護法 その1

「如来の滅後に四衆の為に是の法華経を説かんと欲せば、如何にして説くべき。是の善男子善女人は、如来の室に入り、如来の衣を着、如来の座に坐して、しこうして乃し、四衆の為に広くこの経を説くべし。如来の室とは一切衆生の中の大慈悲心なり。如来の衣とは柔和忍辱の心是なり。如来の座とは一切法空是なり。是の中に安住して然して後に不懈怠の心を以って、諸の菩薩及び四衆の為に広く是の法華経を説くべし。」

法師品の一節です。如来の室とは、一切衆生の心にあるところの大慈悲心であり、即ち如来の居られる所であり、如来の衣とは、人々の柔和忍辱(にんにく)の心であり、如来の座とは、一切法空、即ち自己の利害などの何事にも囚われない心です。この衣・座・室の三軌が護法の心構えであり、一切の人々の苦を除く釈尊の法を護るために、自らの慈悲心を起こして法華経を弘めていかなければなりません。如来の室とは、遠き浄土にあるわけでもなく、天上にあるわけでもなく、我が心の内にあるものです。人々の心に慈悲の働きがあれば、そこに釈迦如来が常においでになるのであります。仏とは他の世界にいるものだとか、我が心が仏だとかの僻見に堕するのではなく、客観の釈迦如来の実在を認めることが最も大切な事です。釈尊の実在を意識し、自分の内在するところの慈悲心が相値いして感応し、そして奮闘することが出来る、そういう仏教でなくして一体何の役に立ちましょうか。

護法 その2

「濁劫悪世の中には多く諸の恐怖あらん。悪鬼其の身に入って我を罵詈毀辱せん。我等佛を敬信したてまつりて当に忍辱の鎧を着るべし。是の経を説かんが為の故に此の諸の難事を忍ばん。我れ身命を愛せず但だ無上道を惜しむ。」

法華経・勧持品の一節です。この教えを護り弘めていく時には、悪鬼が反対者の身に入って法華経の行者を悩ます等、数々の邪魔が入ります。しかしながら、私たちは本仏釈尊を敬い信じて力となし、如何なる辱めにも耐え忍ぶ鎧を着るのであります。そして、如何なる困難があっても、身命を惜しまず無上の道を護らねばならないのであります。

多くの者は、唯「法華経は有り難い」等とは口ずさんではいますが、この「我等佛を敬信したてまつりて」と言う信仰の涌いてくる源を捨てているがために、真の護法の熱き精神がなくなってしまったと言えましょう。本仏釈尊を敬信するからこそ、法華経を愛すのでありましょう。絶対の仏に対する渇仰の精神なくして、仏国土を実現する心なくして、自己の利害によって物事を考えるような者には、犠牲の精神などは起こってきません。困難なことがあれば、さっさ逃げ出してしまうのであります。また、「法華経は言い過ぎだ、命こそが無上道だ」等と言う者もおりますが、それは釈尊が諌められた生死に執着することであります。生死に執着すれば、人は損だとか得だとかばかり考えて、何も困難なことには臨まないのであります。日蓮聖人の教えにある者が、真に護法の精神を発揮しようと思うならば、日蓮聖人の如く本仏釈尊に対する熱烈なる信念を養わねばならないのであります。

護法 その3

「予少量たりと雖も忝(かたじけ)なくも大乗を学べり。蒼蠅驥尾に附して万里を渡り、碧羅松頭に懸かりて千尋に延ぶ。弟子一仏の子と生まれて諸経の王に事(つか)ふ。何ぞ仏法の衰微を見て心情の哀惜を起さざらんや。」

日蓮聖人「立正安国論」の一節です。自分は力の足りぬ者だけれども、大乗の教えを学ぶことが出来た。青蠅が優れた馬の尾について万里を渡るが如く、蔦(つた)が松に懸かって千丈の高きに登るが如くである。本仏釈尊の子として、弟子として生まれて、しかも諸経の王である法華経に仕えて、何ぞ仏法の衰退を見て悲しみの心を起こさずにおられようか・・と仰られております。

日蓮門下が、何時までもあれこれと理屈をこね回し、或いは布教などには「知らぬ存ぜぬ」と退廃していて良いわけがありません。これまで仏教が衰退した原因は、寿量品で「世の父」であると仰られ、私たち子を哀れみ何とか救おうとされている本仏釈尊を意識せず、そしてこの「一仏の子として生まれて」と言うことに信念がないからであります。日蓮聖人の根本の精神を、受け継がないからであります。釈尊の愛子であり、法華経に仕える身であるならば、日蓮聖人の如く、何としても仏教の衰退を挽回して、真の仏教を発揮しようと、護法の精神を燃え上がらせねばなりません。

護法 その4

「総じて日蓮が弟子檀那等 自他彼此の心なく水魚の思ひをなして異体同心にして南無妙法蓮華経と唱へ奉る処を生死一大事の血脈とは云ふなり。然も今日蓮が弘通する処の所詮是なり。若し然らば広宣流布の大願も叶ふべきものか。剰つさへ日蓮が弟子の中にも異体異心の者これあらば、例せば城者として城を破るが如し。」

「生死一大事血脈抄」の一節です。「水魚の思い」とは、魚心あれば水心ありと言うように、つまらぬ事情によって反目せず、日蓮門下は僧俗男女皆心を合わせてやるべきであって、今のように派に分かれて「余所とは一緒にやれぬ」云々等と言うことを諫めたものであります。「生死一大事の血脈」とは、心を合わせて法のために尽くす、そのところから成仏の大事も出てくるのでありますから、自分の所だけ特別の書き付けがあるのだとか言うような者は、むしろ日蓮聖人の血脈を破る者であります。また日蓮の弟子檀那と言いながら、心を違えて、くだらぬことに反目する様な者は、城を守るべき武人が却って、中から城を破るものであります。今の日蓮門下に、この城者破城に陥っている者が多くいるのは悲しむべきことでありましょう。

仏教を信じ修行するという者は、功徳を積むことを目的としますが、まずは護法の中に大いなる功徳があることを知らねばなりません。法のために尽くすことが、功徳であり目的なのであります。尽くしたから何かを得られるというのではなく、私たち凡夫が釈尊の教導をお手伝いし、正法を護持するという活動を光栄として、護法のために尽くすのであります。日蓮聖人の願いは「真俗如意、広宣流布」であります。これは僧侶も信者も共に広宣流布を誓願すると言うことであります。この精神を忘れてしまって、勝手に小さな願業を打ち立てて、加持祈祷をすると言うのならば、もはや日蓮門下の看板は下ろさねばならぬのであります。


護法 その5

「譬えばよき火打ちと、よき石のかどと、よきほくそと、此の三つ寄り合ひて火を用ゆるなり。祈りも亦是の如し。よき師とよき檀那とよき法と此の三つ寄り合ひて、祈りを成就し国土の大難をも払うべきものなり。よき師とは指したる世間の失無くして聊(いささか)のへつらうこともなく、少欲知足にして慈悲あらん僧の経文に任せて、法華経を読み持ちて人をも勧めて持たせん僧をば、仏は一切の僧の中に吉(よ)き第一の法師なりと讃められたり。吉き檀那とは貴人にもよらず、賤人をにくまず、上にもよらず下をもいやしまず、一切人をば用ひずして一切経の中に法華経を持たん人をば、一切の人の中に吉き人なりと仏は説き給へり。吉き法とは此の法華経を最為第一の法と説かれたり。已説の経の中にも、今説の経の中にも、当説の経の中にも、此の経第一と見えて候へば吉き法なり。」

法華初心成仏抄の一節です。良き火打金と良き石と良き火口と三つが寄り合って始めて火が出るように、善き師と善き信者と善き法の三つが寄り合って、祈りを成就せなばならないと日蓮聖人は言われています。祈りを成就するとは、法華経を妙法を全世界に普及せしめて、個人と社会の理想の実現を成し遂げようという確信の下に奮闘することであります。さすれば国土の大難をも払い、立正安国の精神によって、自らの人格は成長を遂げ、社会も栄えていくでありましょう。厭世的な仏教や御利益を祈祷するような仏教では、世の中が衰退し或いは乱れている時には、何の役にも立たないのであります。日蓮聖人の思想の如く、私たちは法華経を以て活動的な仏教とせねばならないのであります。

善き師とは、欲少なく世間に諂うことなく慈悲心を本にして奮闘する僧侶を言い、善き檀那とは、身分の貴賤や上下に拘わらず、世間の人に惑わされず法華経を信じ法華経のためにする信者を言い、善き法とは、過去に説かれ今説かれ未来に説かれる経の中で最第一の法華経であります。此の三つが力を合わせて始めて、護法の目的が達せられるのであります。日蓮門下の僧侶も信者も、個人的な祈りばかりを盛んにして、理想社会の実現という偉大な精神に結びつかないようでは、いくら法華経が有り難いと言っても、妙法も弘まず妙法の力も発揮されないのであります。

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