発心篇

その1

「汝達すみやかに家より出よと、父は子供等を憐れみ、燃えさかる家より諭し誘いだそうとすれども、諸々の子供たちは戯れに楽しむことに執着して、父の言葉を信じず、かかる事態にも驚きもせず怖れもせず、火とは何やら、家とは何やら、何が危ういのやらも知ろうとしない。少しばかり、父の顔は見たけれども、また遊びに夢中になって東西に駈け回っている有り様であった。」

これは、法華経譬喩品の一節です。心ある者はこの経文を以てして、目を醒まさなければならないでありましょう。「火」とは、人生の四苦八苦、生老病死であります。身分の上下に関係なく、裕福や貧乏に関係なく、妻や子供が大病になったり、事故で亡くしたり等、人生の不完全さを指すものであります。また「家」とは、自分のことばかり惜しみ考える人生を指しています。「戯れ楽しむ」とは、欲望に溺れることを指します。そして、「子供たち」とは、そのような人生から抜け出すことも、そのような人生が如何なる災いをもたらすかも知ろうとしない者たちを指すのです。

自分の人生は、欲を満たし楽しむことが全てと考える思想が蔓延としていれば、社会は低級なものとなり、道徳は廃れ、争いが起こり、乱れたものとなっていくのは当然の道理です。子供達が、聞こうとしない「父の誘い諭し」とは、人生を悲観することなく、高潔なる道徳を以て人生を完全に導こうとする、即ち健全なる宗教の信仰に入らせんとすることなのです。

その2

「医者なる父がいない間に、誤って毒薬を飲んだ子供等は、父が薬草を和合した最良の解毒剤を与えようとしても、錯乱しその薬さえも、気に入らぬと言って服さない状態にあった。そこで父は他国へ赴き、方便を以て子供達に使いを遣わして目覚めさせるために、汝が父はすでに死んでしまったと告げさせるのであった。もう助けてくれる者はないぞと告げらえた子供達は、父が在るならば我等を助けてくれるであろうが、我等を捨ててそして死んでしまったと、自分たちの身の上を悲しむだけ悲しむのであった。しかし、ついにその非情な悲しみのために毒にあてられた心が醒め、そして父の残してくれた薬の良き色・香・味を知って、これを服したところ、毒の病は悉く癒えたのである。」

これは法華経寿量品の一節です。この子供等とは我等衆生であり、父とは本仏釈尊です。他国に死すとは、方便を以て涅槃に入られたことを示します。使いを遣わすとは、日蓮聖人の如く釈尊の弟子を遣わすということであり、助ける者はないと告げさせることは、宗教心に目覚めさせることであります。父が在るならばとは、絶対の人格者である釈尊を渇仰することであり、父が和合しの残した薬とは、一切経を和合し具足する法華経を指します。良き色・香・味とは、戒・定・慧であり仏教の三学と言われますが、道徳的にも、心理的にも、哲学的にも優れた教えであることを示すのです。

誰か助けてくれと叫んでみても、薬を服さねば毒は癒えません。薬を服すといえども、訳も分からずあちらこちらの薬を服しても、効果は薄いものです。道徳的には優れているが他には欠ける、心理的には優れているが他には欠ける、哲学的には優れているが他には欠けるというのは完全なる教えではありません。我等を救わんとする絶対なる本仏と完全なる教えに目覚めて、そうして信仰の確立に進むことが、まずは大事であるのです。

その3

「受け難き人身を受け、値ひ難き仏法に値て、いかでか虚しく候べきぞ、同じく信を取るならば、また大小権実のある中に、諸仏出世の本意衆生成仏の直道の一乗をこそ信じずべけれ」(持法華問答抄)

これは日蓮聖人御遺文の一節です。今私たちは、この世に生きるという、とても有り難い機会を得ているのです。この貴重な人生を得ても、正しい教えも道理もなければ、知らず知らずにして煩悩の思うままに従って悪をなし、欲を貪る餓鬼や、思慮分別のつかない畜生や、苦しみの堪えない地獄の徒のような世界を送らねばなりません。しかしながら、有り難いことに私たちは仏法のあるところに生まれ、文化・文明もある所に「生」を受けたのです。このような因縁にある者が、立派な思想を持つことなく、信念を得ることもなく、ぼさーっと一生を送ったのでは、生まれてきた価値を見出すことなど出来ません。信仰は信念を得ねばなりません。当然、その信念の価値は、信ずべき教えの価値によって決まるものであります。

仏教には、大乗・小乗、権経・実経と区別がありますが、諸仏出世の本懐と衆生成仏の直道を説く、一乗の教えを信じるべきものでありましょう。一乗の教えとは、世間の法と仏法が矛盾することはないものです。ある宗派のようにこの世に悲観的になって他に浄土を求めるような教えや、世間を遠離してただ無念無想を凝らす、或いは火を焚いて呪術にすがる、或いは儀式ばかりに囚われている宗教では、社会との隔絶は深まるばかりでありましょう。実際の社会と自らの人生生活とが融合した一乗の教えでなければなりません。宗教の方から世間を捨てたり、世間から捨てられる宗教ではあってはならないのです。世法と仏法、即ち物質的なる生活と精神的なる生活が、融合して完備していくのが一乗の教えであります。

また一切の仏教は法華経において、すべからず統一されているものです。法華経なくては、仏教はバラバラになり、何が何なのやらさっぱり分からないものになってしまうのです。かの聖徳太子が国家の思想に仏教を招来した折にも、枝葉に分かれて分裂した宗旨を取らずに、法華経を中心に据えたことも然りであります。故に法華経の価値を知る者は、法華経を持(たも)つことが大事であると言われるのであります。

その4

「然るに生を捨て悪趣に堕ちる縁一にあらず。或いは妻子眷属の哀憐により、或いは殺生悪逆の重業により、或いは国主となって民衆の嘆きを知らざるにより、或いは法の邪正を知らざるにより、或いは悪師を信ずるによる。此の中に於いて世間の善悪は眼前に在れば愚人も之を弁ふべし、仏法の邪正、師の善悪に於いては証果の上人すら尚ほ知らず、況や末代の凡夫に於いてをや。〜凡夫の習い仏法に就いて生死の業を増すこと、その縁一にあらず。」

御遺文「守護国家論」の一節です。意義ある人生を送らねばならぬのに、この一生を虚しく過ごし、そして悪趣(餓鬼・畜生・地獄界)に堕ちる人々がおります。妨げ多き世間の中にあって、妻子や部下に留められて正しき精神を貫くことが出来ない、或いは殺生悪逆の罪により、或いは民衆の嘆きを顧みず権力を乱用することによる。或いは道徳や宗教の邪正を知らずして誤りを犯し、或いは悪師を信じて釈尊の教えである仏教・法華経を謗る、はたまた他を批判するような者はいかんと日蓮などは捨てて、迷信や祈祷に迷っていく哀れな人々がおります。

世間の善悪などは、誰でも考えれば分かることであります。しかしながら、仏法の善悪は覚ったと思えるような立派な人でも大観なければ、枝葉の教義に執着したり、誤った論釈に固執して分からないことであります。まして一般の凡夫が容易に分かるものではありません。この仏教の大観を知るには、一切の諸仏を開顕統一する実在の仏(久遠実成の釈迦牟尼仏)と、一切経を開顕統一する実教の法(妙法蓮華経)を中心に学ばねばならぬと、日蓮聖人は仰っているのであります。

仏教を習っているつもりになっていても、いい加減な誤魔化しを教えるような悪師に就いていたり、誤った教えを懸命に学んでいたのでは、生死の業を増すようなものであります。宗教の必要と仏教の崇高を認めるものならば、まずは仏教の大観を得て即ち法華経中心の思想に導かれる如く発心を起こさねばなりません。

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