を、お釈迦様への御報恩に変え、この娑婆世界に迷える人々を一人でも救い、理想の社会、仏国土の実現のため、お釈迦様の御弟子、日蓮聖人の御弟子として、この現実の世界で御尽力され、そして再び生まれ変わって頂くのが、皆様の御使命なので御座います。

他の宗教で宣伝するように、死んでから楽しく、のんべんだらりと出来るような「極楽浄土」などは、この世にもあの世にも御座いません。それは、お釈迦様が方便として説かれた教えで御座います。お釈迦様の霊山浄土へ往かれまして、束の間のお休みを取られましたなら、皆様には、すぐさま娑婆世界に、仏子として、お釈迦様の御弟子として、お戻りになって頂かなければならないので御座います。

私も、すでに四十を越えましたけれども、まだまだ若輩者で御座います。その若輩者の私が、皆様と御一緒の信仰を得られましたことも、偏に信仰を護られてきた皆様のお陰で御座います。本来ならば、その御功徳を労わねばならないところで御座いますが、こうして今日お集まり頂いた皆様を前に致しますと、まだまだこれからも、さらなる皆様の信仰の力を頂きたいと願う次第で御座います。

何卒、今後も宜しく、そして何年か後、何十年か後に、お釈迦様のところへ先にお出でになられました方がいらっしゃいましても、あまりあちらでゆっくりとお話などを聞いておられずに、すぐさま生まれ変わって、この娑婆世界で藻掻いております私などを是非とも助けて頂きたいと、切に御願い致すところで御座います。本日は、こうしてお話をさせて頂きまして、本当に感謝しております。どうも有り難う御座いました。

南無妙法蓮華経

                      
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