第2回「妙法の行進を終えて」               「妙法の行進」事務局 土屋 信裕

第2回「妙法の行進」は、皆様方の御賛助・御協力の御陰を持ちまして、今回も無事成功の内に終了致しました。長く続いた内戦と未だ政局混乱のカンボジア王国において、法華経を弘めて世界の平和と繁栄を願う本プログラムは、「立正安国」を達成せんとする私達日蓮聖人門下に取りましても、久遠実成の釈尊の仏力と法華経の経力への「信」を問う大切な実証の場でもございます。今回は、首都プノンペン及びアンコール遺跡のあるシェムリアップにおいて、宗教省及び現地仏教界と協力の上、それぞれ総勢300人を超える僧侶と信者を動員して、唱題行脚ならびに3000冊の現地語に翻訳した要約「妙法蓮華経」の配布が各地で行われました。

5月30日夕刻にカンボジアに入国した日蓮聖人門下約20名の有志は、翌日6月1日の午前中には、上座部2派の長老及び宗教大臣等の始めとして300人を超える僧侶と共に宗教省に集い、セレモニーと双方による質疑応答を終えた後、午後には各派本山を始めとして市内4ヶ寺を巡りました。翌日航空機で第2の都市であるシェムリアップへ移動した一行は、2日早朝より待機していた現地の僧侶信者と共に市内4ヶ寺を巡り歩きます。各寺院では、小学校の生徒が沿道に一列に手を合わせて出迎え、そして人々の歓迎を受けて日本とカンボジアによる読誦が交互に行われました。「南無妙法蓮華経」の幟を先頭に団扇太鼓と唱題を響かせ、平和と繁栄を祈る総勢300人を超える僧侶と信者が列なって町々村々を行進する姿は、まさに圧巻と言えます。午後には世界遺産であるアンコールワット及びアンコールトムを巡って再び行進が行われ、最後にはシンセサイザーの伴奏と共に、現地語による「寿量品」が朗読され、自我偈を基に今回の為に作詞作曲された「永遠の真実を奏でて」が日本側の僧侶・信者によって合唱されました。今後のカンボジアの仏教界を担う僧侶・信徒の方々に、妙法蓮華経は確かな感動を与えているとの手応えを得ています。今回も行進がピークに達する頃には、現地上座部の若き僧侶達が団扇太鼓を手に、共に題目を唱えていく姿を見ることも出来ました。両日の模様は、各新聞や放送局によって大きく取り上げられ、ケーブルテレビを通じて世界にも発信されています。これも偏に、教主釈尊の御導きと諸天善神の御加護、ならびに参加者及び御賛助・御協力下さった皆様方の功徳の賜と感謝しております。以下は、宗教省主催のセレモニーにおいて、日本側事務局を代表して行われた挨拶文でございます。

昨年度「妙法の行進」の後、カンボジアにおける様々な社会問題が、非暴力・平和的方法によって行われつつあるとの報道が日本でもありました。これは、カンボジア国民の良心と道徳を護る使命を持つ皆様方僧侶が、宗派を超え、その力を合わせて国を思い、そしてカンボジアの国民の皆様に祈りを捧げた成果であると考えております。このような機会に、私ども日本の日蓮聖人門下が宗派を超えて参加し、そして法華経を皆様に是非と御紹介させて頂きますのは、この釈尊の説かれた法華経が社会の平和と繁栄を築くものであるからであります。そしてそれを築き上げる社会的な活動の中において、法華経を奉じる者は、僧侶のみならず一切の人々が、皆仏子としての自己の価値を発揮し、自己の実現を図ることが出来るようにと、釈尊がその大いなる慈悲を以って法華経を説かれているからであります。

この法華経の最も大事であるところは、16番目の章である寿量品を中心として説かれております。真理の側からすれば、遥かなる過去より永遠の仏である釈迦如来が、一切の衆生を救うために、理想の社会を、世界を浄土化せしめるために、大いなる慈悲を以ってこの世に降誕され、そして一切の人々に法を説かれたのでございます。これを現象の側から見るならば、約2500年前に釈迦族の王子として生まれたゴータマ・シッタルダが出家し、困難なる修行を経て、遂に無上の悟りを開き、そして永遠なる仏と自己が一体であるとの統一を成し遂げて、人々を救うため、理想の社会を築くために、一切の人々に法を説かれたのでございました。

この永遠の仏であることの真実を法華経で述べられる前に、釈迦如来は、遥かなる過去より自らが教化していたと言う数限りない菩薩達を大地の下より出現させております。真理の側からすれば、永遠の過去より、永遠の釈迦如来の弟子として、人々を救い、この苦しみ溢れる世界を浄土としようと修行してきた菩薩達であります。そして釈迦如来は、自らの実体である永遠の仏との自己統一を示したように、汝等も汝等の本質である、永遠の仏である私の弟子であることを覚り、そしてその永遠なる菩薩との自己統一を成し遂げるようにと示されたのでございます。そして、その教えを聞いた者達は、社会の矛盾と対立の中に身を投じても、これを耐え忍び、社会の平和と繁栄のために、統一と調和のために、法を護り、法を弘めることを誓ったのであります。

私たちが永遠なる菩薩との自己統一を図るためには、即ち私達の本体がその永遠なる菩薩であるとの自覚を得るためには、涅槃に入るとして身を隠されている釈迦如来が、実は今もなお、人々を苦しみから救い、そしてこの世界を理想化せしめるために、常に私たちを導いている事実を覚知し、そして自己の身体を釈迦如来の永遠の弟子としての活動に捧げ、慈悲を以って、そして畏れなく社会の中に於いて奮闘せねばなりません。僧侶である皆さんが奮闘することにより、一切の人々が皆、仏の子として自覚を持って、そしてこの国の平和と繁栄のために力を尽くすのであります。

かってカンボジア王国は、仏教により平和と繁栄を築いてきた優れた国であります。悲惨な内戦を経て、社会が未だ混沌としている今こそが復活の時であります。幸いなことに、カンボジアの国民の皆さんは、僧侶の方々に大変な敬意を持たれていることと思います。この復活を成し遂げるには、皆さんが是非ともその中心とならねばなりません。物質的には繁栄を成し遂げた日本ですが、残念ながら日本の仏教界は形骸化しているとの批判を受け、そして人々の精神は荒廃して、様々な社会的な問題が生じております。私達も今、当に復活しなければならない時であります。仏教界と宗教省が一致団結して、平和と繁栄を祈る「妙法の行進」を成し遂げる程のカンボジアのエネルギーを、私達は皆様方から頂き、日本に持ち帰り、そして私達も奮闘せねばなりません。お釈迦様の永遠なる弟子として、力を合わせて共に頑張って参りましょう。

カンボジア上座部仏教界・宗教省との親睦会議におけるスピーチ

皆様、今日は。
一般的に上座部仏教(テーラワーダ)とは、「自己の智慧の完成を先として、他者の救済をなすもの」とされ、そして大乗仏教(マハヤーナ)は「他者の救済を先として、自己の智慧の完成をなすもの」と理解されています。上座部仏教をテーゼとすれば、大乗仏教はアンティテーゼとして派生したと言えます。

仏教においては、一切のものは相対的な関係を以て成り立っていることは、皆様御周知のことであり、したがってテーゼがあればアンティテーゼが生じるのは至極自然のことであります。

しかしながら、仏教の発展の中においては不幸なことに、上座部仏教は根本であると主張して大乗仏教を釈尊の教えにあらぬ亜流とし、大乗仏教は上座部仏教を自利を図る小乗(ヒナヤーナ)と蔑み対立した歴史がありました。

矛盾する双方が自らの正しさばかりを主張して対立した場合には、互いを非難するばかりで発展はありません。力の差があれば、そこに生じるのは一時的な勝者と敗者でございます。

そこで、法華経において釈尊は「一乗」(エカヤーナ)を説かれました。声聞乗(スラーベカ・ヤーナ)、縁覚乗(プラティカブッダ・ヤーナ)、菩薩乗(ボーディサットバ・ヤーナ)の教えには、それぞれ差別があるけれども、これ等を超越して統一調和する概念がある。それこそが、仏の真実の教えであり、把握され実践されねばならないものだと説かれるものであります。

一切の活動的な世界には、矛盾や対立が生じます。この矛盾や対立と言うものは、即ち苦しみであります。そして、この矛盾や対立を乗り越え、これ等を超越したものを見出すことは、即ち人類の叡智と言われるべきものであります。これ即ち、釈尊の教えであり、導きであります。

一切の矛盾や対立をもつものが、その差別を超越して一つの統一的な概念を共有した場合には、それぞれの差別あるものは、それぞれの存在価値を活かしつつ向上し、また矛盾であり対立していたものが、互いを補完しつつ他の活性化を刺激して、全体を理想化せしめるのであります。世界の調和的平和と理想への発展も、斯様な活動の中で成し遂げられるものでございます。

「互いを尊重して平和に共存するのだ」と理想を声高に唱えても、結局それは互いの自尊心を満足させて、都合の良いところがあれば協力し、都合が悪ければ対立することの繰り返しでございます。

この矛盾と対立を超越して統一する概念を把握しようと努めなければ、分裂と差別は、さらなる分裂と差別を生じさせ、力の有る者と無き者、富める者と貧しき者の格差は拡大するのであります。また世界も、力の有る国と無き国、富める国と貧しき国に細分化され、矛盾と対立、即ち苦しみを拡大させるのであります。

日本の建国ならびに国民思想の構築は、法華経に基づいていたと言っても過言ではありません。しかしながら、今から約800年程前、日本の大乗仏教は分裂して、法華経に説かれた統一的・絶対的な釈尊を傍らに置き、それぞれがそれぞれに崇拝する仏を唯一として主張したのであります。力の有るものは国の政治と結託して、その権勢を拡大しました。思想は乱れ、国中に疫病・飢餓、天災・戦乱が渦巻く時代となりました。

そこに「法華経の精神に還るべし」「釈尊こそが、我等の本仏なり」と唱えたのが、私達の宗祖である日蓮聖人でございました。しかし、世の中が安泰としている時には、正しき者は称せられ、悪しき者は罰せられるものでありますが、世の中が乱れて邪な者が勢力を保っている時には、正しき者は却って迫害に遭うのが常でございます。そして、日蓮聖人もまた、例外ではありませんでした。

しかしながら、日蓮聖人は「法華経への信心を破るなかれ」「天の加護なきことを疑うなかれ」と、正義を貫くことを自ら実践し、私ども日蓮門下に教え残されたのでございます。

私が説明を申し上げるまでもなく、既にカンボジア仏教界の皆様は、法華経の思想というものを十分に御理解の上に、私達を快く歓迎して下さいました。このことは、一度は焦土となったカンボジアに、当に釈尊の導きが脈々と復活している証でございます。恥ずかしながら形骸化してしまった日本の仏教界にも、是非とも見せねばならないことであります。

一切の差別を超越して、統一調和する概念と言うものは、なかなか言葉には尽くせないものであります。しかしながら、それは統一的な活動を通して、直観的に把握される理念でもございます。

私どもは、カンボジア仏教界と日本の仏教界が、「妙法の行進」という統一的な活動を契機として、平和と繁栄を実現する妙法の実践を、世界に発信できることを切に願っております。また、そのために御尽力頂いたカンボジア仏教界ならびに宗教省の皆様方に、深く感謝を申し上げる次第でございます。本当に、有り難うございました。

カンボジア仏教大学 法華経講座土屋信裕

概要

1 挨拶

  1 最初に
 2 創価学会について


2 法華経の位置
  1 上座部仏教(Theravada)
  2 大乗仏教(Mahayana)
  3 法華経(Saddharma-pundarika-sutraと漢訳妙法蓮華経)

3 法華経の妙法(Saddharma)
  1 上座部(小乗)の縁起説は:
  2 大乗の縁起説の代表的なもの:
 3 法華経の妙法(縁起)

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