道義 その1

「諸悪幕作 衆善奉行 自淨其意 是諸仏教」「諸悪を作すことなかれ、衆(もろもろ)の善は奉行し、自らその心を浄くせよ、是れ諸仏の教えなり」これは過去七仏通解と云われ、根本仏教より仏教が道徳の根源となっていることを説いていることを表すものです。法華経寿量品においても、釈尊は「諸の善根を生ぜしめんと欲して」と説かれているのであります。このように仏教とは、道徳の根本となるものですから、いくら信心を強調するとは云え、道徳を軽んじるようなことはあってはなりません。仏教の宗派の中にも「末法は無戒であるから」などと言って道徳の方を否定するが如き教えや、また創価学会等の新興宗教のように、自らに敵対する邪宗に仏罰を与えて撲滅するのは正義であると教えるようなことは大きな誤りです。

仏教の根本戒に五戒があります。日蓮聖人も五戒を軽んじて大乗戒を持つなどという馬鹿な話はないと申されています。五戒とは、むやみな殺生をすることなかれ、人のものを偸盗(ぬすみ)することなかれ、色欲に惑わされて邪淫することなかれ、人を騙すような妄語(うそ)することなかれ、酒に飲まれて理性を失うことなかれ、これ等は皆社会道徳の根本でもありましょう。およそ仏教を学ぼうとする者は、信仰の大切な事と同時に道徳の尊さを重んじて実行していかなければならぬのは当然のことであります。

道義 その2

「此の土の我等衆生は五百塵点劫より已来(このかた)教主釈尊の愛子なり、不孝の失に依って今に覚知せずと雖も他方の衆生には似るべからず。有縁の仏と結縁の衆生とは譬えば天月の清水に浮かぶが如く、無縁の仏と衆生とは譬えば聾者の雷声を聞かず盲者の日月に向かうが如し。」

法華取要抄の一節です。子は親を忘れることあっても、親は子を捨てるものではありません。仏教徒であるにも係わらず、我が心の親である釈尊を忘れているようなことはあっても、釈尊の慈悲は少しも私たちを離れていなのであります。有縁の仏とは、娑婆世界の教主となられた釈尊であります。結縁の衆生とは、娑婆世界に生まれてきた私たち衆生であります。娑婆世界に無縁の仏と衆生との関係は、耳の不自由な者は雷の音を聞かず、目の不自由な者は日月を見ないが如く、そこに感応を起こすことは出来ないのであります。しかしながら、釈尊と私たちの関係は、天に月出れば清水に映るが如きものでありましょう。およそ仏法を学び徳を積まんとする者、本仏釈尊の愛子なりとの自覚に基づかずして、如何に信仰を保つことが出来ましょうか。

道義 その3

「諸々の所説の法、其の義趣に随って、皆実相と相違背せじ。もし俗間の経書・治世の語言・資生の業等を説かんも、皆正法に順ぜん。」

法華経・法師功徳品の一節です。「俗間の経書」とは道徳上の書物であり、「治世の語言」とは政治の言葉であり、「資生の業」とは仕事等の経済活動であります。法華経を受持し、その意義に徹底した者が、例えば道徳や政治や経済や、そして人生生活等について説く場合には、皆法華経の絶対真理と順応一致し、これ皆仏法、即ち釈尊の所説の如くなるものであります。

日蓮聖人も、「天晴れぬれば地明らかなり、法華を識る者は世法を得べきか」と仰られておりました。世法が乱れるとは今の世の中のように、道徳と政治、政治と経済、経済と道徳が皆分離してしまって”てんでんばらばら”の状態にあることを言います。これらがその領域の価値を活かしながら、且つ互いに影響しその関係を改善しながら発展していくためには、その奥底に理想を実現する統一的な大精神がなくてはなりません。法華経が一乗の教えを説くのも、ここにあります。

道徳上の都合の良いことを言えば、政治上の都合の良いことを言えば、経済上の都合の良いことを言えば、皆かち合ってしまうような議論は出来損ないであります。実相と相違背せず、すべてが根本の理想に基づいて、融和統一されていかなければなりません。


道義 その4

「それ国は法に依って昌(さか)へ、法は人に因(よ)つて貴し。国亡び人滅びなば仏をば誰か崇(あが)むべき。法をば誰か信ずべきや。先ず国家を祈って須らく仏法を立つべし。」

問答形式で著された「立正安国論」の一節です。上記は主人(日蓮聖人)に問う客人の言葉であります。国は仏法によって昌え、その仏法は人によって貴まれるものであるのは理解している。しかしながら、国が亡び人も滅びてしまうようならば、仏法云々でもなかろう。まず、国家のことを祈るべきではないのかと主人に問うています。これに対し主人(日蓮聖人)は、

「汝早く信仰の寸心を改めて実乗の一善に帰せよ。然からば則ち三界は皆仏国なり。仏国それ衰えんや。十方は悉く宝土なり。宝土何ぞ壊れんや。国に衰微なく土に破壊なくば、身はこれ安全にして心は是れ禅定ならん。此の詞此の言、信ずべし崇むべし」と結論されております。

我が身の安堵を想うならば、国の平和や政治或いは経済的な安定を願うのは当然のことでありましょう。しかしながら、国が栄えるのはその思想や道徳等、即ち「法」が正しいかどうかにあります。即ち、思想や道徳の根幹ともなる正しい宗教が、国民によって貴っとばれているかどうかによるのです。我が身を想うならば、国を想うならば、まず一人一人が、衝突をして分裂するようなものではなくして、法華経のように一切を融和統一する精神を説く正しい思想、正しい信仰、正法に向かうべきなのであります。そうして、正しい精神によって顕わされる理想の世界に裏付けられて、この現実の世界に理想の国を実現せんとするのであります。このことを信じなければならないと、日蓮聖人は仰っているのであります。

自由を履き違えて説教なんぞお断りだという現代の風潮では、教化も教化に当たる人間も無用の存在の如きであります。そして葬式以外には無用な者が、宗教に携わっているかの如く考えている人が多々であります。そのような状態であるからこそ、善き宗教家も現れないのであります。法と人と国の関係は、どれをも欠くことも出来ない大事なことであります。

道義 その5

「就中(なかんづく)日蓮生を此の土に得たり、あに吾が国を思はざらんや。〜抑も貴辺は当時天下の棟梁なり。何ぞ国中の良材を損ぜんや。早く賢慮をめぐらせて、須らく異敵(蒙古襲来)を退くべし。世を安んじ国を安んずるを忠と為し孝と為す。是れ偏に身の為に之を述べず、君の為、仏の為、神の為、一切衆生の為に、言上せしむる所なり。」

「一昨日御書」の一節です。釈尊の説かれた仏教は真理(法)に基づき、如何に現在を生きるか、如何なる社会を築くかというものでありました。しかしながら、当時の仏教界は、死後の極楽往生や利益を求める祈祷に走り、政治もその様な思想のもとに行われていたのであります。そして日蓮聖人は内乱や疫病、天災・人災或いは他国侵略の事態を解決するべく、正しき思想に基づく政治が行われるようにと「立正安国論」を以て幕府に諌暁しましたが、却って念仏宗の僧や信徒の怒りをかい、暴徒によって草庵の襲撃を受けます。しかしながら、日蓮聖人はその後も幕府にその道理を説くべく機会を得ようと、公上対決か或いは自らの流罪死罪か賭けて、布教の一方で他宗批判をも続けました。日蓮聖人が予言した蒙古来襲の危機迫る四年前、日蓮聖人は他宗の訴えにより尋問を受けますが、再び「立正安国論」に添えて此の「一昨日御書」を(平頼綱へ)送られます。そしてその夜、今度は謀反人として捉えられ処刑されんとされたのです。

人心が退廃し思想が悪化すれば、国は乱れるものです。法即ち思想というのは、人生にとっても社会にとっても大事なものであります。「思想は大事であり自由である」といって国や社会を考えないことも誤りであり、「思想はどうでも良い、個人の勝手都合である」と軽んじて政治や経済などをなすことも誤りであります。それ故に日蓮聖人は、個人的独善的なる主張をするのではない、全く自分一人の利害などから之を申す訳ではない、日本の公のため、一切衆生のために申し上げる次第であると、命を懸けて述べられているのです。

道義 その6

「善に付け悪に付け法華経を捨つるは地獄の業なるべし。本願を立てん、日本国の位をゆづらん法華経を捨てて観経等について後生を期せよ、父母の頸(くび)を刎ねん念仏申さずばなんどの種々の大難出来すとも、智者に我が義やぶられずば用ひじとなり。其の他の大難風の前の塵なるべし。我れ日本の柱とならん、我れ日本の眼目とならん、我れ日本の大船とならん等と誓ひし願やぶるべからず。」

開目抄の一節です。本仏釈尊の実在と釈尊の教えの本質を説き顕した法華経は、如何なることがあっても捨ててはならない。例え、日本の国家の位を譲ろうであるとか、死んだら極楽浄土に救ってやろう等と「利」を以って言われたとしても、或いは父母の頸を刎ねるぞと脅かされても、けっして信仰に動揺を来たしてはならないと強固に教えておられます。ただし、これは信仰に固執して狂信するものであってはならないから、智者があって条理正しき教えによって破られた場合には、それに従っていかねばならぬ。けれども、そうでない限りは如何なる利益を約束されても、如何なる威嚇にあっても従ってはならないと云われております。

そして本仏釈尊の弟子、菩薩として信仰を受持するのでありますから、我が身のことはさて置いても、一切の衆生の為、日本に生まれては、恩ある人々や父母等の住む国のため、「法を知り国を思うの志」を宣言されたのです。この「日本の柱」ということを、偏狭な愛国主義に置き換える人々がおりますが、日蓮聖人の志はあくまでも一切衆生の為であり、日本に生まれ、目前の日本の国の行末に係われるからこそ、釈尊の弟子として日本の国において自らの役割を発揮せんとされているのです。一方で国を愛すことは、国家主義者のすることで世界の平和を乱すことだ等という屁理屈を述べた個人思想も現在では氾濫していますが、我が身の回りの家庭や社会に、或いは自らの住まう国に正しき教えを以って貢献できずして、世界平和などに係わってそれを実現できるものではありません。

道義 その7

「儒家の孝養は今生に限る、未来の父母を扶(たす)けざれば外家の聖賢は有名無実なり。外道は過末をしれども父母を扶くる道なし。仏道こそ父母の後世を扶くれば聖賢の名はあるべけれ。しかれども法華経已前等の大小乗の経宗は自身の得道を猶かなひがたし。何に況や父母をや。但文のみありて義なし。今法華経の時こそ、女人成仏の時悲母の成仏顕れ、達多の悪人成仏の時慈父の成仏も顕はるれ。此の経は内典の孝経なり。」

開目抄の一節です。儒教などは、生きている間の孝行は説くけれども、親の不滅の命を救うことはできない。バラモン教などでは、過去・未来の霊の存在は説くけれども、その親を扶すけるだけの善き教えがない。仏教のみが父母の後世を扶すける教えであるから、真の聖賢と言うべきものである。しかしながら、法華経以前の経は自分の得道さえもままならないものであるから、況やどうして親を扶すけることができようか。成仏という言葉のみあるが義はないではないか。法華経のみが女人成仏を現しているが故に、我が母の成仏も保障されるのである。法華経のみが提婆達多のような悪人成仏を許しているが故に、たとえ罪深き父であっても間違いなく救われるのである。法華経は、仏教の孝経とも言うべきものである、と日蓮聖人は云われています。

仏教では、衣食を施すのは低い孝行、親の意に従うのは中位の孝行、己が宗教の信仰によって功徳を積んで、その徳を親に回向して親を助けるのが一番上の孝行とされます。法事に僧侶を呼んで有難いお経を上げるから亡き父母も成仏するのではなく、善き導師である僧侶と共に法華経によって本仏・釈尊の弟子として自覚を得て自ら善根を積み、父母を扶すける法華経によって、その成仏を祈らねばなりません。仏教における祖先の追慕とは、そのような日本の倫理・道徳の根幹となるものであります。


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